第61話 旧祈祷院の下
翌日の夜、王都の空気は昼よりも乾いていた。
冷えているのに、どこかざらついている。
アシュたちは西区画の外れ、崩れた納骨堂跡の影へ身を潜めていた。
旧祈祷院の地上部は、昼に見た時よりさらに死んだ建物に見える。
壁は崩れ、屋根も半分落ちている。
昔は祈りの声が満ちていたのだろうが、今はもう風が抜けるだけだ。
だが、その足元だけは違う。
崩れた石棺の奥、見取り図にあった細い入口の向こうから、かすかに灯りが漏れている。
「今だな」
ノアが低く言った。
紙片に記された交代時間通り、見張りの気配が途切れている。
アシュは頷いた。
「行くぞ」
先頭はノア。
次にアシュ。
フィアナ、ルゥ、最後にガルドが続く。
入口は狭かった。
人ひとりがやっと屈んで通れる幅だ。
その先には、急な石段が下へ伸びていた。
湿った石の匂い。
古い埃。
それに混じって、どこか薬みたいな乾いた匂いがする。
祈祷院の地下、という言葉から想像する空気ではなかった。
石段を下りきると、まっすぐ細い通路が走っていた。
壁際には細い灯火。
足元は磨り減っている。
長いあいだ、何度も人が通った道だと分かる。
フィアナが小さく息を吸う。
「……なんか嫌な空気ですね」
正直な声だった。
「そうだな」
アシュが返す。
それでもフィアナは止まらない。
通路の先で、空間が少し開けた。
礼拝堂跡だった。
半円形の奥まった間。
祭壇があったはずの場所には白い布のかかった長机が並び、その左右へ白い箱が積まれている。
南の第三倉庫で見たものと同じ箱だ。
数は七つ。
多くない。
でも、それだけあれば十分すぎた。
ガルドが舌打ちを飲み込む。
「ほんとにあったな」
「静かにしろ」
ノアが言う。
人の気配は二つ。
右奥の記録棚のそばに一人。
左の小部屋の前に一人。
どちらも兵ではない。
管理側の人間っぽい立ち方だった。
アシュは左の小部屋へ目を向けた。
扉が半開きになっている。
中は暗い。
だが寝台が並んでいるのが見えた。
「フィアナ」
「はい」
「行くぞ」
アシュとフィアナが先にそちらへ滑り込む。
ノアは記録棚へ、ガルドは礼拝堂跡の柱陰へ回った。
小部屋の中は狭かった。
寝台が四つ。
そのうち三つに人が寝かされている。
白い布を掛けられ、手首に細い札が巻かれていた。
最初の一人にフィアナが触れる。
首元へ指先を当てる。
息はある。
浅い。
でも、生きている。
次。
その次。
「三人とも、生きてます」
押し殺した声なのに、動揺は隠せていなかった。
アシュは寝台の顔を見る。
若い。
全員がそうだった。
子供ではない。
でも大人と呼ぶにはまだ早いような年頃の者ばかりだ。
顔色が悪い。
痩せている。
それでも、ただの死体ではない。
「……こっち」
フィアナがいちばん奥の寝台へ身を寄せた。
「白環の反応が、少しだけ残ってます」
アシュが目を細める。
「やっぱり候補か」
「たぶん……」
そこで、寝台の一人が小さく喉を鳴らした。
二人とも動きを止める。
目が、開いていた。
焦点はぼやけている。
でも、こちらを見ている。
「……ちがう?」
かすれた声だった。
その一言だけで、フィアナの顔が変わる。
「大丈夫です」
すぐに膝をつく。
「静かにしてください。助けに来ました」
そう言っても、寝台の相手の目の揺れはすぐには収まらない。
助けるという言葉自体、もう簡単には信じられないのだろう。
アシュは部屋の入口へ目をやった。
ノアはまだ記録棚を見ている。
ガルドも動いていない。
だが時間は長くない。
「連れ出せるか」
低く問う。
フィアナは三人を見た。
そして、悔しそうに首を横へ振った。
「今すぐ三人は無理です」
そこに嘘はない。
「一人なら、なんとか……でも、残りは」
言葉が続かない。
アシュは息を吐いた。
全部は無理。
最初からそうだ。
でも、実際目の前に置かれると話は別だった。
その時、ノアが小部屋の入口まで戻ってきた。
「記録棚を見た」
声は低い。
「受け入れ控えと、再仕分の板がある。全部は持てないが、抜くなら数枚いける」
「何が分かった」
「白い箱はここで終わりじゃない。下に回すみたいだ」
アシュの目が細くなる。
「まだ下があるのか」
「見取り図の奥の線だろう」
フィアナが顔を上げる。
「じゃあ、この人たちも……」
「全部がそうとは限らない」
ノアが答える。
「でも、ここが回される前の場所ではある」
ガルドが柱陰から手を上げた。
合図だ。
右奥の管理役が動いたらしい。
「早く決めろ」
小さく言う。
「こっちもそろそろもたねえ」
アシュは寝台の三人を見る。
机の上で決めた優先順位が、今はもうただの言葉じゃない。
「一人だけ連れていくぞ」
低く言った。
フィアナが息を止める。
フィアナは悔しさを飲み込んで頷いた。
寝台の中で、意識のある一人へ手を伸ばす。
細いし、軽い。
でも、生きている重さがある。
その瞬間、礼拝堂跡の奥で小さな金属音が鳴った。
全員の身体が固まる。
「まずい」
ノアが低く言う。
「何だ」
「右奥の記録棚――」
そこまで言った時、通路のさらに奥から、乾いた足音が響いた。
一つではない。
二つ。
いや、三つ。
さっきまでいなかったはずの人数だ。
ガルドが舌打ちする。
「増えたぞ」
アシュは抱えかけた身体をいったん寝台へ戻した。
まだ運び出せない。
今ここで動けば、全員が終わる。
足音はまっすぐ近づいてくる。
迷いがない。
この地下を知っている歩き方だ。
フィアナが小さく息を呑む。
「来ます」
「ああ」
アシュは剣の柄に手を置いた。
まだ抜かない。
だが、いつでも抜ける位置に。
ノアが記録棚から薄い板を二枚だけ抜き取り、袖の内へ滑らせる。
ガルドは弓を持ったまま、礼拝堂跡の柱の影へさらに沈んだ。
ルゥは音もなく低くなり、毛を逆立てる。
足音が、礼拝堂跡へ入る。
先に見えたのは白い裾。
次に、細く長い影。
そしてその手には、鈍く光る鎖が揺れた。
第61話でした。
旧祈祷院地下へ入って、
白い箱と候補たちの実態が、ようやく目の前のものになってきました。
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