第97話 戻る道
第一席と別れてからは、しばらく歩いた。
しかし、全員もう限界だった。
林の中で身を隠し、交代で見張りを立て、雨の音に耳を澄ませながら、ただ身体が少しでも動くようになるのを待つ。
追手は来なかった。
王都側も教会側もすべて、第一席が止めてくれているのだろうか。
だからといって、油断は出来ない。
アシュはほとんど眠れなかった。
目を閉じるたびに、王都の石畳と、灰の村の火が、勝手に重なって浮かんだ。
半日だけ休んで、日が傾く前に林を出た。
そこからは、南西へ曲がりながら山沿いを進むしかなかった。
人目につく街道は避ける。
村と村のあいだを抜ける細い獣道みたいな道を、ノアがほとんど迷わず選んでいった。
道はぬかるみ、空はずっと曇ったままだった。
雨は止んでも、空気の奥に湿り気だけが居座り続けている。
一日目の終わりには、全員の足取りが目に見えて重くなった。
ノアは斬られた腕を庇っている。
ガルドは短剣だけで警戒を続けている。
ルゥの肩の傷は浅かったが、それでも時々足を止める。
フィアナは疲れているはずなのに、一度も弱音を吐かなかった。
アシュだけが、自分の身体がどこまで保つかを正確に測れなくなっていた。
痛みはある。
だが、痛みだけならまだいい。
厄介なのは、灰刻のあとに身体の奥へ残る、あの嫌な空白だった。
何かを削ったあとみたいに、力を入れた瞬間だけ内側が抜ける。
一日目の夜は、山道の途中にあった岩陰で休んだ。
火は焚かない。
温かいものもない。
乾いたパンを分け、水を回し、順番に壁へ背を預けて目を閉じる。
ガルドが不意に言った。
「思ってたより遠いな」
ノアが答える。
「まさかこれだけ消耗するとは思っていなかった」
「だな。生きてるのが奇跡だ」
ガルドは天を仰いだ。
アシュは何も言わなかった。
あの時、ラウゼンが来なかったら確実に死んでいた。
ラウゼンが別れ際に行った言葉。
あいつは俺に何を求めてる。
考えても、仕方がない。
アシュは目を閉じた。
二日目の朝、雨は少しだけ弱くなった。
だが、その代わりに霧が出た。
山肌に沿って白い霧が這い、視界を半分ずつ奪っていく。
前を歩くノアの背中さえ、少し離れると滲んで見えた。
ルゥが何度か足を止めた。
異形がいた。
王都の外で見たものほど数は多くない。
だが、山道の脇や倒木の影から、這い出すように現れる。
最初に来た時なら、ただ気味の悪い化け物としか思わなかっただろう。
今は違う。
脚が人間じみている。
喉の奥から漏れる声が、時々言葉に近い。
そして何より、それが苦しみから生まれたものだと分かってしまっている。
だから斬るたびに気分が悪かった。
アシュが一体を斬り伏せる。
ガルドがもう一体を蹴り倒す。
ノアが足場を崩し、ルゥが飛びかかる。
フィアナの白い光が一瞬だけ動きを鈍らせる。
勝てない相手ではない。
だが、削られる。
身体より先に、心の方が。
三日目に入る頃には、匂いが変わった。
土の匂い。
濡れた木の匂い。
それに混じって、かすかに焦げた灰の匂いが漂い始める。
アシュは無意識に呼吸を浅くした。
「……感じますか」
フィアナが小さく言う。
「ああ」
アシュが答える。
ルゥはその頃から、明らかに落ち着きをなくしていた。
前へ出る。
止まる。
少し戻る。
耳を立て、鼻先を上げ、何かを探るみたいに湿った空気を嗅ぎ続けている。
「ルゥも分かるんでしょうか」
フィアナの問いに、ノアが短く返した。
「分かってるだろうな」
「何がだよ」
ガルドが言う。
ノアは山道の先を見たまま答える。
「ここから先は、ただの山じゃないってことだ」
その言い方が、嫌に耳へ残った。
三日目の夜は、崩れかけた山小屋の残骸で休んだ。
屋根は半分落ちていたが、風を避けるには十分だった。
フィアナが濡れた布でルゥの肩を拭き、ガルドが刃を研ぎ、ノアが地図もないのに道を確認している。
アシュは壁際に座ったまま、外の暗さを見ていた。
灰の村へ戻る。
それはもう、目的地へ向かうというより、過去の中へ歩いていく感じに近かった。
四日目の朝、雨はほとんど止んでいた。
空は相変わらず曇っている。
だが、細い光が雲の向こうで滲んでいて、山の輪郭だけは少し見やすくなっていた。
道はさらに細くなる。
崩れた石段。
削れた土。
古い道標らしき杭。
人が住んでいる気配はもうどこにもない。
それでも、この道を知っている身体があった。
アシュは途中で一度だけ立ち止まり、前を見た。
何も言わずとも、全員が足を止める。
風が吹いた。
湿った冷たさとは別の、乾いた匂いが乗っている。
「……近いですね」
フィアナの声は、今まででいちばん低かった。
ルゥが喉の奥で小さく鳴く。
警戒ではない。
怯えと、何かに引かれる感じが混ざったような変な声だった。
ガルドが前を睨む。
「見えるか」
ノアは無言で顎をしゃくった。
山あいの向こう。
黒く沈んだ地形のあいだに、小さな影が見えた。
まだ輪郭だけだ。
村と断言できるほど近くはない。
それでも分かる。
あれだ。
灰の村だ。
アシュは小さく息を吐いた。
戻ってきたわけじゃない。
まだ着いてもいない。
なのに胸の奥はもう、冷えていた。
「……行くぞ」
低く言う。
誰も反対しなかった。
ただ、全員の足取りは重かった。
ここまで四日。
休みながら、削られながら、ようやく辿り着いた距離だった。
遠かった。
そして、まだ近づきたくなかった。
それでも、行くしかない。
灰の匂いは、もうごまかしようがなかった。




