第87話 白壁の裂け目
側壁が砕けた瞬間、外の空気が一気に流れ込んできた。
アシュは剣を引き抜いた勢いのまま一歩だけよろめき、どうにか足を踏みとどまる。
灰刻の熱がまだ体の奥で暴れていた。
反動を薬で押さえ込んでも、痛みが消えたわけではない。
肩も、脇腹も、芯の方が鈍く軋んでいる。
「アシュさん!」
フィアナが横で支える。
ルゥもすぐ横へ来て、低く喉を鳴らした。
「大丈夫だ」
吐き捨てるように言ったが、自分でも声に張りがないのが分かる。
崩れた壁の向こうには、曇った王都の空が見えていた。
灰色の光の中を、白い粉がまだ細かく舞っている。
ノアが素早く辺りを見回す。
「早く移動するぞ」
「分かってる」
ノアは床を走る白い線の残骸と、崩れた祭壇の奥を見た。
「ここ自体がもう保たない。長くいれば潰される」
部屋の奥では、巨体の残骸から流れた黒い泥がまだ床を這っている。
白い線は千切れたまま、時折思い出したように鈍く明滅していた。
セレナは死んだ。
だが、その死で全部が止まるほど、この場所は素直ではないらしい。
ガルドが崩れた壁の向こうを覗き込む。
「どこに逃げるんだ」
「裏手の方がまだ手薄だ」
ノアとガルドの会話を聞き、アシュも視線を向ける。
西側処置区画の外。
表通りほど人は多くないが、誰にも見つからずに抜けられるほど甘くもない位置だ。
壊れた壁の向こうで、どこかの扉が開く音がした。
誰かが異変に気づいて動き出している。
アシュが低く言う。
「とにかく移動するぞ」
「走れますか」
フィアナの問いに、アシュは答えず一歩踏み出した。
脇腹の奥に痛みが走る。
だが、立てないほどではない。
「動ける」
フィアナが一瞬だけ言い返しかけ、結局それ以上は言わなかった。
言っても止まらないと分かっているのだろう。
崩れた白壁を越える。
外へ出た瞬間、空気が変わった。
室内の淀んだ匂いではなく、雨上がりの石と土の匂いが鼻へ入る。
けれど清々しさはない。
壊れた建物の一部が外へ吹き飛んだせいで、周囲の空気そのものがざわついていた。
西側の細い通りは、まだ完全には騒ぎになっていなかった。
だが、何も知らない静けさでもない。
窓から顔を出す者。
足を止める下働き。
遠巻きにこちらを見ようとする白衣。
その一つ一つが、もうすぐ兵の動きへ変わる。
「こっちだ」
ノアが迷いなく裏手の細道へ入る。
ガルドが後ろを振り返りながら続く。
フィアナとルゥがその中ほど。
アシュは最後尾に近い位置で、どうにか足を動かしていた。
細い道は、人が二人並べばいっぱいになるくらいの幅しかない。
壁は近く、空も狭い。
逃げるにはいいが、追手が入ってくれば厄介な道だ。
少し進んだところで、後ろから声が上がった。
「止まれ!」
王国兵だ。
もう来たか、とアシュは舌打ちを飲み込む。
「早えな」
ガルドが吐く。
「壁を吹き飛ばしたんだぞ。遅いくらいだ」
アシュが返す。
振り向けば、細道の入口に王国兵が二人、その後ろに白衣が一人立っていた。
まだ距離はある。
だが、数呼吸のうちに後ろは塞がれる。
「走れ」
アシュが言う。
「後ろは俺が見る」
「無茶すんな」
「いいから行け」
ガルドが一瞬だけ舌打ちし、それでも前へ出た。
ノアも速度を落とさない。
フィアナは振り返りかけたが、ルゥが先に肩へ鼻先を押しつけ、無理やり前を向かせる。
アシュはそこで一度だけ足を止めた。
追ってくる兵は三人。
まだ本格的な包囲ではない。
ここで一拍でも鈍らせれば足りる。
剣を構える。
体は重い。
それでも、ただ走るだけでは全員が追いつかれる。
先頭の兵が飛び込んでくる。
アシュは正面から斬らなかった。
