第64話 王都のざわめき
空き家へ戻った時には、もう夜も深くなっていた。
地下の埃と血の匂いが、まだ服にこびりついている。
ディルクを斬った感触も、封印線が弾けた光も、目の奥に残ったままだ。
アシュは椅子へ腰を落としたまま、しばらく目を閉じていた。
瓶で痛みは少し鈍った。
だが消えたわけじゃない。
灰刻で無理やり押し切った分、内側の軋みが遅れて全身へ回ってきている。
「寝ろ」
ノアが言った。
「言われなくても、そのつもりだ」
返した声に力がない。
ガルドがそれを聞いて、珍しく何も茶化さなかった。
フィアナは机の端に置かれた板束を一度だけ見て、それからアシュの前へ来た。
「その前に包帯を」
「かすり傷だ」
「ちゃんと治療しないとだめです」
断る隙もなく、布が肩へ触れる。
裂けた服を少しだけずらされ、傷の周りを拭われるたびに、鈍い熱が骨まで響いた。
「っ……」
「我慢してください」
「してるだろ」
「顔に出てますよ」
小さな言い合いのあいだだけ、部屋の空気が少しだけ緩む。
結局、その夜は見張りを二人ずつで回した。
最初はノアとガルド。
次はフィアナ。
ルゥは勝手にアシュの足元で丸くなり、誰に命じられなくても目だけは閉じなかった。
アシュがまともに意識を落とせたのは、朝に近い、ほんの短い時間だけだった。
昼になると、王都のざわめきが変わった。
窓の外を行く足音が増えている。
遠くで鐘が鳴る回数も、いつもより多い。
兵の声が、ときどき風に乗って聞こえた。
「騒がしくなってきたな」
ガルドが窓の隙間から外を覗きながら言う。
ノアが机の板束へ布を被せる。
「地下の異変に気づいたんだろう。さすがに席持ちが死ねば隠しきれない」
「よくそんな冷静でいられるな」
「焦ったところでどうにもならないだろ」
ガルドは鼻を鳴らしたが、否定はしなかった。
昼のうちに必要なものを揃えることになった。
ガルドは食料。
ノアは外の様子と、教会側の動きの確認。
どちらも長くは出歩かない。
「お前は留守番だ」
出ていく前にガルドが言った。
「そんな顔で外歩かれたら、目立ってしかたねえ」
「お前のほうが、悪人顔だろ」
「そんだけ言えりゃ上等だ」
アシュが舌打ちしかけるより先に、ガルドはもう外へ出ていた。
ノアも扉の前で一度だけ振り返る。
「ちゃんと休めよ」
「しつこいぞ」
「フィアナ、何かあれば合図しろ」
「はい」
扉が閉まる。
狭い空き家に残ったのは、アシュとフィアナとルゥだけだった。
しばらくは静かだった。
外のざわめきは遠い。
この部屋の中だけ、時間の流れが少し遅い気がする。
フィアナは水を替え、布を絞り、机の上を片づけた。
やることがなくなると、今度は窓際まで行って外を見ようとして、結局やめた。
「落ち着かねえか」
アシュが言う。
フィアナは少しだけ肩を揺らした。
「……はい」
「だろうな」
「アシュさんは」
「落ち着いてるように見えるか」
そう聞くと、フィアナは小さく首を振った。
「見えません」
「正直で助かる」
アシュは椅子にもたれたまま、天井を見る。
旧祈祷院地下の寝台。
白い箱。
ディルクの最後の目。
全部が頭のどこかに引っかかったまま離れない。
それでも今は、まだ動く時じゃない。
無理に立てば、次で足をすくわれる。
ルゥが床から立ち上がったのは、その時だった。
耳が立つ。
扉を見る。
低く、短く喉が鳴る。
アシュが視線を向ける。
「誰か来たな」
フィアナも扉を見た。
足音は軽い。
兵ではない。
だが、いつもの下働きの少年とも違う。
そして、扉を叩く音も少しだけ遠慮があった。
「……誰ですか」
フィアナが訊く。
扉の向こうで、少年の声がした。
「届け物」
聞き覚えはない。
年は若い。
でも、あのぶっきらぼうな少年よりは少しだけ怯えている声だ。
アシュは椅子から立ち上がりかけて、肩に走った痛みに顔をしかめた。
「待て。俺が見る」
「大丈夫です」
フィアナが小さく言った。
「今はアシュさんがの方が目立ちます」
言い返せなかった。
フィアナは慎重に扉へ寄る。
ルゥがその足元につく。
扉を細く開けると、外にいたのはやはり知らない少年だった。
痩せた顔。
日焼けした手。
服は町の雑用係みたいな薄汚れた上着。
顔を合わせるのが怖いのか、こちらをほとんど見ない。
「……何ですか」
フィアナが言う。
少年は小さな紙片を差し出した。
「あの人から」
「あの人?」
「頼まれただけだ。俺は知らない」
その返しに、フィアナの目が少しだけ細くなる。
どこかで聞いたような言い回しだ。
だが、あのいつもの少年ではない。
「誰からですか」
「知らないって」
少年は急に苛立ったみたいに言って、それから声を落とした。
「……でも、黒い上着の人」
そこで十分だった。
レオフを思わせるには足りる。
フィアナは紙片を受け取った。
「分かりました」
少年はもうそれ以上何も言わず、逃げるみたいに走っていった。
扉が閉まる。
部屋の中の空気が少し変わる。
ルゥが低く喉を鳴らした。
嫌がっているのが分かる音だった。
「……いつもの子じゃなかったですね」
フィアナが言う。
「ああ」
アシュは椅子へ座ったまま、差し出された紙切れを受け取った。
折り目を開く。
話したいことがある。
西外れの森へ来い。
一人で来てくれ。
今なら、まだ間に合う。
それだけだ。
アシュはしばらく黙って、その文字を見ていた。
フィアナが訊く。
「レオフさんですか」
アシュはすぐには答えなかった。
「……らしくはある」
だが、断言できるほどではない。
何かが少し違う気もした。
ルゥがまた唸る。
フィアナはその音を聞いたまま、紙切れを見つめた。
「嫌な感じがします」
小さな声だった。
アシュは紙片を折りたたむ。
外ではまだ、王都のざわめきが続いていた。
この狭い空き家の中だけが、静かだった。
第64話でした。
旧祈祷院地下のあと、
少しだけ息を整える時間を置きつつ、レオフからと思われる手紙が届きました。
少しでも続きが気になったら、
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次話もよろしくお願いします。




