第102話 すまない
祈骸の腕が迫る。
地下の空気が、悲鳴のように震えた。
アシュはフィアナの前に立ったまま、剣を構える。
身体はもう限界だった。
灰刻の熱が内側で暴れ、指先は黒く染まりかけている。
息を吸うだけで喉が焼けた。
それでも退けない。
背後で、フィアナが祈っている。
今度は、選ばれるためではなく。
終わらせるために。
祈骸の腕が落ちてきた。
「来るぞ!」
ガルドが叫ぶ。
アシュは剣を振り上げた。
受けるのではない。
受ければ潰される。
斬るしかない。
黒い腕と刃がぶつかる。
骨の奥まで響く衝撃。
腕が痺れる。
膝が沈む。
それでも、アシュは剣を押し込んだ。
「っ……!」
黒い腕が裂ける。
だがその奥から、また別の腕が伸びる。
ガルドが左から飛び込んだ。
「こっちも見ろ!」
短剣を突き立てる。
深くは入らない。
それでも、祈骸の枝の一本がガルドへ向いた。
その一瞬で十分だった。
ノアが床に手を叩きつける。
石と灰が盛り上がり、祈骸の腕に絡みつく。
すぐに砕かれる。
それでも動きはわずかに鈍った。
ルゥが低く唸る。
白い身体はふらついている。
だが、それでもフィアナの前から動かない。
伸びてきた細い腕へ飛びかかり、牙で引きちぎった。
黒い液が飛び散る。
ルゥの白い毛が、また汚れる。
フィアナは目を閉じていた。
両手を胸元で重ね、白環の光だけが少しずつ強くなっていく。
最初は淡かった。
小さな灯のようだった。
だが今は違う。
地下の黒い空気の中で、その光だけが消えずに残っていた。
「……聞こえます」
フィアナが呟く。
声は震えている。
でも途切れない。
「痛い声も、怖い声も、帰りたい声も」
祈骸の表面に浮かぶ顔が、ざわめいた。
「あつい」
「いたい」
「いやだ」
「たすけて」
声が増える。
フィアナの顔が歪む。
たぶん、全部聞こえている。
アシュたちがただ雑音として聞いているものを、フィアナはもっと深いところで受け取っている。
「全部を救えるなんて言えません」
フィアナは祈骸を見た。
目を開けていた。
涙が浮かんでいる。
けれど、視線は逸れない。
「でも、もうここに縛られなくていいんです」
白環が強く光った。
地下全体が、白く揺れる。
祈骸が拒むように脈打った。
無数の腕が、フィアナへ向かって伸びる。
アシュは前へ出た。
灰刻の熱が、さらに深く身体を食い破る。
黒いものが腕を這い上がってくる。
皮膚の下で何かが蠢く。
まずい。
自分でも分かった。
もう、人間の身体として保っている境が薄くなっている。
だが今だけでいい。
今だけ、動けばいい。
アシュは剣を振った。
一本。
二本。
三本。
祈骸の腕を斬り落とす。
しかし数が多い。
斬った端から、次が伸びてくる。
ガルドが横で倒れかける。
ノアの術式も途切れかけている。
ルゥも、もう足が震えていた。
それでも誰も退かない。
フィアナの光が、地下の黒い紋様へ染み込んでいく。
黒く濁っていた白い線が、少しずつ本来の色を取り戻していく。
床に残っていた祈りの残骸が、光を受けて震えた。
祈骸の声が変わる。
「……あつい」
「……いたい」
「……かえりたい」
最後の言葉に、アシュの胸が詰まる。
帰りたい。
そんなもの、もうどこにもない。
家は焼けた。
人は死んだ。
村も残っていない。
それでも、その声はまだ帰ろうとしている。
フィアナの光がさらに広がった。
祈骸の表面が震える。
黒い泥の奥で、何かが剥がれていく。
覆い隠していた痛みが、少しずつほどける。
中心が見えた。
黒い核。
小さく、硬く、脈打つ塊。
無数の顔と腕と祈りに守られていたもの。
今だけ、露わになっている。
「アシュさん!」
フィアナが叫ぶ。
アシュは答えなかった。
答える代わりに、床を蹴った。
身体が軋む。
黒い熱が心臓を掴む。
視界の端が歪む。
だが、核だけは見えていた。
今度こそ、見失わない。
祈骸が最後の抵抗を見せる。
すべての顔が口を開いた。
「いたい」
「あつい」
「いやだ」
「たすけて」
「おまえが」
「おまえが」
「おまえが」
何度も重なる。
アシュの足は止まらなかった。
今さら否定できない。
言い訳もできない。
赦されるとも思っていない。
だから、たった一言だけでよかった。
核の前まで届く。
剣を振り上げる。
黒い腕が背中へ突き刺さるように伸びる。
肩を裂く。
脇腹を掠める。
痛みが走る。
それでも、アシュは剣を下ろした。
「すまない」
声は小さかった。
だが、確かに口から出た。
刃が核を貫く。
硬い感触。
次いで、砕ける音。
黒い核が割れた。
その瞬間、地下のすべての声が止まった。
いや、消えたわけではない。
息を呑んだみたいに、静かになった。
祈骸の表面に浮かんでいた顔が、ひとつ、またひとつと崩れていく。
黒い泥が灰へ変わる。
絡み合った腕がほどける。
枝のようだったものが、乾いた灰となって床へ落ちる。
フィアナの白い光が、その灰を包んだ。
