第80話 途中のもの
巨大な影が一歩前へ出た瞬間、白い部屋の空気が変わった。
床に刻まれた白い線が鈍く明滅する。
祭壇の奥に積まれた白布がかすかに揺れ、その下で黒いものが脈打っていた。
白布をまとったその巨体は、人型を保っているようでいて、決定的に人ではなかった。
腕が長い。
脚は太い。
首は短く、顔の半分が白布で固定されている。
胸の中央だけが不自然に膨らみ、その奥で黒い泥のようなものがゆっくりと鼓動していた。
セレナはその前から一歩も退かない。
「壊れたものではありません」
静かな声だった。
「まだ途中のものです」
「なんてもの作りやがるんだ」
ガルドが吐き捨てる。
次の瞬間、巨体が床を蹴った。
重い。
それなのに速い。
「散れ!」
アシュが叫ぶ。
全員が左右へ割れる。
振り下ろされた腕が床を叩き割り、白い石片が部屋中へ飛び散った。
アシュは正面へは行かず、横へ回る。
まず見るべきは、どこが核で、どこが支えかだ。
巨体が追ってくる。
真正面から押し潰す気だ。
アシュは半歩沈み込み、脇腹へ剣を入れた。
重い手応え。
だが浅い。
「硬い……!」
肉の下に、泥と灰と、固まった歪みそのものみたいなものが詰まっている。
巨体の肘が横へ払われる。
受ければ折れる。
アシュは飛び退く。
その背後の白壁が砕け、粉が舞った。
セレナの声が静かに落ちる。
「簡単には壊れないでしょう?」
アシュの目が細くなる。
「だから価値があるのです」
「黙れ」
「あなたも、本当は分かっているのでしょう」
その声に、わずかだが熱が混じっていた。
冷たいだけじゃない。
フィアナを前にしてなお、自分の正しさを疑わない執着だ。
その横で、小型の異形が白布の影から這い出してくる。
「おいおい。小せえやつも出て来たぞ!」
ガルドの矢が飛ぶ。
一本目が顎を裂き、二本目が目を貫く。
だが止まらない。
ノアが床へ術を流す。
白い線の一部へ細い光が食い込み、小型の足を絡め取った。
フィアナの淡い光がそこへ重なり、ルゥが飛びかかる。
白い影が異形を噛み倒し、床へ叩きつける。
だが相手もただ倒れるだけではない。
白い目を見開いたまま、なおフィアナへ這おうとする。
「フィアナ!」
アシュが叫ぶより早く、フィアナの手から光が走った。
異形の動きが止まる。
一瞬だけ。
その隙にガルドの三本目の矢が頭を貫いた。
一体止まる。
だが、巨体は止まらない。
再び踏み込んでくる。
アシュは今度は前へ出た。
避け続ければ押し切られる。
なら懐へ入るしかない。
腕が来る。
その内側へ滑り込み、肘裏へ斬り上げる。
裂ける。
今度は深い。
巨体の動きがわずかにぶれる。
「っ――!」
同時に、セレナの呼吸も微かに乱れた。
アシュの目が細くなる。
「お前、流してやがるな」
セレナは答えない。
答えないまま、指先を揺らす。
巨体の軌道がそこで変わった。
鈍重な肉の塊のくせに、妙に正確だ。
ただの暴走じゃない。
セレナ本人の意思が一部乗っている。
ノアが低く言う。
「完全じゃないが、つながってる」
「まじかよ」
ガルドが吐き捨てる。
その間にも、部屋の隅で魔物型が動いた。
前の個体より大きい。
狼ほどの大きさ。
だが体は歪で、背中が不自然に盛り上がり、目の焦点が左右で違う。
それがルゥへ飛びかかった。
ルゥも迎え撃つ。
白と黒が床の上で噛み合い、激しい音が弾ける。
「ルゥ!」
フィアナの声と同時に、淡い光が滑る。
魔物型の動きが一瞬だけ止まる。
だが短い。
前より慣れているみたいに、すぐまた暴れ出した。
「効きが浅い……!」
巨体がまたアシュへ向かってくる。
ノアが叫ぶ。
「足元の線を切れ! まだ生きてる!」
ガルドが即座に狙いを変える。
