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灰の王は赦されない  作者: 星喰ゆう
第2章 灰祈りの残火

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第9話 追跡の足音

逃げるだけでも、道は簡単ではありません。

 街道は使えなかった。


 夜が明けきる前に森を抜け、古い獣道へ入った時点で、アシュは改めてそう確信していた。


 踏み固められた土の道は速い。

 だが、そのぶん見つかるのも速い。


 王国の追手が本気で探しているなら、街道筋には必ず目がある。


 検問。

 伝令。

 聞き込み。

 野営跡の確認。


 逃亡者を追うやり方など、アシュの方が嫌というほど知っていた。


 だからこそ、使えない。


 朝の光はまだ薄く、森の奥には夜の冷気が残っている。


 湿った土を踏むたび、靴底の下で小さく音がした。

 枯れ葉を避け、枝を踏まず、水気の多い場所を選んで進む。


 後ろではフィアナが無言でついてきていた。

 その少し先を、ルゥが落ち着きなく行ったり来たりしている。


 アシュは一度だけ振り返る。


「足は」


「大丈夫です」


「その“大丈夫”は信用ならない」


 短く返すと、フィアナは少しだけ眉を下げた。


「……さっきも同じことを言われました」


「当たり前だ」


「そんなに信用ないんですね、私」


「お前は無理をしている自覚がない」


 フィアナは言い返しかけて、やめた。

 代わりに、少しだけ視線を逸らす。


 否定できなかったのだろう。


 礼拝堂を出てから、もうかなりの距離を歩いている。

 足の怪我はまだ治りきっていないはずだ。加えて、祭壇で記憶に触れた反動も残っている。


 それでも弱音を吐かないのは、強さでもあり、危うさでもあった。


 アシュは前を向き直る。


「次に休むのは、日が高くなってからだ」


「はい」


「その前に倒れるな」


「努力します」


 その返事に、アシュは何も言わなかった。


 後ろからルゥが戻ってくる。


 白い身体がアシュの脇を抜け、今度はフィアナの横にぴたりとついた。

 鼻先を彼女の手に押しつける。


 フィアナが少しだけ目を丸くしたあと、そっとその頭を撫でた。


「ルゥは優しいですね」


 アシュは鼻で息を吐く。


「お前にだけだ」


「アシュさんにも懐いてると思いますよ」


「そうは見えないけどな」


 だがその直後、ルゥがちらりとこちらを見た。


 何か言いたげな青い目だった。


 アシュは見なかったことにして前へ進む。


 森を抜けた先に、小さな開けた場所が見えた。


 そこには、昔使われていたらしい石畳の残骸と、朽ちた道標が半ば倒れたまま残っている。


 アシュは手を上げてフィアナを止めた。


「待て」


 ルゥも同時に足を止める。


 風が弱く吹き抜け、草が揺れた。

 それ以外に動くものはない。


 だが、道標の根元の土が少し新しい。


 誰かが掘り返した跡だ。


 アシュはゆっくり近づき、しゃがみ込んだ。

 指先で土を払う。


 すぐに薄い革片が出てきた。


 王国兵の荷紐だ。


 最近のものだ。泥の乾き方が浅い。


「追手、ですか」


 後ろからフィアナが小声で言う。


「たぶんな」


 アシュは立ち上がり、周囲を見渡した。


 視線はない。

 気配もない。


 だが、それは安全を意味しない。


 もうここまで来ている、という意味だ。


「昨日今日で探し始めた動きじゃないな……」


「え?」


「街道だけじゃなく、脇道まで見てる」


 普通の追跡なら、最初は広い道を押さえる。

 獣道や廃道を当たるのは、その後だ。


 それをもうやっているということは、向こうはこちらの移動の癖を理解している。


 アシュは舌打ちを飲み込んだ。


 王国側の追跡だけじゃない。

 もっと嫌な手が回っていてもおかしくない。


「進むぞ」


 フィアナが頷く。


