第100話 痛みの形
祈骸が、初めて大きく脈打った。
地下の空気そのものが、嫌なふうに揺れる。
アシュは剣を握ったまま、半歩だけ前へ出た。
動く。
そう思った瞬間、祈骸の表面に浮かんでいたいくつもの顔が、同時に口を開いた。
「……あつい」
「いたい」
「たすけて」
「いやだ」
声が重なる。
ひとつひとつは細い。
だが数が多すぎる。
呻きとも祈りともつかないものが、地下の円形広間に満ちていく。
フィアナが小さく肩を震わせた。
ルゥが唸る。
だが、その唸りにもいつもの勢いはない。
怯えを噛み殺すみたいな音だった。
祈骸の黒い塊から、腕のようなものが伸びた。
いや、腕ではない。
焼けた枝。
溶けた人の骨。
指だけが何本も絡まったような、見ているだけで気分が悪くなる形。
それが床を這い、こちらへ向かってくる。
「来るぞ」
ノアが低く言った。
直後、祈骸の表面から小さな異形が剥がれ落ちた。
一体。
二体。
三体。
村の外で見たものに似ている。
けれど、もっと不完全だった。
身体がまだ固まり切っていない。
歩くたびに形が崩れ、また歪んで戻る。
アシュは一体目を待たずに踏み込んだ。
首元へ刃を流す。
黒い液が飛び散る。
異形は潰れた声を漏らして崩れた。
だが、そこで終わらない。
崩れた異形の背中から、細い腕のようなものが伸び、アシュの足首を掴もうとする。
「ちっ」
アシュは踵で踏み砕いた。
嫌な感触だった。
骨でも肉でもない。
泥の中に、まだ何か生きているものを踏み潰したような感触。
ガルドが横から短剣を投げる。
刃は二体目の喉に突き刺さった。
異形がのけぞる。
その隙にルゥが飛び込んだ。
白い身体が黒い影へぶつかり、異形を床へ押し倒す。
「ルゥ!」
フィアナが声を上げる。
ルゥは異形の喉元へ牙を立てた。
だが次の瞬間、祈骸の中心から伸びた黒い枝が、横殴りにルゥを打った。
鈍い音がした。
ルゥの身体が床を転がる。
「ルゥ!」
フィアナが駆け出しかける。
「下がれ!」
アシュが叫ぶ。
その声と同時に、ノアが地面へ手をついた。
床の黒い筋が一瞬だけ盛り上がる。
いや、床そのものを持ち上げたのではない。
ノアが残っている石材と土の継ぎ目を無理やり起こしたのだ。
伸びてきた枝が、盛り上がった石に引っかかる。
ほんの一呼吸だけ止まった。
「今だ!」
ガルドが走る。
地面に転がった短剣を手に取り、前へ出た。
ガルドの刃が黒い枝の根元へ入る。
深くはない。
だが動きを鈍らせるには足りた。
アシュはその隙にルゥの前へ出て、枝を斬り払った。
黒い液が散る。
枝は断たれても、すぐに祈骸の方へ引き戻されていく。
傷口からは声が漏れた。
「……いたい」
アシュの手が、一瞬だけ止まりかける。
それは駄目だ。
止まれば、飲まれる。
分かっているのに、声が刺さる。
自分が焼いたものが、自分に痛みを訴えている。
「アシュ!」
ガルドの声で、アシュは我に返った。
祈骸の別の枝が、真横から迫っていた。
受ける。
重い。
剣と黒い枝がぶつかり、腕が痺れた。
「ぐっ……!」
押される。
ただの力ではない。
いくつもの人間に同時にしがみつかれているみたいな重さだった。
ノアが横から術式を走らせる。
黒い枝の足元、床の一部が陥没した。
重さがわずかに抜ける。
アシュはその瞬間を逃さず、剣を押し返した。
枝が弾かれる。
だが、今度は祈骸本体が動いた。
黒い塊全体が、ゆっくりと盛り上がる。
表面の顔がいくつもずれた。
腕が伸びる。
枝が伸びる。
人の形を失ったものが、束になってこちらへ押し寄せる。
「散れ!」
ノアが叫ぶ。
全員が左右へ飛ぶ。
次の瞬間、さっきまで立っていた場所へ、祈骸の腕が叩きつけられた。
床が割れる。
白い紋様が砕け、黒い泥が噴き出す。
衝撃が地下広間に走った。
フィアナがよろめく。
ルゥがすぐ横から身体を寄せ、支える。
ガルドは柱の陰へ転がるように避けた。
ノアも片膝をつく。
アシュは剣を床へ突き立てて、どうにか身体を止めた。
息が重い。
まだ一撃だ。
たった一撃で、この場の空気が全部変わった。
祈骸は遅い。
動きも鈍い。
だが、ひとつひとつが重すぎる。
避け損ねれば終わる。
受けても削られる。
「……まともにやり合える相手じゃねえな」
ガルドが吐き捨てる。
「分かってる」
アシュが返す。
「だが、回り込める場所もない」
円形広間の床には、白い紋様が広がっている。
その中心に祈骸がいる。
壁際へ逃げても、枝が伸びる。
柱の陰に隠れても、床ごと潰される。
逃げ場はない。
前へ出るしかない。
フィアナが小さく息を吸った。
胸元の白環が、淡く光る。
まだ弱い。
だが確かに、光はそこにあった。
「わたしが、動きを止めます」
「無茶すんな」
アシュが低く言う。
「でも、このままでは近づけません」
フィアナは祈骸を見たまま答えた。
声は震えていた。
だが、引く声ではなかった。
ノアが言う。
