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灰の王は赦されない  作者: 星喰ゆう
第8章 外れの森で

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第70話 雨の中で

 雨は、暗くなりきる前から降り続いていた。


 空き家の屋根を打つ音は細かく、絶え間ない。

 強い雨ではない。

 だが止む気配もない雨だった。


 フィアナは窓際に立ったまま、何度目かも分からないほど外を見た。


 見たところで何かが分かるわけじゃない。

 外は薄暗く、雨に煙っていて、通りを行く影ももうほとんどない。


 それでも、じっとしていられなかった。


「まだ戻らねえな」


 ガルドが壁にもたれたまま言う。


 声はいつも通りに聞こえる。

 だが、何度も同じ姿勢を変えているのが分かる。


 ノアは机の前に立ったまま、上着の留め具を指でいじっていた。

 落ち着いているように見えて、少しも落ち着いていない。


「遅すぎる気がします」


 フィアナが小さく言う。


 ノアが視線を向けた。


「あいつなら心配ないだろ」


「でも」


「焦るな」


 短い返しだった。

 きつく言ったわけではない。

 それでも、フィアナはそれ以上の言葉を飲み込んだ。


 分かっている。

 焦って全員で飛び出せば、余計に状況が悪くなることもある。

 相手が本当にレオフだった場合のことも、罠の可能性も、全部まだ消えてはいない。


 でも、それでも。


 胸の奥にある嫌な感じだけが、少しも薄くならなかった。


 ルゥが、低く喉を鳴らした。


 フィアナが振り向く。


 ルゥは扉の前に立っている。

 耳が立っていた。

 尻尾は下がっている。

 落ち着かない時の顔だった。


「ルゥ」


 呼ぶと、ルゥは一度だけこちらを見る。

 それからまた扉へ視線を戻した。


 その仕草だけで十分だった。


 フィアナの中で、何かが決まる。


「私、行きます」


 ノアの眉が動いた。


「待て」


「待てません」


 フィアナははっきり言った。


「もう無理です」


 ガルドが壁から背を離す。


「フィアナ」


「分かっています。危ないのは」


 それでも、声は止まらなかった。


「でも、今アシュさんが危ない状況だったら、私たちが助けに行かないと」


 部屋の中が少しだけ静かになる。


 雨音だけが残る。


 ノアがフィアナを見た。

 ガルドも、何か言いかけてやめた。


 ルゥがまた、短く鳴く。


 その声に押されるように、ノアが息を吐いた。


「……行くなら急ぐぞ」


 フィアナが顔を上げる。


「いいんですか」


「止めても行くだろ」


「はい」


「だろうな」


 ガルドがぼそりと言う。


「ったく、誰かさんと同じだな」


 そう言いながら、もう弓を持ち直していた。


 扉が開く。


 雨の匂いが、冷たい空気ごと流れ込んできた。




 森へ向かう道は、行きよりもずっと遠く感じた。


 雨に濡れた石畳は暗く、外れへ行くほど人の気配も消えていく。

 王都のざわめきはまだ背中側にあったが、ここまで来るともう別の場所みたいだった。


 フィアナはほとんど走るように歩いた。

 上着の裾が濡れる。

 髪も頬も冷たい。

 それでも気にならない。


「飛ばしすぎるな」


 ノアが後ろから言う。


「焦って罠にはまったら、元も子もない」


「……はい」


 返事はした。

 だが、歩みはあまり緩まなかった。


 ルゥが先へ出る。


 森の入口に着く頃には、地面はもうぬかるみ始めていた。

 葉を打つ雨音が近い。

 土の匂いが濃い。


 ルゥはそこで一度止まり、鼻先を低くした。

 湿った地面へ顔を寄せ、匂いを追うようにゆっくり歩き出す。


「分かるのか」


 ガルドが言うと、ルゥは返事の代わりに少しだけ足を速めた。


 フィアナもすぐあとを追う。


 木々のあいだは暗い。

 昼よりずっと狭く見える。

 雨のせいで視界も悪い。

 どこを見ても灰色と黒ばかりだった。


 それでもルゥは迷わない。


 枝を避け、木の根を越え、湿った土を踏みしめて進んでいく。


「待って」

 