巨体そのものではなく、床の起点へ矢を射る。
続けざまに矢を放ち、三射目で石が砕け、白い線の一部が鈍く濁った。
巨体の足が初めて大きく揺れる。
「今だ!」
アシュが踏み込み、剣を胸元へ押し込む。
だが浅い。
巨体の両腕が振り下ろされる。
アシュは柄で受け流し、肩で逸らす。
それでも衝撃が骨まで入る。
「っ……!」
息が詰まる。
脇腹の傷が熱を持つ。
セレナは静かに言う。
「やめてください」
その声は、変に整っていた。
「この子を渡せば、それで済みます」
「ふざけんな」
アシュが低く返す。
「誰が渡すか」
「あなたに決める権利があるのですか」
その言葉が、ひどく冷たく刺さる。
アシュの目が細くなる。
「お前にだけは言われる筋合いねえ」
「そうですか」
セレナの声は静かだった。
「なら、壊してでも連れていきます」
その瞬間、部屋の奥の白布が一斉に揺れた。
まだいる。
小型がさらに増える。
長引けば終わる。
ノアが短く言う。
「長引かせるな」
「分かってる」
アシュは剣を握る手に力を込めた。
肩が痛む。
脇腹も熱い。
それでも、もう迷う時間はなかった。
灰刻。
心臓がひとつ、大きく鳴る。
体の奥へ、自分で刃を差し込むような感覚。
血が逆流し、骨の内側まで熱が走る。
視界の端が削れ、その代わり目の前の線だけが異様に濃く浮かぶ。
フィアナが息を呑む。
セレナの目がそこで初めてわずかに揺れた。
「やはり……」
次の瞬間には、アシュが前へ出ていた。
速い。
床が弾ける。
重かった身体が別物みたいに前へ滑る。
巨体が腕を振るう。
アシュはその内側を抜ける。
避けるだけじゃない。
抜けながら背の継ぎ目へ深く斬り込む。
今度は入る。
巨体の動きが大きく乱れた。
同時に、セレナの呼吸も明らかに崩れる。
「今だ!」
ノアが叫ぶ。
ガルドの矢が飛ぶ。
今度はセレナ本人だ。
セレナは半歩だけ身をずらす。
だが完全には避けきれない。
白衣の袖が裂け、肩口に血が滲んだ。
ルゥが魔物型を振り切ってセレナへ駆ける。
だがセレナの足元の白い線が強く光り、ルゥの身体が弾かれた。
「っ!」
「ルゥ!」
フィアナが駆け寄る。
セレナはその隙にさらに指を振る。
巨体が無理やり立ち上がろうとする。
だが遅い。
背の傷が深く、支えの線も崩れている。
「ここが無くなれば、世界の均衡が崩れます」
セレナが言う。
「それでもいいんですか」
「例えそうだとしても、罪のない人間を犠牲にした均衡なんか、俺は認めない」
アシュが低く返す。
「……罪は、俺がすべて背負う」
灰刻の熱が全身を削る。
長くはもたない。
だから一気に行くしかない。
巨体が最後の一歩を踏み出す。
アシュも踏み込む。
真正面からぶつかる直前、アシュは軸をわずかにずらした。
狙いは巨体じゃない。
その向こうのセレナだ。
セレナの目が細くなる。
白い線が一斉に光る。
その直前に、ノアの術が床を走った。
線が乱れる。
ほんの一瞬だけ、制御が揺らぐ。
そこへガルドの矢。
今度はセレナの肩ではなく、脇腹へ深く入る。
「っ……!」
初めて、セレナの声が明確に崩れた。
巨体の動きも止まる。
その一瞬で十分だった。
アシュは巨体の脇を抜ける。
最短で、セレナの前へ出る。
セレナが後退する。
だが遅い。
剣が白衣を裂き、そのまま胸を深く貫いた。
白い部屋に赤が散る。
同時に、背後の巨体が糸の切れたように崩れた。
だがそこで終わらない。
床の白い線が、一斉に逆流するように強く光った。
ノアの顔が変わる。
「まずい!」
セレナが血を吐きながら、なお笑う。
最初みたいな整った笑みではない。
崩れた、ひび割れた笑みだ。
「……止まりませんよ」
低い声だった。
「ここまで溜めたものは……もう」
祭壇の奥で、黒い泥が脈打つ。
