第5話 白環の残響
第5話です。
戦いの夜の続き。
辿り着いた廃礼拝堂で、
フィアナは“何か”に触れてしまいます。
石造りの礼拝堂は、夜の森の中に沈むように立っていた。
崩れた尖塔。
半ば朽ちた外壁。
ツタの絡んだ石段の上には、風雨に削られた聖印が辛うじて残っている。
もうずっと使われていないのだろう。
人の祈りが途絶えて久しい場所には、独特の冷たさがあった。
アシュは荒い呼吸を押し殺しながら、礼拝堂の中へ足を踏み入れた。
床には割れた石片と、朽ちた長椅子の残骸が散らばっている。正面の祭壇は半ば崩れ落ちていたが、屋根はまだ生きていた。雨風はしのげる。
今の二人と一匹には、それで十分だった。
「……ここなら、少しは持つ」
低く呟く。
フィアナはアシュの腕を支えたまま、慎重に周囲を見回していた。
「追ってきますか」
「来る」
即答だった。
「ただ、すぐじゃない」
あれだけの血と死体が残っていれば、向こうも体勢を立て直す。
それまでのわずかな時間が、今は必要だった。
アシュは壁際まで進むと、そこでようやく体重を預けるように腰を下ろした。
その瞬間、脇腹の傷が熱を持って疼く。
「っ……」
小さく息が漏れる。
フィアナの表情がすぐに曇る。
「やっぱり深いです」
「掠っただけだ」
「その言い方、信用できません」
少しだけ責めるような声だった。
アシュは言い返そうとして、やめた。
灰刻の反動で、左腕の奥がまだ鈍く軋んでいる。肩と脇腹の傷も熱い。痛みに慣れているだけで、平気なわけではない。
フィアナは膝をつき、腰の小袋から布と薬包を取り出した。
「傷、見せてください」
「自分でできる」
「今の状態で?」
まっすぐ言われて、アシュは黙った。
「……手際は悪くないな」
「それ、褒めてますか」
「一応な」
小さくそう返すと、フィアナは呆れたように息をついた。
だが口元はわずかに緩んでいた。
彼女はアシュの上着をそっと開き、脇腹の傷口を確かめる。投槍は深くは入っていないが、裂けた肉に血が張りついていた。
「痛みますか」
「痛い」
「それは、そうですよね」
消毒が染みる。
アシュは眉ひとつ動かさないようにしたが、指先だけはわずかに強張った。
フィアナはそれに気づいたらしい。
「我慢しなくていいです」
「してない」
「しています」
即答だった。
その言い方が妙に自然で、アシュは少しだけ目を細める。
「……お前、意外と遠慮がないな」
「さっき命を助けられたので、今だけです」
「今だけか」
「今だけです」
そう言いながらも、フィアナの手つきは丁寧だった。
乱暴さがない。
ただ傷を閉じるだけではなく、痛みをなるべく増やさないようにしているのが分かる。
人に触れることに慣れている手だ、とアシュは思った。
教会の中で、きっと何度も誰かの傷や熱を見てきたのだろう。
やがて包帯を巻き終えると、フィアナはようやく小さく息を吐いた。
「……これで少しはましです」
「助かる」
短く言うと、フィアナは少しだけ驚いたように目を瞬かせた。
「ちゃんとお礼を言うんですね」
「言わない方がよかったか」
「いえ。少し意外だっただけです」
アシュはそれ以上返さず、礼拝堂の奥へ視線を向けた。
その時だった。
礼拝堂の中央近くで、ルゥが低く唸った。
白い背がぴんと張る。
さっきまで傷を舐めながら座っていたはずなのに、今は祭壇の方をじっと見上げていた。
「……どうした」
アシュが問うても答えるはずがない。
だがルゥは明らかに警戒していた。
耳を伏せ、尾を低くし、床を踏む足に迷いがない。まるで、この場所の何かを知っているようだった。
フィアナもその気配に気づき、ゆっくり立ち上がる。
「祭壇……?」
崩れた石段の向こう。
ひび割れた祭壇の中心に、古びた円環紋が刻まれていた。
礼拝堂の聖印に似ているが、少し違う。
もっと古い。
もっと無機質な形だ。
アシュは眉を寄せた。
「近づくな」
言うが、フィアナは祭壇から目を離さない。
「……これ、教会の紋ではありません」
「分かるのか」
