第92話 灰刻
灰刻。
黒い熱が、身体の奥から一気に這い上がる。
脈が深く打つたび、骨の内側にまで歪みが染み込んでいくみたいだった。
痛みは消えない。
消えるどころか、もっと濃くなる。
それでも、さっきまで鈍く重かった身体が、無理やり前へ押し出される。
視界の輪郭が研ぎ澄まされる。
クレイグの剣先。
肩の入り。
踏み込みの癖。
その全部が、半拍遅れて見える。
クレイグの目がわずかに細くなった。
「来い、アシュ・ヴァレン」
低い声だった。
アシュは答えない。
次の瞬間には、もう前へ出ていた。
クレイグが剣を振るう。
さっきまでなら受けるしかなかった軌道を、今度は半歩で外す。
避けざま、肘から先だけを使うみたいな最小の振りで斬り返す。
クレイグがそれを受ける。
だが、受けた瞬間にその表情が初めて変わった。
重い。
さっきまでのアシュとは明らかに違う。
剣そのものの速さも、踏み込みの深さも、一段ではない。
二段か、それ以上か。
痛みをごまかしているのではなく、痛みごと前へ押し込んでくる剣だ。
「はっ……!」
アシュがもう一歩詰める。
クレイグも下がらない。
刃がぶつかる。
今度は押し込める。
ほんの少しだけでも、確かに押せている。
クレイグが剣の角度を変える。
受け流すつもりだ。
アシュにはそれが見えている。
先に力を外し、押し返されるはずだった自分の剣を逆に沈めた。
剣先が低く走り、クレイグの膝を狙う。
クレイグがとっさに脚を引く。
その反応だけで十分だった。
アシュはそのまま身体を捻り、下から斬り上げる。
「っ!」
クレイグの剣が遅れて噛み合う。
だが、完全には間に合わない。
肩口の布が大きく裂け、血が飛んだ。
フィアナが息を呑む。
ガルドも目を見開いていた。
「一気に流れが変わった……」
「ここで決める気だ……」
ノアが傷口を押さえたまま吐く。
その声に、警戒と嫌悪が半分ずつ混ざっている。
ルークだけは、黙って見ていた。
立ったまま、傷ついた腕を押さえ、アシュの動きから目を離さない。
クレイグが一度だけ後ろへ滑る。
だがすぐに止まり、血のにじむ肩を気にも留めず構え直した。
「なるほど」
声は低いままだった。
「王国がどこまで歪んだものを抱え込んでいたか、少し見えた」
アシュの目が細くなる。
「知った風な口きくな」
「知っているとは言っていない」
クレイグは剣先を上げた。
「だが、まともなものではないな」
「今さらだろ」
アシュが吐き捨て、また踏み込む。
クレイグも迎え撃つ。
今度は守りに寄らない。
真正面から応じる。
刃がぶつかるたび、火花が散る。
アシュの剣は重く、鋭く、さっきまでとは別物だった。
だがクレイグも、押されながら崩れない。
一撃を受ければ、二撃目の角度を先に作る。
三撃目が来る頃には、自分の刃を次の最短へ置いている。
戦い方の芯がぶれない。
強い。
ヴァルトよりも。
たぶん、ここまで戦ってきた誰よりも。
それでも、今は届く。
アシュは一度だけわざと真正面から振り下ろした。
重く、鈍く、避けにくい軌道。
クレイグが受ける。
その瞬間に、アシュはもう剣を引いていた。
押し合うと思った先が消える。
重心が前へ流れる。
そこへ、横から最短の一撃を叩き込む。
クレイグは受けた。
だが遅れる。
「ぐっ……!」
今度は脇腹。
浅くない。
血が石畳へ落ちる。
クレイグが初めて大きく距離を取った。
呼吸は乱れていない。
だが、もうさっきまでの顔ではない。
肩や脇腹。
細かい切り傷も増えている。
「押してる……」
フィアナが小さく言う。
「いや」
ノアが低く返す。
「まだだ。あの男、折れてない」
その通りだった。
クレイグはまだ折れていない。
むしろ、そこでようやく本当にアシュを敵として受け止めきった顔になっていた。
「来い」
自分から言った言葉を、もう一度返すように低く吐く。
そのまま踏み込む。
クレイグの剣が、今までで一番深く入ってきた。
守るためではない。
刺し違えてでも止めるつもりの踏み込みだ。
アシュも退かない。
刃が交わる。
嫌な音が鳴る。
互いの身体が近い。
近すぎる。
クレイグの肘が飛ぶ。
アシュは肩で受ける。
そのまま額がぶつかりそうな距離で、二人とも剣をねじ込む。
「お前は」
クレイグが低く言う。
「その力の果てに、何を見る」
アシュは息を荒げながら答えた。
「見なきゃならねえもんがある」
それだけだった。
灰の村。
焼いた村。
終わっていない祈り。
