第89話 抜け道
狭い路地の壁へ背を預けながら、アシュは浅く息を吐いた。
「どうする」
ガルドが小さく言う。
声を潜めてはいるが、焦りまでは消しきれていない。
ノアは水路沿いへ出る通りを見たまま、しばらく動かなかった。
王国兵が四人。
白衣が一人。
しかもその少し向こうにも、人の影が見え隠れしている。
前だけを崩しても、抜けた先でまた捕まる。
そういう並びだった。
「右だ」
ようやくノアが言った。
「右?」
フィアナが小さく聞き返す。
ノアは壁際へ寄り、崩れた石積みの先を顎で示した。
「水路へ降りる細段がある。今は使われてない」
よく見れば、石壁と倉庫の隙間に、半ば苔に埋もれたような階段が落ちている。
通りからはまず気づかない位置だった。
「通れるのか」
アシュが言う。
「人間一人ずつなら」
「また狭いな」
「広い道はもう塞がってる」
ノアは短く返した。
それはそうだった。
ガルドが低く舌打ちする。
「下に降りて、その先は?」
「水路沿いを南へ。途中で古い整備路に上がれる」
「兵がいたら」
「その時は、もう押し切るしかない」
淡々とした声だった。
その場で一番ましな道を出しているだけだ。
アシュは通りの向こうをもう一度見た。
兵の一人が首を巡らせる。
白衣も何かを話している。
もう少しで、こちらの位置がばれるかもしれない。
「行くぞ」
アシュが言う。
ノアが先に動いた。
細い階段へ身体を滑り込ませる。
そのまま音を立てずに下へ消えた。
次いでフィアナ。
ルゥはほとんど跳ぶように降りる。
ガルドが続き、最後にアシュが壁から身を剥がした。
階段は思った以上に狭かった。
足場も悪い。
雨を吸った石は滑りやすく、手をつく場所もざらついている。
途中で脇腹に痛みが走る。
息が詰まりそうになるが、声は出さない。
下へ降りると、空気が変わった。
冷たい。
細い水路が、王都の裏を這うように流れている。
普段使われている水路ではないのだろう。
水は濁り、草が生え、石壁にも黒ずみが広がっていた。
「こっちです」
フィアナが小さく言う。
彼女の声に振り向くと、ルゥがすでに先を見て耳を立てていた。
嫌な匂いはしないらしい。
それだけで少し助かる。
ノアが先導し、水路沿いの細い足場を進む。
上からはまだ兵の声が聞こえていた。
こちらを見失ったらしい。
罵声と足音が交錯している。
「気づかれてないか」
ガルドが囁く。
「まだだ」
アシュが答える。
「だが時間の問題だ」
足を止めずに進む。
昼の賑わいから切り落とされたような場所だ。
王都は表では整って見えるくせに、裏へ回ればこういう腐った場所をちゃんと抱えている。
「……この国らしいな」
アシュが小さく吐くと、ノアが前を向いたまま返した。
「今さらだろ」
「違いねえ」
ガルドが続ける。
そのやり取りに、フィアナは何も言わなかった。
ただ、前だけを見ている。
口元が少し硬い。
やがて前方でノアが手を上げた。
止まる。
その先には、石壁に埋もれるようにして、古い鉄格子が落ちていた。
整備用の出入口だったのだろう。
だが半分壊れており、人なら身をかがめれば抜けられそうだった。
「ここから上がる」
ノアが言う。
「上は?」
「古い整備路だ。使われてない」
「今日は、その使われてない道にずいぶん世話になるな」
ガルドが言うと、ノアは肩もすくめなかった。
「使われてる道を通りたいなら一人で行け」
「嫌だね」
いつも通りの返しだった。
その軽さに少しだけ助かる。
ノアが先に鉄格子を押し広げる。
錆びた音がした。
小さい音ではなかった。
全員が一瞬だけ固まる。
上からは何も聞こえない。
まだ大丈夫だ。
ノアが身を滑り込ませる。
次いでルゥ。
フィアナが続く。
ガルドが抜け、最後にアシュが鉄格子へ手をかけた時だった。
