第79話 セレナ
白い扉を押し開けた先は、思っていたより静かだった。
血とも薬品ともつかない匂いもある。
それなのに、ここだけは先ほどまでの雰囲気とは違う。
広い部屋だった。
天井は高い。
左右の壁には細長い灯りが等間隔に埋め込まれ、冷たい光を落としている。
奥には祭壇にも似た一段高い床。
だが祈りのための場所ではない。
並ぶ台も、白布も、棚に納められた瓶も、全部が選別と処置のために見えた。
そして、その奥に女がいた。
白衣を纏っている。
礼拝堂に立つ聖職者の白よりも、もっと乾いていて、もっと冷たい白だ。
長い髪は揺れず、姿勢は乱れず、まるで最初からそこに立って待っていたみたいだった。
「セレナ……さん」
セレナが、ゆっくりこちらを見る。
その目が最初に捉えたのは、アシュではない。
フィアナだった。
「やはり来ましたか」
声は静かだった。
驚きも、焦りもない。
ここに来ると知っていたような声だ。
フィアナの肩がわずかに強張る。
「……待っていたんですか」
「ええ」
セレナは否定しない。
「旧祈祷院地下を壊され、保管の流れを乱され、さらにヴァルトまで失った」
そこでようやく、視線がアシュへ移る。
「ここまでされて、迎えの用意をしないほど愚かではありません」
ガルドが小さく舌打ちした。
「出迎えにはちょっとやりすぎなんじゃないか」
「そうですか?」
セレナは少しだけ首を傾げる。
「私は、この子を迎えに来ただけです」
この子が誰を指しているのか、聞くまでもなかった。
フィアナの顔色が冷える。
「戻りません」
「でしょうね」
セレナはあっさりと言う。
「だから、こうして順を追っているのです」
アシュが一歩前へ出た。
「順、だと?」
「候補を選び、運び、分け、残し、使う」
セレナの声には迷いがなかった。
隠すつもりも、取り繕うつもりもない。
「その流れの中で、この子は極めて貴重です」
アシュの目が細くなる。
「白い箱の中身も、その流れの一部か」
「ええ」
セレナは薄く笑った。
「ようやくそこまで辿り着いたのですね」
ガルドが吐き捨てる。
「こんな辛気臭い場所なんざ、来たくもなかったけどな」
セレナはガルドを見たが、すぐに興味を失ったように視線を戻した。
「あなたと違って、器になれなかったものにも、役目はあります」
その一言で、部屋の温度がさらに下がった気がした。
フィアナが息を呑む。
「役目……?」
「選ばれなかったからといって、終わりではありません」
セレナは当然のことを話すみたいに続ける。
「受け止めきれないなら、形を変えるだけです。使えるものは使う。それだけのこと」
アシュの声が低くなる。
「それが、あの異形か」
「ええ」
「ふざけるな」
「何がです?」
セレナは本気で分からないような顔をした。
「捨てていないだけでしょう。役目を変えただけです。失敗ではありません。途中で終わっただけです」
その言い方が、ひどく気味悪かった。
悪意があるならまだ分かる。
だがセレナには、自分が残酷なことを言っている自覚がほとんどないように見える。
フィアナが小さく首を振る。
「そんなの……」
「受け止められないなら壊れる。壊れたなら、その後の使い道を考える」
セレナの目が静かに細くなる。
「でも、あなたは違う」
その視線が真っ直ぐフィアナへ刺さる。
「あなたは、より多くを受け止められる」
ルゥが低く唸った。
セレナの視線が今度はそちらへ落ちる。
ほんの一瞬だけ、興味が混じった。
「それに、まだ残っていたのですね」
ルゥの毛がさらに逆立つ。
セレナはその反応を見て、かすかに口元を緩めた。
「失敗作にしては、だいぶきれいに残った方です」
フィアナの顔色が変わる。
「ルゥは失敗作なんかじゃありません!」
「そうでしょうか」
セレナは首を傾げる。
「本来の形になれなかったもの。受けるべきものを受けきれず、歪みながら残ったもの。私の認識では、十分そう呼べます」
ルゥは吠えなかった。
その代わり、喉の奥で深く、怒りを押し殺したような音を鳴らす。
アシュが前へ出る。
「それ以上言ってみろ」
「事実を述べているだけです」
セレナの声は少しも揺れない。
「あなた方は、言葉に感情を乗せすぎる」
「お前が感情を捨てすぎてるだけだ」
アシュが吐き捨てる。
セレナは少しだけ黙ったあと、視線を部屋の隅へ流した。
そこには白布をかけられた寝台がいくつも並んでいる。
その下から、さっきまで通ってきた部屋と同じ嫌な気配がわずかに漏れていた。
「世界の均衡を保つのに、感情なんて不要なんです」
静かな声だった。