「少しだけ」
フィアナはそう呟くと、一歩だけ前に出た。
足の怪我を庇いながら、それでも止まらない。
ルゥはその横をすり抜けるように進み、祭壇の手前でぴたりと立ち止まった。唸り声は消えたが、今度は落ち着きがない。呼吸が浅くなっている。
アシュは立ち上がろうとして、反動で身体が軋むのを感じた。
「フィアナ」
「少しだけ、見ます」
「見るだけで済ませる顔じゃない」
低く言うと、彼女は一瞬だけこちらを振り返った。
その青い目には、奇妙な確信と、拭いきれない不安の両方が浮かんでいた。
「……嫌な感じがするんです」
「なら離れろ」
「でも、知っている感じもするんです」
意味の分からない言葉だった。
だがフィアナ自身も、うまく説明できていないようだった。
彼女は祭壇の縁へ手を伸ばす。
その瞬間、ルゥが小さく鳴いた。
止めるような、怯えるような声だった。
アシュが一歩踏み出すのと、フィアナの指先が石に触れるのは、ほとんど同時だった。
白い光が走る。
「――っ」
フィアナの身体が強張る。
次の瞬間、礼拝堂の空気が変わった。
冷たい。
いや、違う。
時間そのものが、ひび割れた石の隙間から滲み出してくるみたいだった。
アシュは思わず目を細める。
祭壇の紋様が、フィアナの指先から淡く発光している。首元の刻印も呼応するように白く灯り、彼女の白銀の髪が微かに揺れた。
それはまるで、彼女を中心に白い輪が閉じるような光だった。
「フィアナ!」
呼ぶが、反応がない。
彼女の目は開いているのに、焦点が違う場所を見ていた。
見ている、というより――見せられているような目だった。
白い光が、崩れた礼拝堂の壁をなぞる。
その向こうに、何かが重なった。
もう存在しないはずの景色が、そこにあった。
崩れていた壁は元の形を取り戻し、床の割れ目は消え、長椅子は整然と並んでいる。祭壇の前には白い衣をまとった人々が膝をつき、頭を垂れていた。
だが、誰ひとりとして顔が見えない。
輪郭が曖昧だ。
まるで、記憶の染みみたいに揺れている。
そして、その中心に立つ白衣の人物だけが、やけに鮮明だった。
聖職者だ。
胸元には、今の教会の聖印より古い形の円環紋。
その手には、幼い子どもの腕が握られている。
逃がさないように。
選別するように。
アシュの背筋に冷たいものが走った。
「……何だ、これは」
答える者はいない。
フィアナの呼吸だけが浅い。
彼女は見ている。
そして、見せられている。
次の瞬間、景色がまた揺れた。
礼拝堂の外。
夜。
泣き声。
何人もの子どもが列を作らされ、聖職者たちに囲まれている。
首元には光る印。
ある者には淡く。
ある者には濃く。
その中のひとりが泣きながら後ずさる。
だが、白衣の手が容赦なく肩を掴む。
その時、言葉が聞こえた。
耳で聞いたのではない。
光景そのものから滲み出た声だ。
――器は選ばれなければならない。
――穢れを受ける者が必要だ。
――世界のために。
アシュの顔から血の気が引く。
その響きには聞き覚えがあった。
四年前。
灰祈りの村で、自分が聞いた声と同じ種類のものだった。
言葉は違っても、理屈が同じだ。
必要な犠牲。
選ばれた器。
世界のため。
「……やめろ」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
フィアナの身体がわずかに震える。
光景はまだ続いている。
今度は、石床の上に横たえられた子どもたちだった。
白い光の輪。
円環紋。
何かを測るようにかざされる手。
そして、拒まれた者が連れていかれる。
残された者が泣く。
その泣き声の中に、フィアナの小さな声が混ざった。
「……やだ」
か細い、今にも消えそうな声だった。
その瞬間、光が乱れる。
祭壇の紋様が強く明滅し、礼拝堂の中へ白い波紋が広がった。
ルゥが鋭く鳴く。
アシュは反射的に駆け寄り、フィアナの肩を掴んだ。
「フィアナ!」
揺さぶる。
だが彼女の指先は祭壇に吸いついたように離れない。
