第6話 追う者の正義
第6話です。
今回は王国側の視点。
アシュを追う者にも、守ろうとしている正義があります。
夜明け前の森は、夜よりも薄暗い。
空が白み始めているはずなのに、木々の隙間を満たす気配は重く、湿っていた。
ルーク・エスハルトは、倒れた兵のそばで膝をついていた。
血はまだ乾ききっていない。
草葉の先にこびりついた赤も、踏み荒らされた地面の痕跡も、戦いがついさっきまでここにあったことを示している。
「……間に合わなかったか」
低く呟く。
返事はない。
あるのは、死体と、鉄の臭いと、敗北の跡だけだった。
王国兵三名。
教会兵二名。
加えて、穢れの濃い獣型魔物が数体。
現場は乱れていたが、完全に無秩序ではなかった。
斬られた位置。
崩れた体勢。
血の飛び方。
どれを見ても、ひとりの剣士が短時間で戦況を制圧したことが分かる。
しかも、無駄がない。
必要な相手だけを、必要な順番で落としている。
ルークはゆっくりと立ち上がり、ひとつの死体へ目を向けた。
喉を裂かれた王国兵。
剣筋が、見覚えのあるものだった。
飾り気がない。
荒々しさもない。
ただ速く、正確で、冷たい。
実戦の中で削られた剣だ。
ルークはその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
王国異端討伐隊、第七席。
アシュ・ヴァレン。
王国が抱える最上位実戦部隊――異端討伐隊。
異端化した人間、高位魔物、禁術絡みの事件。
騎士団や地方兵では手に負えない“王国の厄災”を処理するための部隊だ。
その中でも“席持ち”は七人しかいない。
実力、生存率、任務達成率、そのすべてで選ばれた危険任務専門の執行者。
第七席は、決して末席ではない。
むしろ若くして就くには異例の実戦位階だった。
討伐隊に入ったばかりの若い兵にとって、“席持ち”は名前だけで空気が変わる存在だった。
その中でもアシュ・ヴァレンは、生きて帰ること自体が難しい任務から何度も戻ってきた男だった。
かつて、自分が憧れた男の剣だ。
「……本当に、あの人なんですか」
背後から、若い兵士が不安げに言った。
ルークは振り返らない。
「断定はできない」
「ですが、この剣筋……」
「断定はするなと言った」
声は強くなかった。
だが若い兵士はすぐに口をつぐんだ。
ルークは再び視線を落とす。
この剣を、彼は知っている。
忘れるはずがなかった。
六年前、ルークが討伐隊に入ったばかりの頃、アシュはすでに前線で名を知られていた。
無駄口を叩かず、群れず、功績を誇らず、それでも誰よりも早く異端を斬る。
教官たちは扱いづらそうにしていたが、若い隊員たちの間では半ば伝説のように語られていた。
そしてルークも、その背を見て育ったひとりだった。
初めて実戦に出た日を、今も覚えている。
谷沿いの湿地で、異端化した群体に小隊が呑まれかけた。
隊列は崩れ、悲鳴ばかりが耳についた。
その時、横合いから灰色の影が踏み込んできた。
速かった。
何をしたのか見えないまま、目の前にいた異端の首が落ちた。
二体目は胴が裂けた。
三体目は、こちらへ伸ばしかけた腕ごと断たれた。
息を呑む暇もなかった。
ただ、死ぬはずだった場所から引き戻されたことだけが分かった。
あの日、泥と血にまみれたアシュ・ヴァレンの背は、ルークにはひどく遠かった。
だから追った。
あの背に少しでも近づきたかった。
「隊長」
別の兵が近づいてくる。
「神子候補の足跡と、血痕が北東へ続いています。かなり新しい」
ルークは頷いた。
「追跡班を二手に分けろ。街道側へ一班、森の斜面沿いに一班。ただし深追いはするな。こちらの損耗が大きすぎる」
「はっ」
兵が下がる。
その背を見送りながら、ルークは手袋越しに剣の柄を握った。
冷たい。
けれど、その感触が今は妙に現実を引き戻してくる。
考えるべきことは単純だ。
逃げた神子候補を確保する。
その護衛と思われる不審者を拘束、あるいは排除する。
命令は明快だった。
なのに、その“不審者”の正体がアシュである可能性を前にすると、胸の奥に重いものが沈んでいく。
「……なぜです」
誰にも聞こえないほどの声だった。