 だがその前に、彼女は道標を見た。


「これ、文字が残ってます」


 アシュも目を向ける。


 風雨で削れていたが、かろうじて読める部分があった。


 北方旧道。

 その下に、ほとんど消えかけた地名。


 灰――


 そこまで見えた瞬間、アシュは視線を外した。


 フィアナは気づいたようだったが、何も言わなかった。


 その沈黙が、逆にありがたかった。


 しばらく進むと、森は少しずつ薄くなっていった。

 木々の間隔が広がり、地面に落ちる光も増える。


 だが人の気配はない。


 妙に静かだった。


「おかしいですね」


 フィアナが呟く。


「何がだ」


「この辺り、道があるのに、誰も通っていない感じがします」


 アシュも同じことを考えていた。


 本来なら、薪拾い、薬草摘み、行商崩れの旅人。

 そういう人間がひとりやふたりいてもおかしくない。


 だが今日は、鳥の鳴き声すら遠い。


「噂が回ってるんだろ」


「私たちのことですか」


「それもある。あとは……兵が動いてる気配は、民間人の方が敏感だ」


 王国兵や教会執行兵が近くをうろつけば、普通の人間は本能で近づかなくなる。


 関われば面倒になると知っているからだ。


 その時、ルゥが急に足を止めた。


 鼻先を上げ、風の匂いを嗅ぐ。

 次の瞬間、低く唸った。


 アシュの身体が先に動く。


「伏せろ」


 フィアナの腕を引き、近くの倒木の影に押し込む。

 自分もすぐに膝をついた。


 数秒遅れて、遠くから馬の蹄の音が聞こえた。


 一頭ではない。

 二頭。いや、三頭。


 街道側だ。


 この獣道そのものには入ってきていないが、かなり近い。


 フィアナが息を潜める。


「王国兵……?」


「たぶんな」


 蹄の音はゆっくりだった。


 巡回というより、確認の速度。


 探している。


 しかも急いでいない。

 逃げ道を塞ぎながら、狭めている動きだ。


 アシュの目が細くなる。


「面倒な追い方だな……」


 蹄の音が遠ざかるまで、二人と一匹はじっと動かなかった。


 やがて完全に気配が消えると、フィアナが小さく息を吐いた。


「今の、ルゥが気づいてくれなかったら……」


「見つかってたかもしれない」


 アシュが答えると、ルゥは何でもないことのように地面を嗅ぎ始めた。


 フィアナがまた頭を撫でる。


「偉いですね、ルゥ」


 ルゥは短く喉を鳴らした。


 アシュは立ち上がり、蹄の音がした方角を見た。


「追い方が変わってきてる」


「さっきより近いですね」


「ああ」


 ルークならもっと整っている。

 今の動きは整っている一方で、どこか“急がなくていい者”の余裕があった。


 まだ断定はできない。

 だが嫌な予感だけは残る。


「この先、村か集落があっても寄らない」


「でも、補給は……」


「できればしたい。だが、それ以上に顔を見られる方がまずい」


 フィアナは少し考えるように黙った。


「……私の髪、切った方がいいですか」


 アシュは一瞬、言葉を失った。


「何でそうなる」


「目立つので」


「だからって切ってどうする」


「少しは誤魔化せるかと」


 アシュは眉間を押さえたくなった。


 理屈としては分からなくもない。

 だが、この少女はときどき自分のことになると判断が妙な方向へ飛ぶ。


「駄目だ」


「即答ですね」


「見つからない工夫はする。だが、自分を削る方向で考えるな」


 その言い方に、フィアナは少しだけ驚いたように目を見開いた。


 何か言いかけて、やめる。


 やがて小さく頷いた。


「……分かりました」


 アシュはそれ以上その話を続けず、再び歩き出した。


 昼が近づく頃、二人と一匹は小さな岩場に辿り着いた。


 木々に囲まれ、上からも見つかりにくい窪地になっている。


 水気もある。

 休むには悪くない。


「ここで少し止まる」


 フィアナが壁のような岩にもたれ、静かに息をつく。

 ルゥはすぐに周囲をひと回りして、異常がないのを確かめるように戻ってきた。