「おい、待てフィアナ」


 フィアナは是力で走り出す。


 嫌な感じが、もっと強くなる。


 フィアナは濡れた前髪を払った。

 心臓がうるさい。

 息が浅くなる。


 やがてルゥが、急に低く唸った。


 フィアナの足が止まる。


「……ルゥ?」


 次の瞬間、白い影が木のあいだを駆けた。


 フィアナも後を追う。


 足元は悪い。

 枝が顔に当たる。

 上着が濡れて重い。

 それでも構わず進んだ。


 少し開けた場所に出た時、ルゥは一つの影のそばにいた。


 雨に打たれたまま、土の上に伏している。


 黒い上着。

 見慣れた背。

 片腕が投げ出され、指先だけが泥に沈んでいる。


「……アシュさん!」


 声が、少しだけ掠れた。


 返事はない。


 フィアナは駆け寄って膝をつく。

 ルゥが低く鳴いて、アシュの肩へ鼻先を押しつける。

 起きろ、とでも言いたいみたいだった。


 フィアナは震える手で顔を向けさせる。


 冷たい。

 でも、生きている。

 息はある。

 浅いけれど、ちゃんとある。


「よかった……」


 言った瞬間、ようやく息が吐けた。

 今まで詰めていたものが、少しだけほどける。


 アシュのまぶたが、わずかに動いた。


「……フィアナ」


 かすれた声だった。


 フィアナの目が揺れる。


「はい」


「何で、来た」


 その言い方に、少しだけ泣きたくなる。

 こんな時まで同じことを言うのかと。


「遅いからです」


 フィアナは答えた。


「帰ってこないからです」


 アシュは薄く目を開けたが、焦点はまだ合っていない。

 雨が頬を伝って流れていく。


「……そうか」


「……薬。腰の袋……取ってくれ」


 それだけ言って、また瞼が落ちる。


「あの薬……」


 フィアナはアシュの腰袋から薬を取り出し、飲ませる。


 アシュの顔が歪む。


「起きてください。立てますか」


「……どうだろうな」


 今度の返事は少しだけ早かった。

 だが、その声はひどく弱い。


 フィアナは周囲を見た。


 少し離れた木の根元に人が倒れているのが見えた。

 雨に打たれ、もう動いてはいない。


 そこを見て、胸が少しだけ重くなる。

 でも今は立ち止まれない。


「出口まで行きましょう」


 フィアナが言う。


 自分に言い聞かせるような声だった。


 アシュの腕を肩へ回し、無理やり体を起こす。

 重い。

 雨で濡れているぶん、なおさら重い。

 それでも立たせるしかない。


「ルゥ、案内してください」


 ルゥがすぐに動く。


 アシュはほとんど自分では歩けなかった。

 足を出しているのかどうかも怪しい。

 フィアナが肩を支え、引きずるみたいにして進む。


 一歩。

 また一歩。


 ぬかるみに足が取られる。

 滑りそうになる。

 それでも止まれない。


「大丈夫です」


 フィアナは誰にともなく言った。


「大丈夫ですから」


 たぶん、自分に向けていた。


 しばらく進んだところで、前から人の気配がした。


 ルゥが大きく鳴く。


「フィアナ!」


 ガルドの声だった。


 次いでノアも姿を見せる。

 森の入口側から、二人とも急いでこちらへ来ていた。


 ガルドはアシュの姿を見るなり、顔をしかめる。


「うわ、ひどいな」


「生きてます」


 フィアナが言う。


「だろうな。こいつがそう簡単に死ぬはずがねえ」


 そう言いながら、ガルドはすぐにアシュの反対側へ回り込んだ。


「貸せ」


 そのまま一度しゃがみ込み、強引に背負い上げた。


 アシュの顔がわずかに歪む。

 それでも文句は言わない。

 言う元気も残っていないのだろう。


 ガルドが言う。


「このまま帰るぞ」


 ノアは短く頷き、フィアナの肩を一度だけ見た。


「怪我は」


「大丈夫です」


「本当にか」


「……大丈夫です」


 濡れた髪を払って答えると、ノアはそれ以上は言わなかった。


 森を出るまでの道は、行きより少しだけ短く感じた。


 アシュが見つかったからか。

 それとも、ようやく動く先がはっきりしたからか。


 ルゥは何度もガルドの足元とフィアナの足元を行き来した。

 落ち着かないのだろう。

 それでも、もう最初みたいな唸り声は出さない。


 出口に着く頃には、雨はさらに細かく、長く降っていた。


 空き家へ戻ると、フィアナはようやく膝から力が抜けそうになった。


 だが、まだ座り込むわけにはいかない。


「寝台へ」


 ノアが言う。


 ガルドがアシュを背負ったまま奥へ運ぶ。

 狭い部屋の中で、寝台が急に小さく見えた。


 アシュを寝かせる。

 濡れた上着を外す。

 剣を脇へ置く。


 ルゥがすぐ足元へ伏せた。


 フィアナはその場にしゃがみ込み、濡れた前髪を払った。

 指先がまだ少し震えている。


 アシュは目を閉じたままだ。

 息はある。

 浅いが、さっきよりは落ち着いていた。


 フィアナはようやく、小さく息を吐いた。


「……帰ってきた」


 声にすると、実感が少しだけ追いついた。


 ノアが机へ板束を置き直しながら言う。


「今夜は何もするな。まず休ませる」


 ガルドが濡れた髪を乱暴に払う。


「ったく、派手にやられたな」


 その言い方は荒い。

 でも、どこか安心しているのが分かった。


 フィアナは寝台のそばから離れなかった。


 雨音が屋根を叩く。

 部屋の中は暗い。

 それでも今は、森の中よりはましだった。


 もう一人で行かせたくない。


 ふと、そんな言葉が胸の奥に浮かぶ。


 さっき森で見た背中。

 土の上に倒れていた姿。

 あれが、まだ目の奥から消えない。


 フィアナは濡れた布を絞り、そっとアシュの額へ当てた。


 外では雨が降り続いている。

 だが今は、その音が少しだけ遠くなった気がした。

第70話でした。


これで第7章終了です。


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