第69話 なんでお前ばっかり
ヴァルトが一度だけ剣を引き、雨の気配が濃くなった森の中で笑った。
「本気で来いよ、アシュ」
その声は軽い。
だが、そこに乗っている熱だけは隠れていなかった。
肩が痛む。
脇腹も脚も重い。
このまま押し合いを続ければ、先に削り切られる。
分かっていた。
ヴァルトも、それを分かっている顔だった。
「お前は、こんなもんじゃないはずだ」
「……うるせえよ」
アシュは剣を握り直した。
次の瞬間、心臓が一つ大きく鳴る。
灰刻。
血が逆流するような感覚が、一気に全身を駆け上がった。
筋肉の奥に沈んでいた熱が噴き上がる。
視界の端が削れ、その代わり目の前の線だけが鋭く立つ。
ヴァルトの目が、初めてはっきり見開かれた。
「……いいぞ。来い!」
次の瞬間にはもう、アシュが前にいた。
速い。
土が弾ける。
森の空気が一拍遅れて鳴る。
ヴァルトが剣を返す。
アシュは真正面から受けない。
外へ半歩滑り、そのまま横腹へ斬り込む。
ヴァルトが受ける。
火花。
重い音。
だが、今度は押し切れる。
「っ……!」
ヴァルトが一歩下がる。
初めてはっきり、受けた側へ押し込まれた。
アシュは止まらない。
返す刃。
低く払う。
ヴァルトが跳ぶ。
着地へ合わせて突き上げる。
今までなら追いつかなかった二手目が、今は間に合う。
「そうでなくちゃな!」
ヴァルトが笑った。
笑っているのに、目だけは殺気で冷えている。
剣を返す。
受けるだけじゃない。
押されながらも、ちゃんと喰らいついてくる。
アシュの斬撃を外へ流し、その勢いを利用して逆に肩を打つ。
鈍い衝撃。
灰刻で強化されていても、入れば痛い。
「くっ……!」
「それだよ!」
ヴァルトが叫ぶ。
「それを見たかった!」
雨が一滴、二滴と落ち始めた。
葉を打つ音が増える。
土の匂いが濃くなる。
アシュが踏み込む。
速い。
重い。
だが、今度はヴァルトが逃げない。
真正面からぶつけてくる。
剣と剣が噛み合う。
押し合いじゃない。
ぶつかって、離れて、すぐまたぶつかる。
速さが上がったぶんだけ、戦いが雑になっていく。
ヴァルトが低く笑う。
「いいね」
受ける。
返す。
そこへ膝が飛ぶ。
アシュは肘で止める。
その隙にヴァルトの刃が肩口を掠める。
浅い。
だが、互いにもう綺麗な剣じゃない。
ヴァルトの剣が喉元を狙う。
アシュは身を沈めてその下を抜ける。
懐へ入る。
拳で胸元を打つ。
ヴァルトが息を詰まらせる。
だが退かない。
逆に額がぶつかるほど近い距離で、歪んだ笑みを浮かべた。
そこでヴァルトが無理やり体を捻った。
近すぎる距離からの斬り上げ。
避けきれない。
アシュは剣の腹で受け流す。
それでも刃先が頬を裂いた。
熱い。
雨がそこへ落ちる。
血と混じって視界の端を流れた。
ヴァルトが木へ背を預けるようにして一度だけ距離を切る。
肩で息をしている。
だが、その目はまだ折れていない。
「第七席」
雨の中で言う。
「俺が立つはずだった」
アシュは低く息を吐いた。
「いまはそうだろ」
「てめーのおさがりだ」
「関係ねえだろ」
「関係あるんだよ!」
ヴァルトが吠えた。
「お前はいつも、何でもない顔で先に立つ!」
踏み込む。
さっきまでより速い。
いや、速さじゃない。
もう理屈ではなく、執着だけで前へ出ている。
アシュも受ける。
灰刻で強化された身体が軋む。
強い。
だが、強いだけだ。
削っているのは自分自身だ。
ヴァルトの剣が来る。
受ける。
返す。
今度はアシュの方が半歩だけ前へ出る。
差が出始めていた。
灰刻を使ったあとも、ヴァルトは喰らいついてきた。
だからこそ分かる。
それでも、もう少しずつ押し返しているのはこっちだ。
ヴァルトも気づいたらしい。
雨に濡れた顔で笑った。
「……くそが」
「結局、お前の方が上なのかよ」
その声は、もう笑っていなかった。
アシュは何も言わず、剣を構え直した。
ヴァルトが最後の踏み込みを見せる。
低い。
速い。
だが、もう見える。
剣を受ける。
押し返す。
そこへヴァルトはさらに身体ごと入ってきた。
最後の最後まで、退かない。
アシュは一歩だけ踏み込んだ。
それだけで足りた。
ヴァルトの間合いの中へ、さらに半歩深く入る。
剣を大きく振るわない。
最短で押し込む。
ヴァルトの目が見開かれる。
「っ――」
胸元へ深く入る。
肉を裂く感触。
骨へ当たる鈍い手応え。
ヴァルトの身体がそこで止まった。
雨が降る。
葉を叩く音。
土へ落ちる音。
血が混じる音。
ヴァルトは木にもたれたまま、首元へ手をやった。
指の間から血が溢れていく。
致命傷だ。
もう、自分でも分かっている顔だった。
「なんで」
低い声だった。
「なんで、お前ばっかり」
雨が強くなる。
ヴァルトの手がずるりと落ちる。
「なんで……」
アシュは何も言わない。
言える言葉が、ひとつもなかった。
ヴァルト・グレインは、口元の形だけを崩して、そのまま動かなくなった。
森に雨音だけが残る。
アシュは剣を下ろしたまま、しばらく立っていた。
勝った。
だが、その実感が来るより先に、灰刻の反動が内側を焼き始める。
「っ……」
膝が揺れる。
雨の向こうを見上げた時、ふと、昔の光景が浮かんだ。
まだ席持ちになる前。
訓練場の端。
夕方の少し前。
『第七席を決めるらしいぞ』
ヴァルトが、まだ今より少し若い顔で笑っていた。
『絶対、おれが選ばれるはずだ。選ばれたら酒でも奢れよ』
アシュはその時、興味の薄い顔で返したのだ。
『そうなのか』
そして少し間を置いて。
『……選ばれたらな』
それだけだった。
今思えば、あまりにも軽い。
だが、あの時の自分には本当にその程度の重さだったのだろう。
雨が額を打つ。
目を閉じる。
ヴァルトの最後の顔が、どうしても消えない。
「……くそ」
小さく吐いた。
足がもう持たない。
アシュは一歩だけ前へ出ようとして、そのまま大きく崩れた。
濡れた土の冷たさが、頬へ直に触れる。
雨音だけが続いている。
森の中で、もう立ち上がる力は残っていなかった。
第69話でした。
ついに、ヴァルトとの因縁に決着がつきました。
ただただ勝ちたかった。その執着だけでここまで来た男の見事な最後でした。
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