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灰の王は赦されない  作者: 星喰ゆう
最終章 祈りの先は

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101/103

第101話 灰刻の果て

 アシュの身体の奥で、黒い熱が目を覚ました。


 痛みが消えるわけではない。

 むしろ逆だ。

 骨の内側を焼かれるような熱が、肩へ、腕へ、脚へ、一気に広がっていく。


 視界の輪郭が鋭くなる。


 床から伸びてくる無数の腕。

 祈骸の表面で開く顔。

 黒い枝の先端。

 フィアナの震えた指先。

 その全部が、妙に遅く見えた。


「アシュさん!」


 フィアナの声が届く。


 止める声だった。


 分かっている。


 薬はもうない。

 これを使ったあと、自分がどうなるのかも分からない。


 だが、ここで使わなければ全員が飲まれる。


「下がってろ」


 アシュはそれだけ言って剣を構えなおす。


 フィアナが何かを言い返す前に、アシュは床を蹴った。


 速さが変わる。


 自分の身体ではないみたいに、足が前へ出る。

 剣が軽い。

 だが、軽さの奥で身体が悲鳴を上げているのも分かる。


 それを無視した。


 迫っていた腕をまとめて斬る。


 黒い液が弾ける。

 枝が裂ける。

 絡みつこうとした指が、空中でばらばらに散った。


「……あつい」


「いたい」


「やめて」


 声が降る。


 アシュは止まらなかった。


 止まれば、もう進めない。


 真正面から祈骸へ向かう。

 さっきまで届かなかった距離が、一気に縮まる。


 祈骸が反応した。


 黒い塊の表面が波打ち、無数の枝が壁のように広がる。

 広間そのものが、アシュを押し潰そうとしているみたいだった。


 アシュはその中心へ突っ込んだ。


 一撃目で枝を裂く。

 二撃目で絡みつく腕を落とす。

 三撃目で、祈骸の表面に浮かんだ顔の横を斬り開く。


 刃が通る。


 さっきまでとは違う。


 届いている。


 だが、斬ったそばから黒い泥が盛り上がり、傷を塞いでいく。


「くそ……!」


 アシュはさらに踏み込む。


 ガルドが左から走った。


「お前ばっかにやらせるかよ!」


 短剣を逆手に握り、祈骸の側面へ飛び込む。

 伸びてきた枝を避け、柱を蹴って角度を変え、そのまま根元へ刃を叩き込む。


 だが、浅い。


 祈骸の枝が、横からガルドの胴へ伸びる。


「ガルド!」


 ノアが叫び、床を沈めた。


 枝の軌道が落ちる。

 ガルドはぎりぎりで身を引いたが、左腕を深く掠められた。


「ぐっ……!」


 血が飛ぶ。


 それでもガルドは倒れない。

 短剣を握り直し、歯を食いしばる。


「まだだ」


 ノアも片膝をついたまま、術式を切らさなかった。


 崩れた床の石片が持ち上がる。

 土と灰が混じった塊が祈骸の枝へ絡みつき、動きをわずかに鈍らせる。


 そのたびに、ノアの傷ついた腕から血が滲む。


「無茶しすぎだ」


 ガルドが吐く。


「お前に言われたくない」


 ノアの声は細い。

 だが目はまだ前を向いていた。


 ルゥも立ち上がった。


 ふらついている。

 それでも白い身体を低く構え、フィアナの前へ出る。


 祈骸の細い腕がフィアナへ伸びた。


 ルゥが飛びかかる。

 牙で噛みちぎる。

 黒い液が白い毛へ散った。


 だが、すぐに別の腕がルゥの背へ絡みつく。


 ルゥが短く鳴いた。


「ルゥ!」


 フィアナが手を伸ばす。


 白環が淡く光った。


 腕の動きが、一瞬だけ鈍る。


 その隙にルゥは自分で身体を捻り、絡みついた腕を引き裂いて抜け出した。

 だが、着地した足がわずかに崩れる。


 もう全員が限界だった。


 それでも、アシュは前へ出続けていた。


 灰刻の熱が身体を押す。

 剣はまだ振れる。

 足も動く。

 見える。

 祈骸の枝が来る場所も、床から腕が出る前の黒い歪みも、全部見える。


 斬っても、戻る。

 裂いても、塞がる。

 近づいても、中心までは届かない。


 祈骸の中心にある黒い塊は、まだ奥に沈んでいる。

 まるで無数の痛みが、その核を守るように覆い隠していた。


「どけ……!」


 アシュは吠えるように言い、剣を振り下ろした。


 強引な一撃だった。


 枝も腕もまとめて断ち、祈骸の表面を大きく斬り開く。


 黒い泥が吹き出した。


 その奥に、一瞬だけ何かが見えた。


 小さな黒い核。

 鼓動するように震える、硬い塊。


 あれだ。


 アシュはさらに踏み込もうとした。


 だが、その瞬間。


 祈骸の中の顔が、いくつもアシュを見た。


「なんで」


「どうして」


「あつい」


「いたい」


「おまえが」


 最後の声だけが、やけにはっきり聞こえた。


 アシュの足が止まる。


 止めるな。


 そう思った。