白布の下。
寝台の影。
部屋のあちこちで同じものが一斉に膨らみ始める。
壊れた巨体の胸から灰と泥が噴き出し、床の白い線へ流れ込む。
その線が今度は、部屋の壁へ、外壁へと逆に走った。
「離れろ!」
アシュが叫ぶ。
セレナの身体から剣を引き抜く。
同時に彼女が床に倒れる。
「灰の村の奥にあるものは……ひとつの怪物ではありません」
息の切れた声で、セレナはなお言う。
「捨てられたもの……受け止めきれなかったもの……終わり損ねた祈り……」
床が震える。
壁の白がひび割れる。
天井の灯りが一斉に明滅する。
「積み重なって……沈んで……あれは、まだ育つ」
フィアナの顔色が変わる。
セレナは薄く笑った。
「あなた方が戻る頃には……きっと、もっと」
そこで大きな音がした。
部屋の奥ではない。
外へ面した側壁だ。
白い壁に黒い線が走り、次の瞬間、内側から破裂したように砕け散る。
冷たい外気と、昼の曇り光が一気に流れ込んできた。
教会本部の側面が、崩れた。
石と白壁が外へ吹き飛ぶ。
王都の外気の向こうで、誰かの叫び声まで聞こえた。
「くそ……!」
ガルドが顔を庇う。
ノアが叫ぶ。
「ここはもう崩れるぞ、急げ!」
セレナは床に倒れたまま、最後にアシュへ目を向けた。
「あなたも……いつまで、人でいられるのでしょうね」
その声を最後に、力が抜ける。
もう動かない。
だが部屋は終わっていない。
床の白い線が乱れたまま走り、壊れた寝台の下から黒い泥が噴く。
白布が裂け、部屋全体がきしむ。
アシュの膝が揺れる。
灰刻の反動が、今度は一気に内側を焼き始めていた。
「っ……!」
「アシュさん!」
フィアナがすぐに駆け寄り、腰の袋へ手を伸ばした。
「薬を」
アシュは荒い息のまま顔をしかめる。
「……ああ」
フィアナは崩れかけたアシュの肩を支え、そのまま瓶を差し出した。
「飲んでください」
「……すまない」
アシュはめずらしい言葉を残しながら、薬を流し込む。
喉を焼くような味が落ちていく。
胃の底へ沈んだ瞬間、熱に灼かれていた体の奥へ、冷たい膜が無理やりかぶせられるような感覚が走った。
フィアナが息を詰めたままアシュを見る。
「動けますか」
アシュは荒い呼吸をひとつ吐いてから、低く返した。
「……行くしかないだろ」
アシュは剣を床につき、どうにか踏みとどまった。
「まだ、動ける……」
「無理です!」
「無理でも行くんだよ」
ガルドがすぐ横へ回り込む。
「肩貸せ!」
ルゥも低く唸りながら、崩れた壁の方を睨んでいる。
外へ抜ける穴はできた。
だがそこからすでに王都の騒ぎが流れ込んできていた。
誰かが気づいた。
もう隠れてはいられない。
ノアが即座に判断する。
「壊れた側壁から外へ出る!」
「見つかるぞ!」
ガルドが言う。
「もう見つかってる!」
その返しと同時に、外から遠い怒号が重なった。
王国兵か、教会か。
どちらにせよまだ遅い。
アシュは荒い呼吸のまま、崩れた側壁の向こうを見た。
ここから先は、もう逃げるしかない。
「……行くぞ」
低く言う。
セレナは死んだ。
教会本部は壊れた。
だが終わっていない。
灰の村。
その奥にあるもの。
祈りと失敗と歪みの積み重なり。
戻るためには、まずここを抜けるしかない。
四人と一匹は、崩れた白い壁の裂け目へ向かった。
王都の側からは、はっきりと異変の気配が近づいていた
第80話でした。
ついにセレナとの決着がつきました。
ただ、倒したことにより、王都中が大騒ぎになります。
ここは王都のど真ん中。アシュたちはここから無事脱出できるのか。
第9章はここで終了です。
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