フィアナ。
ルゥ。
その全部を、まだ見ないまま死ぬわけにはいかない。
アシュはそこで、自分の剣から力を抜いた。
一瞬だけ。
クレイグが押し込む。
待っていた圧だ。
だが、その圧ごと利用する。
半身をひねり、押し込まれる勢いのまま横へ抜け、クレイグの背後へ回る。
クレイグも振り向く。
だが、わずかに遅い。
アシュの剣が、肩口から背へかけて深く走った。
「っ……!」
クレイグの身体が崩れる。
それでも倒れない。
膝をつきかけて、なお剣を支えに立ち直ろうとする。
アシュはそこへ追いつく。
もう一撃。
「くっ……」
クレイグの防御は間に合わなかったが、アシュも痛みで軌道が逸れた。
そのせいで首元ではなく、浅く胸元に剣が落ちた。
クレイグの身体が石畳へ落ちた。
静かになった。
雨音だけが残る。
アシュは剣を下ろさなかった。
まだ終わっていないかもしれない。
そういう相手だった。
だが、クレイグは起き上がらなかった。
死んではいない。
だが、とどめを刺す気にはなれなかった。
ガルドがようやく息を吐く。
「……勝ったのか」
「ああ、アシュの勝ちだ」
ノアが即座に言った。
傷を押さえながらでも、その判断は早い。
ルークが壁際で立ち尽くしていた。
クレイグが倒れたのを見て、さすがに顔色が変わっている。
アシュはそこでようやく、一歩だけよろめいた。
灰刻の熱が急に落ち始める。
引いたのではない。
身体の内側で暴れながら、今度は全部まとめて反動へ変わろうとしている。
「っ……」
膝が落ちかける。
「アシュさん!」
フィアナが駆け寄る。
ルゥも同時に横へついた。
アシュは無理やり立ったまま、腰の袋へ手をやる。
最後の一本。
黒い薬瓶を取り出す。
アシュは栓を抜き、迷わず喉へ流し込んだ。
苦い。
喉が焼ける。
腹の底に落ちた瞬間、さっきまで暴れていた黒い熱が無理やり押し込められる。
楽にはならない。
むしろ痛みの輪郭だけがくっきりする。
それでも、ここで倒れるよりはましだった。
アシュは、倒れたクレイグを見る。
このまま追撃が来れば、もうかなりまずい。
薬はこれで最後。
灰刻も、もうまともには使えない。
「……ルーク」
アシュが低く呼ぶ。
ルークの目が動く。
「今のお前じゃ、もう何もできねえ」
「分かってる」
声が苦い。
「でも、ここで逃がしたら」
その時だった。
倒れていたクレイグが、ごくわずかに息を吐いた。
全員の視線がそちらへ向く。
クレイグは石畳に片手をつき、どうにか顔を上げた。
血が流れている。
呼吸も浅い。
「……見事だ」
低い声だった。
誰へ向けたものか分からないほど弱い。
それでも、その場の全員へ届くには十分だった。
王国兵たちが動きを止める。
ルークも目を見開く。
「クレイグ卿」
「追うな」
二度目の言葉は、少しだけはっきりしていた。
クレイグは血のにじむ口元を拭いもせず、アシュを見た。
「今ここで追っても、こちらがやられるだけだ」
それは負け惜しみではなかった。
現実の判断だった。
兵も、ルークも、傷ついている。
教会本部は壊れた。
王都の中もまだ動いている。
ここでさらに追撃を重ねれば、王国側の秩序まで崩れかねない。
クレイグはそこまで見ている。
アシュは小さく息を吐いた。
「別に感謝なんかしないぞ」
クレイグの口元が、ほんの少しだけ歪んだ気がした。
「いらん」
短い返しだった。
「お前は自分の信じた道を進め。アシュ」
その言葉に、アシュは返さなかった。
返す必要もなかった。
ノアがすぐに言う。
「行くぞ。今のうちだ」
ガルドがクレイグとルークを睨みつけながら後ろへ下がる。
フィアナはアシュの腕を肩へ回した。
ルゥがすぐ前へ出る。
誰ももう止めなかった。
止められないのか、止めないのか、その両方か。
それは分からない。
ただ、動くなら今しかない。
アシュたちはそのまま南へ駆けた。
雨の中、王都の外郭沿いの道へ出る。
荒れた放棄路。
濁った空。
遠くでまだ鐘が鳴っている。
背後では王都がざわついていた。
白壁の崩壊も、席持ちの連続死も、ここから先の騒乱も、全部あの中へ残していくことになる。
アシュは一度だけ振り返った。
高い壁の向こうに、王都の輪郭が鈍く沈んでいる。
もう戻れない。
今度こそ、本当にそう思った。
第92話でした。
今回は第三席クレイグとの決着がつきました。
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