刃を横へ流すように振り、兵の槍の軌道だけを外す。
次の一歩で肩をぶつけ、そのまま壁へ叩きつけた。
「ぐっ……!」
二人目が来る。
白衣の後ろにいた兵だ。
今度は少し遅い。
仲間が一瞬で崩されたのを見て、足が鈍った。
アシュはその迷いを待たなかった。
一歩踏み込み、柄で顎を打ち上げる。
兵の身体が後ろへ崩れる。
白衣だけが立ち止まっていた。
目が合う。
若い男だった。
だが、その顔には兵よりもはっきりした敵意があった。
「候補を――」
言い終わる前に、アシュの目が細くなる。
「うるせえ」
低く吐き捨て、踏み込む。
白衣は慌てて後退した。
戦う人間の足ではない。
だがそれで十分だった。
今必要なのは殺すことじゃない。
数秒の遅れだ。
後ろでさらに誰かの声が重なる。
もう集まり始めている。
アシュは剣を引き、すぐに踵を返した。
細道の先で、ノアたちが角を曲がるところが見える。
どうにか距離は保てている。
追いつく。
息が重い。
体の奥がまた焼ける。
だが止まれば終わりだ。
「こっちです!」
前方でフィアナの声が飛ぶ。
ノアが見つけたらしい裏道へ、全員が滑り込む。
そこはさらに狭かった。
片側が古い倉庫、もう片側が崩れかけた石壁。
荷車すら通れない、人間が一列で抜けるしかないような道だ。
「この先は?」
ガルドが訊く。
「南へ抜ける」
ノアが即答する。
「そこから市場裏に出れば、まだ兵の展開が済んでないはずだ」
「一か八かってところか」
アシュが吐く。
「それ以外の時があったか?」
ノアは振り返らない。
その時、遠くで鐘が数回鳴った。
教会本部の異変が、ついに王都全体へ伝わり始めた音だった。
ルゥが耳を伏せる。
フィアナの肩もわずかに強張る。
「いよいよ逃げ場が無くなってくるぞ」
ガルドが低く言う。
「ああ」
アシュは短く答えた。
もう王都の中に静かな場所はない。
今から先は、どこを通っても誰かがこちらを探し始める。
それでも進むしかない。
市場裏へ抜ける直前、ノアが急に手を上げた。
全員が止まる。
「何だ」
アシュが言うと、ノアは壁際へ身を寄せたまま小さく顎をしゃくる。
通りの向こう。
交差する道を、王国兵が四人横切っていく。
その後ろには白衣もいる。
しかも二手に分かれるつもりらしく、短く言葉を交わしていた。
「想像より早いですね」
フィアナが小さく言う。
「あんだけド派手に暴れりゃ当然だ」
ガルドが返す。
だが、その顔にも余裕はない。
アシュは壁へ背を預け、浅く息を吐いた。
薬の残りは一本。
王都を抜けるまでにそれを使うようなら、その先がかなりきつい。
ノアが兵たちの動きを見たまま言う。
「ここで動くと見つかる。少し待つ」
「待ってる間に増えるかもしれねえぞ」
「今出たら確実に見つかる」
淡々とした返しだった。
だが正しい。
アシュは舌打ちを堪えた。
フィアナがそっと訊く。
「空き家には、もう戻れませんよね」
「無理だな」
ノアが即答する。
「たぶんもう、あの辺りにも手が回る」
それで完全に腹が決まった。
戻る場所は消えた。
王都の中での潜伏は、ここで終わりだ。
兵たちが通り過ぎる。
白衣も去る。
ノアが短く言う。
「今だ」
再び走り出す。
王都の裏道を縫うように進みながら、アシュは一度だけ後ろを振り返った。
白い壁の向こうに、まだ粉塵が薄く舞っているのが見えた。
あの崩れた教会本部の一角が、今や王都全体を揺らす種になっている。
もう戻れない。
今はただ、王都から出ることを考えるだけだ。
第87話でした。
ここから第11章、王都脱出編に入りました。
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