「歪みは溜まる。負の感情も、祈りも、行き場をなくせば沈殿する。受ける器がいる。受けられなかったものにも役目は残る」
アシュの眉が寄る。
「世界の歪み?」
「そう呼ぶ者もいます」
セレナはそこで言葉を切った。
「候補は、そのための器なんですね」
フィアナが言う。
セレナは頷いた。
「ええ。けれど適性が足りなければ壊れる。壊れたものは形を変える。近くにいた獣も、同じものを浴びれば同じように歪む」
ルゥの耳がぴくりと動く。
そこで、セレナの視線がふとアシュへ移った。
ほんのわずかに、目が細くなる。
「……もっとも」
静かな声だった。
「あなたも、あれらとまったく無関係というわけではなさそうですが」
空気が変わる。
ガルドが眉をひそめる。
フィアナも息を止めた。
アシュの目が細くなる。
「何の話だ」
「分かりませんか?」
セレナは首を傾げる。
「本来、器が受けるものを、あなたは自分から無理やり注いでいる」
アシュは黙った。
セレナはその沈黙を否定とは受け取らなかった。
「あなた自分でも気づいているのでしょう。その力の源を」
その視線がアシュの腰へ落ちる。
「それを抑えるために、薬まで使っているのでしょう」
フィアナの顔色が変わる。
「薬……」
アシュの声が低くなる。
「知ったように言うな」
「たしかに、すべて知っているわけではありません」
セレナはあっさりと言った。
「ただ、王国が必死になって作ろうとしていた兵器。ということぐらいしか……」
ガルドが小さく舌打ちする。
「胸糞悪ぃ言い方だな」
「そうですか?」
セレナは表情を変えない。
「結局は似たことをしたのでしょう。受け止められる人間が欲しかった。けれど、完成には届かなかった」
アシュの指が剣の柄で強く鳴る。
「黙れ」
「違いますか?」
「黙れと言ってる」
その声に、フィアナがはっとアシュを見る。
セレナだけが静かなままだった。
「まあこの子が来た時点で、そんなことはどうでもいいのです」
フィアナが一歩下がる。
だが逃げるためではない。
ルゥに触れられる位置へ、無意識に寄っただけだ。
「あなたは違う」
セレナの言葉は繰り返しだった。
だがその繰り返しには執着があった。
「壊れないまま、もっと深く受け止められる。だから価値がある」
「そんなもの、私の本当の価値じゃないです」
フィアナははっきり言った。
声は震えていた。
でも目は逸らさない。
「人の価値なんて、他人に決められたくありません」
その返しに、セレナの表情がほんの少しだけ変わった。
怒りではない。
惜しむような、冷たい残念さだった。
「やはり、まだ幼いですね」
「フィアナの言う通りだ」
アシュが低く言う。
セレナはアシュへ視線を戻した。
「あなた方は、何をしに来たのですか」
「見に来た」
アシュは答える。
「お前らが候補とやらを使って何をしようとしてるのか、自分の目で確かめに来た」
「それで?」
「十分見えた」
アシュの声が一段落ちる。
「お前らは、人を使ってるんじゃねえ。壊して、残りかすまで使ってる」
セレナはその言葉を否定しなかった。
その代わり、静かに言った。
「壊れるのは、耐えられないからです」
「違う」
アシュが即答する。
「壊してんのはお前らだ」
その一言のあと、部屋の空気がわずかに張った。
セレナの背後、祭壇めいた一段高い床の奥で、何かが動く。
大きい。
まだ姿は見えない。
だが、気配だけで分かる。
ルゥが低く唸る。
ガルドも弓を持つ手に力を込めた。
セレナは振り返らない。
「言葉で終わるなら、その方が楽だったのですが」
白衣の袖が、静かに揺れる。
「あなた方は、やはりここで止めるしかないようですね」
ノアが低く言う。
「来るぞ」
セレナがゆっくり手を上げた。
その指先に応じるように、奥の白布がいくつも揺れる。
寝台の影で、黒いものが脈打つ。
床の白い線が鈍く光る。
そして、祭壇の奥から、ひときわ重い気配が前へ出た。
白布をまとった巨大な影。
人とも魔物ともつかない輪郭。
その胸の奥で、黒い泥みたいなものがゆっくり脈動している。
フィアナが息を呑む。
「……あれを」
セレナの声は静かだった。
「失敗作と呼ぶのは、少し違います」
アシュが剣を握り直す。
「なら何だ」
セレナは薄く笑った。
「まだ途中のものです」
その瞬間、巨大な影が一歩前へ出た。
床が鳴る。
白い部屋の空気が、いよいよ壊れる。
第79話でした。
今回はセレナとの対面と会話を中心に、候補や失敗作、ルゥやフィアナ。アシュの立ち位置が少しずつ言葉になる回になりました。
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