第96話 列の外にいる者
さっきまで人影だったものが、はっきりと見えてきた。
整いすぎた顔立ちだった。
若くはない。
だが老いてもいない。
何より、そこにある感情が薄い。
人を見る目ではない。
使えるものと、使えないものを分ける目だった。
フィアナの肩がわずかに揺れた。
「この人……」
ノアが低く吐く。
「来たか」
ガルドが顔をしかめる。
「知ってんのか」
「ああ、知ってる」
ノアは視線を外さないまま答えた。
「王国の第二席セヴェリオ・ハイネスだ」
その一言で、林の空気がさらに冷えた。
アシュは小さく息を吐く。
「鬱陶しいのが来やがった」
ハイネスは、異形たちの後ろで立ち止まった。
「神子候補フィアナ・ルーシェ。お前を捕縛する。世界の秩序の為に」
淡々とした口調だった。
「それと」
そこでわずかに視線がアシュへ向く。
「王国の恥も、ここで片づける」
ガルドが吐き捨てる。
「随分と好き勝手言ってくれるじゃねえか」
ハイネスはガルドを見もしなかった。
「雑魚に用は無い」
言葉に熱がないぶん、余計に不快だった。
アシュは一体を斬り捨てながら、低く言う。
「教会が作った異形をけしかけて、最後は自分で処理か。ずいぶんと綺麗な王国の剣だな」
「これはある意味試験だ。実用性があるかどうかの」
ハイネスは即答した。
「使えるものを使う。使えないものは捨てる。それだけのことだ」
フィアナの顔色が変わる。
その物言いだけで十分だった。
この男は人も候補も異形も、全部同じ列で見ている。
ノアが短く言う。
「来るぞ」
次の瞬間、ハイネスが消えた。
「――!」
速い。
異形たちとは次元が違う。
アシュが目で追えたのは、雨の筋が一瞬だけ裂けたことだけだった。
気づいた時には、ハイネスはもう目の前にいた。
剣が振られる。
受けるしかない。
アシュはとっさに刃を立てた。
重い。
クレイグとも違う。
衝撃だけで、アシュの足が泥を滑る。
「っ……!」
「遅い」
ハイネスが言う。
言葉と同時に、もう二撃目が来ていた。
アシュは受け切れず、肩口を浅く裂かれる。
そのまま後ろへ飛ばされる。
「アシュさん!」
フィアナの声が飛ぶ。
だが、ハイネスはもうアシュを見ていなかった。
次はフィアナだ。
「下がれ!」
アシュが叫ぶより早く、ルゥが飛び出す。
白い影がハイネスへ噛みつこうとする。
ハイネスは剣を振らない。
半歩ずれるだけでルゥを外し、そのまま柄頭で側頭を打ち払った。
ルゥの身体が横へ弾かれる。
「ルゥ!」
フィアナが駆け寄ろうとする。
そこへハイネスの切っ先が向く。
ノアが術式を走らせた。
湿った地面が盛り上がり、ハイネスの足元を崩す。
だが、崩れたのはほんの一瞬だった。
視線だけを下へ落とし、踏み込みの角度を変えた。
それだけで術式の外へ抜ける。
次の瞬間、ノアの腹へ蹴りが入っていた。
「がっ……!」
ノアの身体が木へ叩きつけられる。
息が詰まり、そのまま膝をつく。
ガルドが短剣を投げる。
ハイネスはそれを見もしないで弾いた。
金属音と同時に、踏み込みがガルドへ向く。
「くっ!」
ガルドが咄嗟に避けたが、避けきれず胸付近を斬られる。
隊列が壊れる。
アシュが立ち上がる。
痛みを無視して踏み込む。
ハイネスの横から斬り込む。
受けられる。
そして押し返される。
今の自分では、まともにぶつかっても届かない。
クレイグよりさらに、無駄がない。
王国の剣として完成しすぎている。
「どうした?そんなものか」
ハイネスが言う。
その声には、優位に立った興奮すらない。
「薬も尽きたか」
アシュの目が細くなる。
「……何でそれを知ってる」
「知る必要があるから知っている」
返答はそれだけだった。
フィアナがはっきり息を呑む。
