第78話 静けさの向こう側
白い壁の奥は、静かだった。
だがその静けさは、安堵とは程遠い。
人の気配がないから静かなのではない。
人ではないものが息を潜めているから、音が死んでいる。
アシュたちは、倒した異形を跨いでさらに奥へ進んだ。
通路は少しずつ広くなっていた。
帳面庫の裏を通るだけの細道ではなく、明らかに人の出入りを前提にした造りへ変わっている。
それでも、表の礼拝堂のような清潔さはどこにもなかった。
見た目だけを整えたその白さの奥に、薬品と血の薄い匂いが沈んでいる。
フィアナが小さく息を呑んだ。
「……この先、嫌な感じがします」
ノアが前を見たまま頷く。
「気を抜くな」
ルゥはずっと低い姿勢のままだった。
耳を立て、鼻先を床へ寄せ、ときどき短く喉を鳴らす。
戻れ、と言いたいようにも、早く行けと言いたいようにも見える。
ガルドが弓を構え直した。
「さっきの連中だけで終わるわけねえとは思ってたが、胸糞悪さが増してきたな」
アシュは剣を持つ手に力を込めた。
小型の異形なら対処できる。
問題は、その先だ。
教会本部の奥へ行くほど、これが“たまたま湧いた異形”ではなく、明確に置かれ、使われているものだという気配が濃くなっていく。
「止まるな」
アシュが低く言った。
「ここで見つかったら面倒だ」
ノアが先頭のまま足を進める。
通路は途中で左右へ分かれていた。
左はさらに暗く、石の階段が下へ沈んでいる。
右は白い壁のまま、少し先で灯りが強くなっていた。
ノアは一瞬だけ迷い、それから右を選ぶ。
「気配は右が強い」
フィアナも頷いた。
「右の方に、何か……まとまってあります」
あるではなく、集められていると言いたげな言い方だった。
その先へ進んだ時、通路の途中に半開きの白い扉が見えた。
木ではない。
薄い金属で補強された扉だ。
新しい。
ここだけ古さが違う。
ノアが手を上げ、全員を止める。
中から音がする。
低い、湿った呼吸。
ひとつではない。
押し込められた何かが、狭い場所で身を捩るみたいな音だった。
フィアナの顔がこわばる。
「……ここ、嫌です」
アシュは扉の脇へ寄る。
覗き込む前に、ルゥが先に低く唸った。
「開けるぞ」
誰にともなく言い、扉を少しだけ押す。
中は広くはなかった。
だが狭くもない。
壁際に白い寝台が並んでいる。
帳面庫や保管所とは違う、処置室めいた場所だった。
そして、その寝台の上に“いた”。
人型が二体。
いや、もう人間とは呼べない。
片方は腕が三本あった。
どれも細く、白い布で途中まで巻かれている。
もう片方は上半身だけが異様に膨らみ、首がほとんど埋まっていた。
どちらも、白い箱で運ばれてきたものの延長に見えた。
目だけが白い。
焦点は合っていない。
それでも、扉が開いた瞬間に一斉にこちらを見る。
ガルドが息を吐いた。
「……おいおい」
その声に反応したのか、寝台の下の影が動いた。
今度は魔物型だった。
犬ほどの大きさ。
だが犬ではない。
ルゥに似ているようで、似ていない。
毛並みはまだらに剥げ、皮膚の下で黒いものが脈打っている。
眼球の片方だけが異様に大きく、もう片方は潰れていた。
それが寝台の下から這い出し、人型異形の足元へ身を寄せる。
ルゥの唸りが一段低くなった。
明らかに嫌悪していた。
「これ……」
フィアナが言葉を失う。
アシュも目を細めた。
人型と、魔物型。
別々にいるのではなく、近くに置かれている。
それがただの偶然には見えない。
その瞬間、人型の片方が寝台を蹴った。
白い布が裂ける。
床に落ちる。
そして異形は、歪な脚で無理やり立ち上がった。
「来るぞ!」
ノアが叫ぶ。
先に飛び出したのは魔物型だった。
低い。
速い。
床を滑るように走り、アシュではなくフィアナへ向かう。
ルゥがぶつかった。
白と黒が正面から噛み合う。
床に爪が鳴る。
ルゥは真正面から押し負けなかったが、相手もただの魔物ではない。
牙を剥き、こちらの喉元を狙うように何度も食らいついてくる。
「ルゥ!」
フィアナの声と同時に、淡い光が走った。
魔物型の目がそれを受け、ほんの一瞬だけ動きが止まる。
その隙を、ルゥは逃さなかった。
前足で押し倒し、そのまま首元へ深く噛みつく。
嫌な音がして、黒い液が床へ散る。
一方で、人型異形の方はアシュへ来た。
真っ直ぐではない。