 だが、声が喉元を掴む。


 おまえが。


 その言葉だけで、全身の熱が一瞬だけ冷えた。


 祈骸の表面が閉じる。


 核がまた奥へ隠れる。


「アシュさん!」


 フィアナの声。


 直後、祈骸の太い枝が正面から迫った。


 アシュは反応した。


 剣を立てる。


 だが遅い。


 衝撃が全身を貫いた。


 身体が浮く。

 背中から床へ叩きつけられる。


 肺の中の息が全部抜けた。


「がっ……!」


 視界が白く弾ける。


 それでも、アシュは剣を離さなかった。


 起き上がろうとする。

 腕が震える。

 指先が黒く染まりかけているのが見えた。


 灰刻の熱が、いつもと違う。


 身体を強くするだけではない。

 中から何かを引き裂き、別のものへ作り替えようとしている。


 フィアナがそれに気づいた。


「アシュさん、もうやめてください!」


 今度は叫びだった。


「そのままじゃ、本当に……!」


 アシュは答えなかった。


 答えられなかった。


 喉の奥が焼ける。

 呼吸が荒い。

 視界の端に黒いものが滲んでいる。


 それでも、祈骸は止まらない。


 床から生えた腕が、ガルドの足へ絡みつく。


「っ、この……!」


 ガルドが短剣で斬る。

 だが斬った先から別の腕が伸びる。


 ノアが術式で床を崩す。

 しかし、今度は崩れた床そのものから黒い泥が湧いた。


「駄目だ」


 ノアが歯を食いしばる。


「この場そのものが、あいつの身体みたいになってる」


 ルゥがフィアナの前で唸る。

 その声にも力がない。


 祈骸の中心がまた脈打った。


 地下広間の白い紋様が、黒く染まっていく。


 顔が増える。


 声が増える。


「あつい」


「いたい」


「たすけて」


「おわらない」


「おわりたくない」


 終わりたいのか。

 終わりたくないのか。


 たぶん、そのどちらも残っている。


 痛みから解放されたい。

 でも、消えたくない。

 選ばれたい。

 助かりたい。

 憎い。

 苦しい。


 全部が混ざって、祈骸になっている。


 アシュは膝をついたまま、それを見た。


 剣を握る手が震える。


 灰刻を使っても届かない。


 その事実が、重く腹の底へ落ちた。


 ガルドもノアもルゥも、もうこれ以上長くはもたない。

 フィアナの白環も、今のままでは祈骸の表面を一瞬鈍らせるのが精一杯だ。


 このままでは、全員が飲まれる。


 フィアナが一歩、前へ出た。


 ルゥが止めるように鼻先を押しつける。

 それでもフィアナは、静かに首を振った。


「……違うんです」


 小さな声だった。


 だが、不思議とよく響いた。


 アシュが顔を上げる。


 フィアナは祈骸を見ていた。

 怯えている。

 顔色も悪い。

 手も震えている。


 それでも、目を逸らしていなかった。


「フィアナ」


 アシュが低く呼ぶ。


「下がれ」


 フィアナは下がらなかった。


「この声は、まだここにいます」


 白環が、ゆっくり光を強める。


「痛くて、苦しくて、でも消えたくなくて、ずっとここに縛られている」


 祈骸の声がざわついた。


「あつい」


「いたい」


「いやだ」


「たすけて」


 フィアナはその声の中で、両手を胸元へ重ねた。


「わたしには、救えないかもしれない。でも、終わらせてあげたい」


 白環の光が、さっきより強くなる。


 けれど、その光はまだ広がりきらない。

 祈骸の黒い圧に押されて、胸元でかすかに揺れているだけだった。


 フィアナ自身も、それが分かっているようだった。


 それでも彼女は目を閉じた。


「祈ります」


 静かに言った。


「今度は、選ばれるためじゃなく」


 祈骸が、大きく脈打った。


 まるで、その言葉を拒むように。


 無数の腕が、フィアナへ向かって伸びる。


 アシュは立ち上がった。


 身体はもうまともに動かない。

 灰刻の反動で、視界も揺れている。


 それでも、フィアナの前に出る。


 ルゥも並んだ。

 ガルドも、ノアも、傷だらけのまま立ち上がる。


 全員が、フィアナの前に立った。


 フィアナの白環が、静かに強く光り始める。


 その光が、地下の黒い空気を少しだけ押し返した。


 祈骸の奥で、隠れていた核が、ほんの一瞬だけまた脈打つ。


 アシュはそれを見た。


 今度こそ、見失わなかった。


 だが、まだ届かない。


 フィアナの祈りが必要だ。


 そして、その祈りが届くまでのわずかな時間を、誰かが守らなければならない。


 アシュは剣を握り直した。


 黒く染まりかけた指に力を込める。


「……分かった」


 掠れた声だった。


「お前が届かせろ」


 フィアナは目を閉じたまま、小さく頷いた。


 祈骸の腕が迫る。


 地下の空気が、悲鳴のように震えた。

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