ガルドも顔をしかめる。
情報まで握っている。
やはり王都の中だけの話ではない。
ハイネスがゆっくり剣を構え直す。
「ここで終わりだ。お前の役目はとうに終わっている」
異形たちも、じわじわと後ろで輪を狭めていた。
逃げ道がなくなる。
アシュは剣を握り直した。
勝てない。
それでも止まれない。
ここで終わるわけにはいかない。
第二席が踏み込む。
今度は明確に、仕留めるための速さだった。
アシュも前へ出る。
二撃。三撃。
速い。押される。
脇腹が悲鳴を上げる。
腕が痺れる。
ガルドが動こうとした。
ノアも立ち上がろうとする。
フィアナはルゥを庇うように一歩前へ出る。
だが全部、遅い。
ハイネスの一撃が、アシュの剣を大きく弾いた。
「っ!」
刃が流れる。
身体が開く。
次が来る。
死ぬ。
その瞬間だった。
横合いから、轟くような風切り音が走った。
次の瞬間、アシュたちの前へ迫っていた異形がまとめて吹き飛ぶ。
黒い肉と泥が散る。
林の木々が揺れ、雨粒がばらばらと落ちた。
何が起きたのか、一拍遅れて理解する。
大剣だった。
馬鹿みたいに大きい刃が、異形をまとめて薙ぎ払っていた。
先頭の一体は胴を断たれ、二体目は肩口から地に叩きつけられ、三体目はそのまま木へ潰される。
異形たちの潰れた鳴き声が、雨音を押し潰した。
ハイネスが初めて大きく距離を取る。
「……」
その視線の先、雨の向こうから一人の男が歩いてきた。
異形が二体、反射みたいに飛びかかる。
だが男は止まらない。
振るわれた大剣が、今度は下から斜めに跳ね上がった。
一体目が宙で裂け、二体目は頭ごと吹き飛ぶ。
重いはずの大剣が、まるで重さを感じさせない。
力任せではない。
振るうたびに最短で異形だけを殺して前へ出る。
男はそのまま、アシュとハイネスのあいだへ歩み出る。
黒く長い上着。
濡れた金髪。
静かな目。
第一席アルベリク・ラウゼン。
ハイネスの目が細くなる。
「……まさかあなたが来るとはな」
ラウゼンは大剣をわずかに下げたまま、倒れた異形を見た。
「随分と派手にやっているみたいだな」
声は低い。
大きくもない。
だが、その一言だけで場の温度が変わる。
ハイネスが薄く口元を歪めた。
「王国の恥を処理していただけだ」
「教会の都合で、だろう」
その返しで、空気が凍る。
ガルドもノアも、フィアナも動けない。
アシュでさえ、一瞬何も言えなかった。
ハイネスは剣を構えたまま、ラウゼンを見た。
「知っていたか」
「当たり前だ。国の利になる内は見逃してきた」
ラウゼンの声は静かだった。
怒っているようにも聞こえない。
それでも、その場にいる誰よりも冷たかった。
ハイネスが薄く笑う。
「なるほど。ここで意見が分かれたという事ですかね」
「そうだ」
アシュは息を整えながら、ラウゼンの背を見る。
この男は味方ではない。
綺麗な正義の側でもない。
ただ、国の為に損得を天秤にかけている。
ハイネスが構えを深くする。
「では、王国最強と名高いあなたを殺す。アシュ・ヴァレンはその後だ」
「笑わせる」
ラウゼンはあっさり返す。
「だが、好都合だ」
その瞬間、二人が同時に動いた。
速い。
今までとは違う。
クレイグ戦とも、ハイネスとの交戦とも、明らかに別の領域だった。
剣がぶつかる。
火花が散る。
だが、音より先に位置が変わる。
見えない。
見えるのは、雨の筋が途中で断たれることと、木の幹に浅い傷が増えていくことだけだった。
アシュはそこで初めて、自分がいま戦場の外へ押し出されたのだと理解した。
もしラウゼンが入らなければ、この場で全員殺されていた。
それが嫌になるほど分かる。
ガルドが低く言う。
「……何なんだ、あいつら」