声が聞こえた。
「……さむい」
次の声は、少しだけ違った。
「……もう、いい」
誰の声だったのかは分からない。
子供だったのか。
大人だったのか。
村人だったのか。
器になれなかった誰かだったのか。
分からないまま、光の中へ溶けていく。
祈骸が崩れる。
重く、ゆっくりと。
円形広間を満たしていた黒い圧が、少しずつ薄れていく。
息ができる。
だが、アシュはその場に立っていられなかった。
剣を引き抜いた瞬間、身体の奥で何かが裂けた。
「っ……!」
膝が落ちる。
灰刻の熱が暴れ出す。
今まで押さえつけていたものが、一気に噴き上がったみたいだった。
指先から腕へ、黒い筋が走る。
首筋が焼ける。
呼吸が濁る。
視界の端に、黒いものが広がっていく。
まずい。
そう思った時には、もう身体が言うことをきかなかった。
「アシュさん!」
フィアナの声がする。
近い。
だが遠く聞こえる。
「来るな」
言ったつもりだった。
声になったかは分からない。
アシュは床に片手をついた。
黒く染まりかけた指が見える。
祈骸は消えた。
だが、自分の中に押し込めた歪みは消えていない。
灰刻で無理やり引き出し、薬もなく暴れさせたものが、今度は自分を作り替えようとしている。
人ではないものへ。
フィアナがアシュの前に膝をついた。
「駄目です」
泣きそうな声だった。
「そっちへ行かないでください」
「……離れろ」
ようやく声が出た。
掠れていた。
「嫌です」
即答だった。
フィアナは両手をアシュの頬へ伸ばした。
アシュは避けようとした。
だが身体が動かない。
フィアナの白環が、これまでで一番強く光った。
地下に残っていた闇が、全部その光へ吸い寄せられるみたいだった。
アシュの中で暴れていた黒い熱が、フィアナの手に触れた瞬間、激しく脈打つ。
「っ……!」
フィアナの顔が苦痛に歪む。
アシュは目を見開いた。
「やめろ」
低く言う。
「それは俺のものだ」
「違います」
フィアナは苦しげに息を吸った。
「これは、あなた一人で抱えるものじゃありません」
「違う」
アシュの声が荒くなる。
「俺がやったことだ」
「それでも」
フィアナの白環がさらに光る。
「あなたが、人じゃなくなっていい理由にはなりません」
黒い熱が、アシュの身体から剥がされていく。
薬とは違った。
薬は、痛みを無理やり押し込めるものだった。
暴れるものに蓋をして、立っていられるようにするだけのもの。
これは違う。
身体の奥に噛みついていた歪みそのものを、引き剥がされている。
痛みはある。
傷も残っている。
疲労も消えない。
それでも、灰刻のあとにいつも残る、あの黒い濁りだけが薄れていく。
深いところから、息が戻る。
代わりに、フィアナの身体が揺れた。
「フィアナ」
アシュが呼ぶ。
フィアナはかすかに笑った。
笑ったように見えただけかもしれない。
「……よかった」
小さな声だった。
そのまま、フィアナの身体から力が抜けた。
白環の光がすっと弱まる。
フィアナが倒れる。
アシュはとっさに腕を伸ばした。
まだまともに動く身体ではない。
だが、間に合った。
倒れかけたフィアナを抱きとめる。
「おい、フィアナ」
返事はない。
アシュの喉が詰まる。
「フィアナ」
もう一度呼ぶ。
腕の中の身体は軽かった。
顔色は悪い。
呼吸も浅い。
だが、息はある。
頬にかかった髪を払うと、かすかな吐息が指先に触れた。
生きている。
その事実だけで、アシュの肩から力が抜けた。
「……よかった」
掠れた声だった。
直後、眉を寄せる。
「ったく、無茶しやがって」
誰に言っているのか分からない声だった。
フィアナは答えない。
けれど、その表情はさっきまでより少しだけ穏やかだった。
ルゥがふらつきながら近づいてくる。
白い毛は汚れ、ところどころ黒く染まっている。
だが、さっきまで身体の奥に走っていた黒い筋はもう見えなかった。
ルゥはフィアナの手元へ鼻先を寄せ、小さく鳴いた。
ガルドが近くへ来る。
肩から血を流している。
それでも、倒れはしなかった。
「……終わったのか」
アシュは周囲を見る。
祈骸はもうなかった。
黒い塊も、絡み合った腕も、痛みの声もない。
円形広間には、白い灰だけが静かに積もっていた。
ノアが壁に背を預けながら言う。
「たぶんな」
声に力はない。
だが、いつものように冷静だった。
「少なくとも、もう動く気配はない」
アシュはフィアナを抱いたまま、黙って灰を見た。
終わった。
本当にそう言っていいのかは分からない。
村は戻らない。
死んだ者も戻らない。
自分がしたことも消えない。
ただ、焼かれ続けていた声だけは、ようやく止まった。
それだけだった。
それでも。
それだけをするために、ここまで来た。
アシュはフィアナを抱き直し、ゆっくり息を吐いた。
地下の空気はまだ冷たい。
けれど、さっきまであった重さは、もうなかった。
灰だけが、静かに降っていた。