あの人は、王国の剣だった。
少なくともルークは、そう信じていた。
正しいかどうかは別にしても、命令に背く男ではなかったはずだ。
それが今、神子候補を連れて逃げている。
しかも王国兵を斬ってまで。
そこに理由がないとは思えなかった。
だが、理由があれば許されるとも思わない。
それが余計に厄介だった。
「ルーク様」
教会兵のひとりが近づいてくる。
黒衣の裾を汚さぬよう、どこか神経質な足取りだった。
「この場の指揮権についてですが、神子候補の奪還は本来、聖環教会の管理下にあります。以後の追跡は我々が――」
「却下だ」
ルークは即答した。
教会兵の眉が動く。
「しかし」
「ここで死んでいるのは王国兵でもある。それに、この辺りの地形は我々の方が把握している」
「神子候補の価値をご理解の上で、その発言を?」
声音がわずかに冷える。
ルークはようやく相手を見た。
感情の薄い目だった。
人ではなく“対象”を見る目。
その視線が、倒れた兵にも、奪われた神子候補にも、同じ温度で向けられていることに気づいて、ルークは内心でわずかに顔をしかめた。
「理解している」
低く答える。
「だからこそ、雑には追わない」
「雑、ですか」
「あなた方は結果を急ぎすぎる」
教会兵はしばらく黙った。
その沈黙には、反省よりも不満が混じっているように見えた。
やがて、わずかに顎を引く。
「……司祭級執行官へ報告します」
「好きにしろ」
そう返すと、教会兵は露骨に不快そうな顔を隠しもせず去っていった。
若い兵士が、小さく息を吐く。
「あの連中、感じ悪いですね」
「口を慎め」
ルークはそう言ったが、否定はしなかった。
教会と王国は協力関係にある。
表向きは。
だが現場では、互いを便利な駒としか思っていない空気がある。
特に神子や異端が絡む案件では、それが顕著だった。
「隊長」
別の兵がまた近づいてくる。
「魔物の死体の中に、見慣れない個体が混じっています」
「見慣れない?」
「はい。小型の獣型ですが、血痕はあるのに死体がありません。それと――」
兵は一瞬だけ言い淀んだ。
「足跡が、神子候補の周囲だけ不自然に重なっています」
ルークは目を細めた。
「詳しく言え」
「護衛対象の周囲を回るような動きです。まるで、守るように」
ありえない。
普通の魔物なら、人を襲うか、穢れの濃いものへ引き寄せられるか、そのどちらかだ。
守る、などという動きはしない。
「……記録しておけ」
「はっ」
兵が去る。
ルークは現場の奥、木々の向こうへ視線を向けた。
何かがおかしい。
アシュが神子候補を連れて逃げていることも。
教会がここまで執拗に兵を出していることも。
そして、魔物の動き方すら。
全部が一本の線に繋がっている気がするのに、その線の正体が見えない。
見えないものを追うのは、嫌いだった。
嫌いだが、放っておけるほど鈍くもない。
「……追いますか」
若い兵士が問う。
ルークはしばらく答えなかった。
やがて、森の奥へ向かう足跡の先を見つめたまま言う。
「追う」
「では、捕縛命令を優先で?」
「神子候補は生存確保が最優先だ」
「護衛の男は」
その問いに、ルークはほんの一瞬だけ目を伏せた。
「……抵抗した場合のみ、斬れ」
兵は少し迷うような顔をしたが、すぐに頷いた。
「はっ」
ルークは視線を地面へ戻す。
血に濡れた草の上に、はっきりと残る足跡が二つ。
ひとつは男のもの。
重く、迷いのない歩幅。
もうひとつは女のもの。
少し乱れているが、それでも途中で崩れていない。
そのすぐそばに、小さな獣の足跡が混ざっていた。
まるで当然のように。
ルークの胸の奥に、言いようのないざらつきが残る。
神子候補が逃げた。
元第七席がそれを守っている。
しかも、魔物まで同行している。
そんな報告を、まともに信じる人間がどれだけいるだろう。
だが現場は、確かにそう語っていた。
その時、後方から馬の蹄の音が近づいてきた。
兵たちの空気が一瞬で変わる。
張り詰める、というより整う、に近い変化だった。
ルークは振り返る。
森の入口近くで、黒い馬が止まった。
そこから降り立った女を見て、周囲の兵たちが一斉に頭を垂れる。
長い淡色の髪。
細身の体躯。