途中で身体を折り曲げるようにして軌道を変える。
読みにくい。
アシュは半歩で外し、脇腹へ斬り込んだ。
浅い。
それでも止まらない。
異形は三本の腕をばらばらに振り回す。
武器でも拳でもなく、ただ届くものを掴みたがる動きだった。
「厄介だな……!」
ガルドの矢が飛ぶ。
一本目は胸。
二本目は頭。
それでようやく体勢が崩れる。
そこへアシュが踏み込み、首筋へ深く剣を入れた。
異形が痙攣し、白い壁へ血とも液ともつかないものを撒き散らす。
もう一体が、その横をすり抜けるように出てきた。
膨らんだ上半身が揺れる。
重そうに見えるのに、速い。
ノアが術を流し、床に細い光の線を走らせる。
異形の脚がそこへ絡まり、わずかに止まる。
「今だ!」
ガルドの矢が眉間へ入る。
だが止まらない。
頭を射抜かれても、まだ前へ出る。
フィアナの顔色が変わる。
「普通じゃありません……!」
「見れば分かる!」
アシュが吐き捨て、そのまま正面からぶつかった。
剣を突き立てるのではなく、身体ごと押し込む。
異形の上半身が重い。
中に、肉じゃない別の何かが詰まっているみたいだった。
だが押せる。
壁まで押し込み、そこでようやく喉元へ剣を滑らせる。
裂ける。
中から零れたのは血ではなく、黒ずんだ泥と、薄い灰の塊だった。
異形の身体から力が抜ける。
同時に、魔物型もルゥの下でようやく動かなくなった。
部屋に荒い呼吸だけが残る。
フィアナは震える手を胸の前で押さえていた。
ルゥは魔物型の死骸から離れたあとも、しばらく毛を逆立てたまま動かない。
「……人のそばに、魔物がいた」
フィアナがかすかに言う。
「偶然じゃないよな」
アシュは答えず、死んだ人型異形を見下ろした。
白い布。
痩せた四肢。
不自然に膨らんだ肉。
そして中から零れた灰。
以前、セレナが言ったことが頭の中で響く。
候補。
器。
失敗作。
その言葉が頭の中で勝手に繋がっていく。
ノアが部屋の奥を見た。
「こっちへ来い」
短く呼ぶ。
寝台のさらに奥、壁際に小さな棚があった。
そこへ木板が数枚と、薄い帳面がまとめて置かれている。
ノアが一枚を開き、目を細めた。
「……やっぱりな」
「何だ」
アシュが寄る。
木板には、簡単な印と記号、それに短い文字だけが並んでいた。
候補・第二仕分後/不適合/転用
その下には、数と印。
さらに別の板には、
随伴獣・歪化反応/近接保管
とある。
ガルドが眉をひそめる。
「随伴獣?」
フィアナはルゥを見た。
ルゥも、こちらを見返している。
ノアが低く言う。
「人型と魔物型を近くで置いてる理由だ」
アシュの目が細くなる。
「わざとか」
「たぶんな」
ノアは板を裏返した。
「しかも、ただ一緒に置いてるだけじゃない。何かを見てる」
「反応、ですか」
フィアナが言う。
その声は少し震えていた。
ノアは短く頷く。
「そう読むのが自然だ」
部屋の気温が一段下がった気がした。
教会は、失敗した候補をそのまま捨てていない。
さらに別の使い方をしている。
しかも、魔物まで巻き込んで。
フィアナが小さく息を吸う。
「セレナさんは、知ってるんでしょうか」
「知ってるどころじゃねえだろ」
アシュが言った。
「たぶん、こっちが本命だ」
ノアも同意した。
「少なくとも現場を知らない人間の仕事じゃない」
その時、部屋のさらに奥。
閉じたままだった白い扉の向こうから、低い音が響いた。
どん、と。
壁を叩くような重い音。
全員の視線がそちらへ向く。
さっきまでの異形とは明らかに違う。
もっと重く、もっと大きい何かがいる。
ルゥが一歩下がった。
フィアナの顔色も変わる。
「……近いです」
アシュは剣を握り直した。
この部屋は入口にすぎない。
その先に、まだ奥がある。
「行くぞ」
低く言う。
「本命はまだ先だ」
ノアが木板を数枚だけ抜き取る。
ガルドは新しい矢をつがえた。
フィアナはルゥの背へ一瞬だけ手を置く。
そして四人と一匹は、白い扉の前へ向かった。
その奥にいるのが、失敗作の続きか。
それとも、それを使う側の人間か。
もう、どちらでも驚かない場所まで来ていた。
第78話でした。
白い場所の奥で何が行われているのか、少しずつ輪郭が見えてきた回になりました。
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