第74話 行くしかない
翌日の昼を少し過ぎた頃、雨はようやく薄くなった。
止んではいない。
だが、軒先から落ちる雫も細くなり、空き家の中へ届く音も朝ほど強くない。
アシュは寝台から半身を起こしたまま、机の上に広げられた紙束を見ていた。
旧祈祷院地下から持ち出した板束。
記録庫で抜いた控え。
ノアがそこへ、今朝外で拾ってきた情報を重ねている。
「何か見えたか」
アシュが訊くと、ノアは板の一枚を指で押さえたまま答えた。
「だいぶ絞れた」
机の上には簡単な見取りが書かれている。
大きくはない。
だが必要な場所だけは押さえられていた。
フィアナもすぐそばへ寄る。
ガルドは壁にもたれたまま腕を組んでいたが、ちゃんと聞いている顔だった。
「旧祈祷院地下から流れた記録の先は、やっぱり教会本部側だ」
ノアが言う。
「しかも、ただの保管じゃない。選別と仕分けの続きが向こうで行われてる」
フィアナの表情が少し硬くなる。
「……白い箱の中の人たち、ですか」
「ああ」
ノアは短く頷いた。
「南保管層で仮置きして、それを教会本部側でさらに分けてる。少なくとも今、記録の上ではそうなってる」
アシュは机を見たまま小さく息を吐いた。
やはりそこへ行くしかない。
その結論が、改めて形になっただけだった。
「セレナさん、いるんでしょうか」
フィアナが言う。
「たぶんな」
アシュが答える。
「少なくとも、近い場所にはいるはずだ。あいつが全部を知らないとは思えない」
ガルドが壁から背を離した。
「行くしかねえってわけか」
「そうなるな」
「やっと悪の親玉の所に突入か」
「気楽でいいなお前は」
ノアの返しは淡々としていた。
王都の締め付けは強くなっている。
教会も王国も、もう好き勝手には動かせてくれない。
それでも、このまま潜んでいてもいずれ見つかる。
アシュはゆっくりと背を壁へ戻した。
「正面からは無理だな」
「当たり前だろ」
ガルドが言う。
「今のお前が教会本部の前歩いたら、向こうから迎えに来てくれるぞ」
「嬉しくねえな」
フィアナが机の端へ手を置く。
「中へ入る道はあるんですか」
その問いに、ノアは少しだけ間を置いた。
「あるかもしれない」
「また曖昧だな」
アシュが言う。
「今ある情報だけで断言はできない」
ノアは板の端を指でなぞった。
「ただ、教会本部みたいな場所は、正面玄関だけで回ってるわけじゃない。荷の搬入、下働きの出入り、古い倉庫口、そういう表に出ない道があるだろう」
「そこを探すわけか」
「そうだ」
ガルドが鼻を鳴らす。
「結局、また潜り込むのは変わらねえな」
「変わらない」
「でも今度は教会のど真ん中だ」
「前よりは楽しくなりそうだな」
ルゥが寝台の横から顔を上げる。
話の中身までは分からなくても、空気の変化だけは拾っているのだろう。
フィアナはルゥを見てから、もう一度ノアへ向き直った。
「私たちも、やっぱり行くべきなんですよね」
ノアはすぐには答えなかった。
だが、逸らしもしなかった。
「フィアナとルゥを置いていくと、逆に危ない」
その言葉に、フィアナの指先が少しだけ強張る。
「そうですね。ここもいつ見つかるかわかりません」
「分かっているならいい」
アシュがそこで口を開いた。
「向こうが狙ってんのは、たぶんフィアナだけじゃない」
フィアナは黙って聞いている。
「王国や教会。セレナが何を考えてるにせよ、全員で行かないと止められないだろう」
その言葉に、フィアナは小さく頷いた。
「はい」
ガルドが顎を掻く。
「で、肝心のお前はどこまで動ける」
「だからもう大丈夫だ」
「……やっぱりまだ休んだ方がいいな」
「聞けよ」
アシュは返すが、ガルドはアシュが無理をしていることを見抜いていた。
ノアが机の上の板束へ目を向ける。
「なら今日は休みつつ、入る道を絞る日だな」
「そうだな」
ノアが言った。
「今日のうちに教会周辺を探る。明日、潜れると判断できるなら動く」
「警備が厳重なんじゃないですか?」
フィアナが訊く。
ノアは少しだけ目を細めた。
「そのときはそのときだ」
その言い方がノアらしくて、ガルドが小さく笑う。
「嫌いじゃねえよ、そういうの」
「褒めてるつもりか」
「たぶんな」
そこで一度、会話が切れた。
外ではまだ雨が降っている。
王都はきな臭くなっている。
教会本部も動き始めた。
なのに、この狭い空き家の中だけは、まだ鍋を火にかけられるくらいの時間が残っている。
そのわずかな余白が、逆に切実だった。
フィアナがふと思い出したように言う。
「今晩も、ちゃんと食べてください」
アシュが顔を上げる。
「またその話か」
「大事です」
「食えば動けるってわけでもねえだろ」
「食べないよりはいいです」
きっぱりした口調だった。
ガルドがそこで口を挟む。
「それは正論だ」
「珍しく味方するんだな」
「飯の話だからな」
ガルドはそう言ってから、少しだけ真面目な顔に戻った。
「次に動くなら、ちゃんと食って、ちゃんと休んで、ちゃんと頭回る状態で行け。中途半端が一番まずい」
アシュはしばらく黙ったあと、小さく息を吐いた。
「分かってる」
それは、ようやく本音に近い返事だった。
焦って飛び出したい気持ちはある。
だが、昨日ガルドの言った通り、休めるときに休んだ方がいい。
フィアナが器を片づけながら言う。
「じゃあ今日は、休みながら決める日ですね」
「そうだな」
ノアが頷いた。
「明日から先は、いつ休めるか分からないからな」
ガルドが窓の外を見る。
「ま、こういう日があるなら悪くねえ」
「お前は飯があるからだろ」
「それもある」
あっさり認める。
ルゥがそこへ割り込むように立ち上がり、寝台へ前足をかけた。
アシュの膝へ鼻先を押しつける。
「お前も焦って飛び出すなよ」
アシュが言うと、ルゥは耳をぴくりと動かした。
たぶん分かっていない。
でも、早く元に戻れとでも言いたげな顔はしていた。
フィアナがその様子を見て、ほんの少しだけ笑う。
昨日までの空気とは違う。
まだ痛みも、不安も、雨の余韻も残っている。
でも、それでも前へ進む準備を始められる程度には、皆の呼吸が揃ってきていた。
空き家の中はまだ暗い。
王都の不穏も、教会の動きも消えていない。
けれど今は、その全部に真正面から踏み込む前の、わずかな整え直しの時間だった。
アシュは机の上の板束を見た。
次に踏み込む場所はもう決まっている。
あとは、進むだけだ。
第74話でした。
束の間休息も、終わりが近づいてきました。
少しでも続きが気になったら、
ブックマークや評価、感想などいただけると嬉しいです。