聖職者の装いでありながら、どこか冷たい印象を拭えない女。
聖環教会、司祭級執行官――セレナ。
彼女は血に汚れた地面を見渡し、それからルークへ視線を向けた。
口元には、薄い微笑があった。
「思ったより手こずっているようですね、ルーク殿」
「現場が荒れていただけです」
「ええ。とても」
その返しに棘があることは明らかだった。
だがセレナの声色は柔らかい。
柔らかいまま、人を値踏みする。
「神子候補はまだ生きていますか」
「その可能性が高い」
「なら結構」
それだけ言って、セレナは足元の死体へ目を向けた。
「無駄な損耗は好みませんが、今回は許容範囲です」
ルークの眉がわずかに動く。
王国兵の死体を前にして、ずいぶん軽い言い方だった。
「……許容範囲、ですか」
「世界を維持するためには、時に必要な損失があります」
セレナは何でもないことのように言った。
「神子候補は失えません。あの子には、代わりが利きませんから」
あの子。
そう呼びながら、その声に情はなかった。
あるのは管理者の確認だけだ。
ルークは静かに問う。
「彼女は本当に、“保護”されるべき存在なのですか」
兵たちの空気が、ぴたりと止まる。
セレナは数秒だけ黙り、それから小さく微笑んだ。
「興味深い問いですね」
「答えを」
「保護とは、壊させないことです」
それは答えになっているようで、なっていなかった。
ルークはそれ以上追及しなかった。
今ここで問答を重ねても、まともな答えが返る気がしなかったからだ。
セレナは逆に楽しむように続ける。
「ですが、ルーク殿。ひとつだけ助言を差し上げるなら――」
彼女の視線が、森の奥へ滑る。
「アシュ・ヴァレンを、あなたの記憶の中の人物として追わないことです」
ルークの指先がわずかに強張る。
「……どういう意味です」
「昔の剣士は、今の逃亡者とは別人かもしれないということです」
セレナは穏やかに笑った。
「人は、壊れますから」
その言葉は妙に静かで、それだけに不快だった。
ルークは真正面からセレナを見る。
「それでも、俺は俺の目で確かめます」
「ええ。どうぞ」
セレナはあっさり頷いた。
否定もしない。
止めもしない。
その余裕が、かえって気味が悪い。
「ただし、神子候補の確保が最優先です。もしアシュ・ヴァレンがそれを妨げるなら――」
そこで言葉を切り、セレナは微笑をわずかに深くした。
「迷わないでください」
ルークは答えなかった。
答えずに、森の奥を見た。
まだ見えない先に、かつて憧れた男がいるかもしれない。
そしてその隣には、世界に必要だとされる少女がいる。
もし本当に、あの人が彼女を守っているのだとしたら。
そこには、自分の知らない理由があるのではないか。
だが理由が何であれ、王国兵を斬った事実は消えない。
追わなければならない。
止めなければならない。
そのはずなのに、胸の奥ではまだ、別の声が消えていなかった。
――本当に、あの人なのか。
ルークは剣の柄を握る。
迷いごと切り落とすように。
「追跡を再開する」
兵たちが一斉に姿勢を正す。
セレナは何も言わず、その様子を眺めていた。
「夜が明ける前に、足跡を拾い直せ。斜面の北側から回り込む。森を抜ければ、古い村落跡に出るはずだ」
古い村落跡。
その言葉に、セレナの目だけがわずかに細くなった。
ルークは気づかないふりをした。
だが、見逃してはいなかった。
「行くぞ」
命じると、兵たちが動き出す。
森の奥へ。
まだ夜の残る道へ。
ルークは最後に一度だけ、足元の血痕を見下ろした。
逃げた者の血か。
守った者の血か。
もう見分けはつかない。
ただひとつ分かるのは、この追跡がもう単なる任務では終わらないということだけだった。
第6話でした。
今回はルーク視点で、
王国側の正義と、教会との温度差を描く回でした。
追う側にも事情があり、
信じていたものが揺らぎ始める。
このあたりから物語の“対立”が少しずつ深くなっていきます。
そしてセレナも本格的に登場しました。
もし少しでも面白いと思っていただけたら、
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