水路の向こう側で、声がした。
「下だ!」
見つかった。
兵の声だった。
すぐ後ろではない。
だが、気づかれた。
「急げ!」
ガルドが低く叫ぶ。
アシュは身体を捻じ込み、どうにか上へ抜けた。
その瞬間、背後で槍が鉄格子へ叩きつけられる音がした。
石の上へ転がり出る。
整備路は、たしかに使われなくなって久しいらしかった。
草が伸び、木箱は朽ち、壁際には壊れた道具が放置されている。
だが走るには十分だ。
「南へ!」
ノアが言う。
全員が一斉に駆け出す。
背後で鉄格子が完全に外れる音がした。
もう時間はない。
整備路は途中で大きく左へ折れ、その先で少しだけ開けた場所へ出た。
古い水車小屋の跡らしい。
屋根は崩れ、木枠だけが残っている。
そこでアシュは、前方の気配に気づいた。
「止まれ」
低く言う。
全員の足が止まる。
開けた場所の先。
道の出口に、兵が三人いた。
王国兵だ。
まだこちらには気づいていない。
だが、この先へ抜ける道を塞ぐような立ち方をしている。
「またかよ」
ガルドが吐く。
アシュは一瞬だけ考える。
前に三人。
後ろからも追手。
このまま挟まれれば終わる。
「俺がやる」
言ったのはガルドだった。
弓を下ろしながら、一歩前へ出る。
「二射で崩す。その隙に抜けろ」
「いけるか」
アシュが言う。
「外すと思うか?」
そう返した顔は、少しだけいつもの調子に戻っていた。
ノアが即座に頷く。
「やれ」
ガルドが膝をつく。
弓を引く。
呼吸が止まる。
一射目。
矢は、道の出口に立つ兵の肩を貫いた。
男が声を上げるより早く、二射目が飛ぶ。
今度はその隣の兵士の太ももへ突き刺さった。
兵たちが叫び声をあげる。
「今だ!」
ノアが飛び出す。
フィアナとルゥが続く。
アシュもその後ろへ出る。
兵が立て直すより早く、距離を詰める。
最前の兵が槍を出す。
アシュは刃で払わず、腕ごと押し込み、そのまま体当たりで横へ崩した。
痛みが走る。
だが構う暇はない。
フィアナの横でルゥが低く唸り、一人を威嚇で止める。
ノアが最後の一人の足を払った。
その瞬間だけで十分だった。
全員が道の出口を抜ける。
背後でまた怒声が上がる。
追ってくる。
だが、今は抜けた。
石畳が少し広くなる。
南の外れに近い区画だ。
人は減り、倉庫と古い工房ばかりが並んでいる。
ノアが呼吸も乱さず言う。
「この先に古井戸がある。その裏の壁を抜ければ、外郭沿いの放棄路に出る」
「ほんとに、よく知ってんな」
ガルドが言う。
「昔使った」
「何のためにだよ」
「忘れた」
「嘘つけ」
短いやり取りだった。
だが、少しだけ空気が戻る。
アシュは走りながら、前を見た。
外郭沿いの放棄路まで出られれば、王都の外へ抜ける道がようやく見えてくる。
やがて前方に、崩れた井戸跡が見えた。
その向こうには、背の高い外壁。
ノアの言う通りなら、その裏を抜ければ王都の外郭に沿った放棄路へ出る。
もう少しだ。
そう思った、その時だった。
井戸の影から、人影がひとつ立ち上がった。
兵ではない。
白衣でもない。
ルークだった。
王国兵の上着を着たまま、道の真ん中に立っている。
数は一人。
だが、その一人がいるだけで、空気が変わった。
ノアの足が止まる。
ガルドが舌打ちする。
フィアナの顔も硬くなる。
ルークは剣の柄へ手をかけたまま、アシュを見た。
「……ようやく追いついた」
息は乱れていない。
ここで待っていたのだろう。
アシュは荒い呼吸のまま目を細めた。
「面倒なのが先回りしてやがる」
逃げ道の前に立つ影は、兵の一隊より厄介に見えた。
第89話でした。
挟撃から逃れた一行だったが、先回りをしていたのは、よりによってルークだった。
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