「一瞬でいい。あいつの腕を止めろ」
「できます」
即答だった。
本当にできるのか。
たぶん、本人にも分かっていない。
それでも、ここでできないとは言えない。
ガルドが短剣を握り直す。
「左はまかせろ」
「右は俺が押さえる」
ノアが言う。
傷ついた腕をかばいながらも、目はまだ死んでいない。
アシュは剣を構えた。
「俺が正面に入る」
フィアナが振り返る。
「アシュさん、無理は」
「するしかねえだろ」
それ以上は言わなかった。
言えば、止められる。
止められれば、足が鈍る。
ガルドが先に動いた。
左へ走る。
わざと音を立て、祈骸の枝を引きつける。
「こっちだ、このデカブツ!」
祈骸の顔がいくつか、ガルドの方へ向く。
同時に、枝が三本伸びた。
速くはない。
だが軌道が広い。
ガルドは一撃目を転がって避ける。
二撃目を短剣で弾こうとして、弾ききれず肩を掠めた。
「ぐっ……!」
血が飛ぶ。
それでもガルドは止まらない。
柱を蹴り、さらに奥へ走る。
その反対側で、ノアが術式を広げた。
床の石が歪む。
崩れた紋様の隙間から土と灰が盛り上がり、祈骸の右側の枝へ絡みつく。
完全には止まらない。
それでも一瞬、動きが鈍る。
「フィアナ!」
ノアが叫ぶ。
フィアナが両手を前へ出した。
白環の光が広がる。
強い光ではない。
祈骸を焼き払うようなものでもない。
ただ、泣いている子供の肩へ手を置くような、静かな光だった。
その光に触れた祈骸の表面が、一瞬だけ震える。
「……?」
声が変わった。
痛みの声の中に、戸惑うような響きが混じる。
枝の動きが止まった。
本当に、一瞬だけ。
だが十分だった。
アシュは床を蹴った。
真っ直ぐ中心へ走る。
祈骸の表面に浮かんだ顔が、いくつもこちらを向く。
「あつい」
「いたい」
「なんで」
「どうして」
声が刺さる。
アシュは歯を食いしばった。
答えられる言葉なんてない。
今さら何を言っても、届かない。
だから剣を振る。
黒い枝を斬る。
絡みつく腕を裂く。
中心へ一歩、また一歩近づく。
だが、祈骸はただ見ているだけではなかった。
床の黒い紋様が脈打つ。
アシュの足元から、細い腕が何本も生えた。
「っ!」
足を取られる。
剣を振って切り払うが、次の腕が膝へ絡む。
さらに背後から、祈骸の太い枝が迫る。
避けきれない。
ルゥが飛び込んだ。
白い身体がアシュの横を抜け、足元の腕に噛みつく。
引きちぎる。
だが、その瞬間、太い枝がルゥの胴へ入った。
ルゥが弾き飛ばされる。
フィアナの悲鳴が響いた。
「ルゥ!」
アシュの足が止まりかける。
だが、止まる前に祈骸の枝が正面から来た。
受けるしかなかった。
剣を立てる。
衝撃。
腕が潰れるかと思った。
アシュの身体が後ろへ飛ばされ、床を転がる。
背中を石に打ちつけ、息が詰まった。
「アシュ!」
ガルドの声が遠い。
アシュはすぐに起き上がろうとした。
だが、身体が一拍遅れる。
脇腹が焼けるように痛む。
肩も痺れている。
灰刻を使っていないのに、もう身体の奥が軋んでいた。
ノアも片膝をついていた。
術式を無理に使い続けたせいで、額に汗が滲んでいる。
傷ついた腕の包帯には血が広がっていた。
ガルドは左肩を押さえている。
短剣を落としてはいない。
だが、呼吸が荒い。
ルゥは床の上で身を起こそうとしていた。
白い毛に黒い液と血が混じっている。
フィアナはルゥの元へ駆け寄りたいのを堪えながら、両手を震わせていた。
全員が削られている。
それでも祈骸は、まだ本気で動いたようには見えなかった。
祈骸の中心が、また大きく脈打つ。
顔がいくつも開く。
「いたい」
「たすけて」
「あつい」
「おわらない」
その声に合わせて、床からまた腕が生える。
今度はさっきより多い。
広間のあちこちから、無数の腕がこちらへ伸びてくる。
「まずいな」
ノアが低く言った。
「このままじゃ、押し潰される」
「分かってる」
アシュは剣を支えに立ち上がった。
足元がふらつく。
それでも立つ。
次に踏み込めば、また潰される。
離れれば、フィアナたちが飲まれる。
普通に戦って勝てる相手じゃない。
そんなことは、もう十分すぎるほど分かった。
フィアナがアシュを見る。
何かを言いかけて、唇を結ぶ。
たぶん、分かったのだ。
アシュが何を考えたのか。
「アシュさん」
震えた声だった。
「駄目です」
アシュは返さなかった。
祈骸を見据えたまま、剣を握り直す。
身体の奥に、黒い熱が沈んでいる。
薬はもうない。
灰刻を使えば、今度こそ戻れないかもしれない。
それでも。
ここで止まれば、あの日から何も変わらない。
アシュは浅く息を吐いた。
「……次で行く」
低く言う。
フィアナの顔色が変わる。
ガルドが何か言いかける。
ノアも目を細める。
祈骸が、また脈打つ。
地下の空気が重く沈む。
アシュは剣を構えたまま、目を逸らさなかった。
次の瞬間、脈が一つ深く打つ。