 アシュは上着の内側から、銀の円盤を取り出す。


 古びた表面に刻まれた線。

 礼拝堂から北へ伸びる導き。


 フィアナもそれを覗き込んだ。


「……まだ、光りますか」


「お前が持ってみろ」


 フィアナは慎重に受け取る。


 白い光が、ごくかすかに溝をなぞった。


「少しだけ」


「何か分かるか」


「昨日よりはっきりしてます。この先に、もうひとつ印があります」


「村の中か」


「たぶん……」


 フィアナの指先が、円盤の端をそっとなぞる。


 彼女の横顔は真剣だった。


 怖がっていないわけじゃない。

 だが、もう目を逸らそうとはしていない。


「行きたいんだな」


 アシュが言うと、フィアナは少しだけ黙ってから頷いた。


「怖いです」


「だろうな」


「でも、知らないままではいたくないんです」


 まっすぐな声だった。


 アシュはそれを聞きながら、岩陰の向こうの空を見た。


 青くなりきらない昼の空。

 その向こうから、また何かが追ってきている気がする。


「……なら進むしかない」


 フィアナが円盤を握る手に、少しだけ力を込めた。


 その時だった。


 ルゥがぴくりと耳を立てる。


 次の瞬間、毛を逆立てて低く唸った。


 アシュの手が剣の柄に落ちる。


「どうした」


 ルゥは岩場の上――斜面の縁を睨んでいる。


 風向きが変わった。


 獣臭が混じる。


 血と泥と、湿った毛皮の匂い。


 アシュの声が低くなる。


「……囲まれてるな」


 フィアナが息を呑んだ。


「追手ですか」


「違う」


 岩の上から、乾いた小石がぱらりと落ちた。


 その直後、低い唸り声がひとつ。


 続けて、もうひとつ。


 岩場の縁に、影が現れる。


 灰褐色の毛並み。

 異様に長い前脚。

 裂けたように大きく開く口元。

 そして、剥き出しの牙。


 クロウウルフだ。


 森や旧街道沿いに出る、中型の群体魔物。

 飢えた獣のように見えて、その実、弱った獲物の気配を嗅ぎ分けて寄ってくる厄介な存在だ。


 一体、二体、三体。


 いや、木陰にもう一体いる。


 アシュは即座に数を数えた。


「フィアナ、下がってろ」


「……支援はできます」


「前に出るな。必要な時にだけ動け」


 フィアナは唇を引き結び、それでも頷いた。


 クロウウルフの一体が、岩の上で低く身を沈める。


 跳ぶ。


「来るぞ!」


 アシュが言うより早く、影が落ちた。


 真上から振ってきた牙を、アシュは半歩だけ身体をずらして避ける。

 そのまま抜き打ちの斬撃。


 銀線が走り、魔物の前脚を浅く裂いた。


 だが止まらない。


 クロウウルフは痛みを無視するように地面を滑り、反転してもう一度飛びかかってくる。


 その横から、二体目。


「っ、ルゥ!」


 ルゥが白い影になって飛んだ。


 クロウウルフの横腹に体当たりし、軌道をずらす。

 そのまま喉元へ牙を突き立てようとするが、相手も速い。互いに噛みつく寸前で地面を蹴り、もつれるように転がった。


 フィアナが息を飲む。


「ルゥ!」


「前を見ろ!」


 アシュが叫ぶ。


 その瞬間、三体目がフィアナ目掛けて斜面から駆け下りてきた。


 狙いが明確だった。


 弱い方から喰うつもりだ。


 アシュが間に合わない。


 だがフィアナは逃げなかった。


 両手を胸の前で重ねる。

 白い光が薄く滲む。


「――来ないで!」


 空気が震えた。


 透明な膜のようなものが、彼女の前に一瞬だけ生まれる。


 クロウウルフの爪がそれにぶつかり、軌道がわずかに逸れた。


 十分だった。


 アシュが踏み込み、横から剣を振り抜く。


 肉を裂く感触。

 魔物の身体が横転し、岩肌にぶつかった。


 そのまま起き上がる前に、喉へ二撃目を入れる。


 沈黙。


 血の匂いが強くなる。


 だが終わらない。


 岩の上の一体が低く唸り、仲間の死体を挟んで距離を測っている。

