第94話 林に満ちる気配
目を閉じても、眠りには落ちなかった。
雨音がずっと耳の奥に残っている。
細い。弱い。けれど絶えない。
木々を叩き、葉を伝い、地面へ落ちるその音が、妙に神経へ触ってくる。
アシュは木の幹へ背を預けたまま、浅く息を吐いた。
肩。脇腹。脚。
どれも折れてはいない。
だが、まともに戦える状態ではない。
少し離れたところで、ノアが腕を抑えながら木に背を預けて座っていた。
ガルドは少し離れた林の縁に立っていた。
見張りだ。
弓はもうない。折られた。
代わりに腰の短剣を抜いて、刃先についた泥を親指で拭っている。
フィアナはアシュのすぐそばにいた。
何も言わない。
ただ、近くにいる。
ルゥだけが時々落ち着きなく立ち上がっては、少し先まで行き、また戻ってくる。
普段より耳が立っている。
警戒しているのだろう。
「……寝てください」
フィアナが小さく言った。
「こんな状況で寝れるかよ」
「寝なくても、目は閉じてください」
フィアナは怒っているわけではない。
だが、怒っている時みたいな顔をしていた。
「お前、たまに面倒だな」
「お互い様です」
即答だった。
その返しにだけ、アシュは少しだけ息を漏らす。
笑ったのか、痛みに顔が歪んだのか、自分でも分からない。
たぶん両方だ。
「水、飲みますか」
フィアナが訊く。
「ああ」
差し出された水袋を受け取り、少しだけ喉へ流す。
冷たい。
その冷たさが、逆に身体の中の熱を思い出させた。
ガルドがそこで口を開く。
「どれくらい休めば動ける」
ノアはアシュを見ながら答えた。
「半日くらいは必要だろ」
「長えな」
「足りないくらいだ」
短い返しだった。
アシュはもう、強がって返せる身体じゃないことくらい分かっていた。
アシュは木の幹へ頭を預けたまま、雨の向こうを見る。
林の外は白く曇っている。
遠くまでは見えない。
王都の影も、もうここからは見えなかった。
「教会は今日中には追手を寄こしてくると思うか」
アシュが言うと、ノアは少しだけ黙った。
「たぶんな」
「早えな」
ガルドが吐く。
「外へ出たばっかだぞ」
「むしろ外に出た方が、あいつらには好都合だろう」
ノアが言う。
「王都の中より、外の方が処理しやすい」
それは嫌になるほどよく分かった。
教会本部の一部を壊して逃げた一行。
神子候補。
白獣。
元第七席。
王都の中では目が多すぎる。
だが外なら、目立たない。
その会話の間にも、ルゥがまた立ち上がった。
今度は少し長く、林の奥を見ている。
フィアナがそれに気づいた。
「ルゥ?」
白い獣は返事をしない。
耳だけが動く。
鼻先を上げ、湿った空気の匂いを拾っている。
アシュの目が細くなる。
「何かいるか」
ルゥは一度だけ低く喉を鳴らした。
ガルドが短剣を握り直す。
ノアもようやく振り返った。
林の中は静かだった。
雨音と、葉の擦れる音しかない。
だが、その静けさが逆に嫌だった。
ガルドがゆっくり戻ってくる。
「人じゃないかもしれねえぞ」
「じゃあ何だ」
「まだ分からない」
アシュは立ち上がろうとして、身体が少しだけ遅れた。
フィアナがすぐ肩へ手をかける。
「無理しないでください」
「無理しなきゃどうする」
「まだ来ると決まったわけじゃ」
言い終わる前に、ルゥがはっきり唸った。
それで十分だった。
ガルドの表情が変わる。
ノアも木から背を離した。
林の外、雨の向こうに、何かがいる。
人影ではない。
だが獣でもない。
白く霞んだ向こうで、黒いものが低く動いた。
「……魔物か?」
ガルドが言う。
ノアは首を横に振った。
「違う」
「じゃあ何だ」
「分からない。だが、普通じゃない」
それはそうだった。
四つ足に近い。
だが、動きが不自然だ。
関節の曲がり方も、頭の位置も、どこか人間の失敗みたいに見える。
フィアナの顔色が変わる。
「これ……」
その声だけで、アシュには十分だった。
ノアが低く言う。
「立てるか」
「立つしかねえだろ」
アシュが答える。
その時、林の向こうの黒い影がひとつではないと気づいた。
二つ。
三つ。
雨の幕の向こうで、じわじわと増えていく。
ガルドが吐き捨てる。
「休ませる気ゼロかよ」
「ありがたい話だな」
アシュの声は乾いていた。
戦える状態ではない。
だが、戦わなければ終わる。
ノアが短く言う。
「奥へ下がる。林の中で迎えた方がまだましだ」
誰も異論は挟まなかった。
ここで議論している暇はない。
全員が少しずつ位置を変える。
アシュが前。
ガルドが左。
ノアが右。
フィアナはルゥのすぐ後ろ。
雨はまだ止まない。
灰の村へ向かう道の途中で、教会の残り火はもう追いつき始めていた。
第94話でした。
今回は道中の小休止から、教会側の追手?が迫ってきました
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