ノアが血を吐きそうな顔で笑う。
「化け物だろ」
フィアナはルゥを抱き寄せたまま、言葉もなかった。
ラウゼンとハイネスの剣は、もう林の奥へ移っていた。
そこだけ雨音の響き方が違う。
木々が揺れ、枝が落ちる。
ラウゼンが一歩だけ優勢を取る。
ハイネスの剣が流される。
そこへ最短の一撃。
血が飛んだ。
ハイネスが距離を取る。
だが、立て直す前にもう一歩詰められる。
「っ……!」
今度はハイネスの腕が裂ける。
ラウゼンは追う。
一切の躊躇がない。
ここで終わらせるつもりだ。
アシュはその背中を見ながら、ようやく息を吐いた。
そして同時に分かる。
ここにいるべきじゃない。
この二人の剣は、自分たちが割り込める場所ではない。
見ているだけで潰される。
ラウゼンの大剣が、低く唸った。
鈍い音ではない。
澄んだ、冷たい音だった。
ハイネスの剣が弾かれる。
体勢が崩れる。
そこへ間を置かず、返す刃が腕から胸元へ深く走った。
「っ……!」
ハイネスの身体が大きく揺れる。
それでも倒れない。
膝をつきかけて、なお剣を支えに立ち直ろうとする。
だが、ラウゼンは待たなかった。
踏み込みは一歩だけ。
次の瞬間には、大剣がハイネスの首を切り裂いた。
一瞬、音が無くなったような気がした。
ハイネスの身体が、雨に濡れた地面へ崩れ落ちる。
異形たちも、糸の切れた操り人形みたいに一斉に動きを止める。
何体かはそのまま泥へ沈み、何体かは立ったまま崩れた。
林の中に残ったのは、雨音と荒い呼吸だけだった。
ラウゼンは倒れたハイネスを見下ろし、血のついた大剣を一度だけ振って払った。
それからようやく、アシュたちの方へ半身だけ向ける。
「行け」
短い声だった。
全員がその一言を聞いた。
アシュは目を細めた。
「……なんであんたが。借りを作るつもりはない」
ラウゼンの淡々と返した。
「それはこっちの台詞だ。こいつを切る口実をくれた」
アシュは返さなかった。
返さないまま、雨の中に立つその男を見る。
ラウゼンはそこで、今度ははっきりアシュへ視線を向けた。
「お前が席を抜けたことを許したわけじゃない」
低い声だった。
「だが、お前がこの先で何を見るのかには興味がある」
ガルドもノアも、何も言わない。
フィアナだけが静かに息を呑んだ。
ラウゼンは続ける。
「灰の村へ行け」
その言葉に、アシュの眉がわずかに動く。
「そこにお前が求めているものがあるだろう」
雨が、金髪を濡らしている。
それでもラウゼンの目だけは、静かだった。
「もし生きて戻ってくるなら」
そこで一度、言葉が切れる。
「その時は、お前の剣が何を変えたのか、私が見定めてやる」
綺麗な励ましじゃない。
期待でもない。
試す者の声だった。
アシュは小さく息を吐いた。
「……んな事望んでねえよ」
「そうか」
ラウゼンは即座に返した。
その返しと同時に、大剣の切っ先がわずかに下がる。
もう会話は終わりだという合図だった。
ノアがすぐに言う。
「行くぞ」
ガルドも頷く。
フィアナはルゥを支えながら立ち上がる。
アシュは一瞬だけ、その場に残った。
ラウゼンはもうこちらを見ていない。
ハイネスの死体だけを見ている。
その背中は、味方にも敵にも見えなかった。
ただ、王国を守るために、斬るべきものを斬る人間の背中だった。
アシュは小さく息を吐き、踵を返す。
「行くぞ」
それだけ言って、林の奥へ踏み出した。
背後ではまだ雨が降っていた。
だが、もう剣戟の音はしない。
第96話でした。
今回は、第1席アルベリク・ラウゼンの圧倒的強さが際立ちました。
いよいよ、因縁の地。灰の村へ戻ります。
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