 残る一体はルゥと組み合ったまま、牙を剥いて暴れていた。


 アシュは呼吸を浅く整える。


「フィアナ、さっきのは」


「とっさに出ただけです……!」


「十分だ。次もやれ」


 言いながら、アシュは岩の上の個体へ視線を向けた。


 あれが群れの頭だ。


 少し賢い。


 獲物がただ弱いだけではないと見て、間合いを測り直している。


「ルゥ!」


 呼ぶと同時に、ルゥが一瞬だけこちらを見る。


 アシュは顎をしゃくった。


 右だ。


 ルゥの目が細くなる。


 次の瞬間、二匹は同時に動いた。


 ルゥが地を蹴り、わざと大きく左へ回る。

 群れの頭がそちらに意識を向けた瞬間、アシュは逆側から踏み込んだ。


 剣が閃く。


 だが相手も速い。


 紙一重でかわされる。


 そのまま牙が迫る。

 アシュは柄で顎を打ち上げ、噛みつきを逸らす。


 近い。


 獣の息がかかる距離だった。


「っ……!」


 そこへ、背後から白い光が走る。


 フィアナの加護だ。


 強い攻撃ではない。

 だが一瞬だけ、クロウウルフの動きが鈍る。


 その隙に、アシュの剣が喉元へ深く入った。


 血飛沫が散る。


 群れの頭が崩れ落ちた。


 残った最後の一体は、ルゥと組み合ったまま低く唸ったが、仲間が二体倒れたのを見て一歩退く。


 逃げるつもりだ。


 だがルゥは逃がさなかった。


 地を蹴り、喉元へ食らいつく。

 短い悲鳴。

 それで終わった。


 岩場に静寂が戻る。


 荒い呼吸だけが残る。


 フィアナがその場にへたり込みそうになり、アシュがすぐに腕を掴んだ。


「立てるか」


「……はい」


「嘘つけ」


「でも立てます」


「そういう問題じゃない」


 言いながらも、アシュは彼女の腕を離さなかった。


 フィアナの手は少し震えていた。

 初めてではないにせよ、こうして“殺し合いの距離”に立つのはまだ慣れていないのだろう。


 ルゥが戻ってきて、フィアナの足元に座る。

 口元に血がついていた。


「怪我は」


 アシュが訊くと、ルゥは不満そうに鼻を鳴らした。


 大きな傷はないらしい。


「助かりました、ルゥ」


 フィアナがしゃがみ込み、そっと首元を撫でる。

 ルゥは少しだけ誇らしげに胸を張った。


 アシュはクロウウルフの死体を見下ろした。


「面倒だな……」


「何がですか」


「血の匂いが残る。別の魔物を呼ぶ」


 それだけじゃない。


 クロウウルフは群れで動く。

 この四体で全部とは限らない。


 それに戦闘音が響けば、運が悪ければ人の耳にも届く。


「休憩は終わりだ。すぐ動く」


 フィアナが頷く。


 だが立ち上がる前に、彼女はふと円盤へ視線を落とした。


「あれ……?」


「どうした」


「さっきより、少しだけ光が強くなってます」


 アシュが眉をひそめる。


 覗き込むと、確かに白い筋が先ほどより明瞭だった。


 まるで、何かに近づいているみたいに。


「……気のせいじゃなさそうですね」


 フィアナが小さく呟く。


 アシュは円盤を受け取り、上着の内側へ戻した。


 嫌な感じがした。


 追手だけじゃない。

 魔物だけでもない。


 この先には、もっと別の何かがある。


 それでも進むしかない。


 灰祈りの村へ続く道は、

 すでに静かなだけの道ではなくなっていた。

第9話でした。


第2章に入り、

今回は逃亡の移動中にじわじわ追い詰められていく感覚と、

灰祈りの村へ向かう道そのものの危うさを書きました。


ルゥの察知、フィアナの加護、アシュの戦い方が、

少しずつ噛み合い始めている回でもあります。


そしてここから先、

灰祈りの村へ近づくほど、追手だけではないものも濃くなっていきます。


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次話もよろしくお願いします。

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