白い光が首元の刻印から溢れ、ひび割れた石床を走る。
空気が震えた。
このままではまずい。
直感がそう告げていた。
「……離れろ!」
アシュは無理やりフィアナの手首を引いた。
強い抵抗ではない。
だが、石の向こう側に何かが掴んでいるような重さがあった。
その一瞬、アシュの視界にも何かが流れ込んだ。
炎。
灰。
泣き声。
焼け落ちる家々。
そして、炎の向こうでこちらを見ている子どもの目。
灰祈りの村。
「っ……!」
アシュの呼吸が止まる。
次の瞬間、フィアナの手が祭壇から離れた。
白い光が弾ける。
礼拝堂を満たしていた幻の景色が、音もなく崩れ去った。
残ったのは、ひび割れた壁と、冷えた夜気と、荒い呼吸だけだった。
フィアナの膝が崩れる。
アシュは咄嗟にその身体を抱き留めた。
「しっかりしろ」
返事はない。
だが意識を失ったわけではないらしい。彼女は震えながら、ようやく浅い呼吸を繰り返している。
顔色が悪い。
唇も白い。
首元の刻印だけが、まだ微かに明滅していた。
ルゥがすぐそばまで来て、フィアナの頬へ鼻先を寄せる。
確かめるような仕草だった。
「……何を見た」
アシュは低く問うた。
フィアナはしばらく答えなかった。
やがて、かすれた声で呟く。
「子ども、たちが……いました」
途切れ途切れの言葉だった。
「ここで……選ばれてた」
アシュの喉がきつくなる。
「何にだ」
問いかけると、フィアナはゆっくりと目を閉じた。
「……器に」
礼拝堂の空気が、さらに冷えた気がした。
アシュは抱き留めたままのフィアナを見下ろす。
彼女の手はまだ震えている。
怯えだけではない。
理解してしまった者の震えだ。
「この場所……教会の礼拝堂じゃ、ありません」
フィアナが細く息を吐く。
「もっと前……教会が今の形になる前から、使われてた場所です」
「神子のための場所か」
「……多分」
その答えは、確信に近かった。
アシュは祭壇を睨みつける。
石に刻まれた円環紋は、すでにただの古い傷のように沈黙していた。
だがさっき確かに、そこに“理屈”があった。
人を器として選び、世界のために壊す理屈が。
そしてそれは、灰祈りの村で見たものと地続きだった。
「……ふざけるな」
声は低かった。
怒鳴るでもなく、ただ冷えた怒りだけがあった。
フィアナがわずかに顔を上げる。
アシュは祭壇から目を離さないまま、続けた。
「昔からそうやって選んで、壊して、残ったものだけで世界を繋いできたのか」
答える者はいない。
だが沈黙そのものが、肯定に思えた。
その時、礼拝堂の外で風が鳴った。
アシュははっとして顔を上げる。
違う。
風だけじゃない。
遠くから、わずかに金属音が混じっている。
追手だ。
向こうもこちらを見失っていない。
ルゥもそれに気づいたらしく、入口の方へ振り返って低く唸った。
「……休憩時間は終わりか」
アシュは小さく息を吐き、フィアナをゆっくり壁際へ座らせた。
「立てるか」
「……少しだけ、待ってください」
「待てない」
言いながらも、その声は少しだけ抑えられていた。
フィアナは息を整えながら、祭壇の方をちらりと見た。
「アシュさん」
「何だ」
「この場所……さっき見たものと、どこか繋がっている気がします」
その一言で、アシュの表情が止まる。
「繋がってる、とは」
「うまく言えません。でも……同じものに触れた感じがするんです」
アシュは無意識に、左頬から首へ走る火傷痕へ手をやった。
嫌な汗が背中を伝う。
灰祈りの村。
自分が焼いた村。
できれば二度と思い出したくない場所。
だが今、その場所の記憶と、この礼拝堂の気配が繋がった。
偶然ではない。
そんな予感だけが、重く沈んでいく。
「……なら、行くしかないか」
自分でも驚くほど静かな声だった。
フィアナが顔を上げる。
「え……」
「逃げるだけじゃ埒が明かない」
礼拝堂の外では、もう気配が近づいている。
「向こうが何を隠してるのか、確かめる」
アシュは剣を取った。
脇腹が痛む。
灰刻の反動も抜けていない。
それでも、立つしかなかった。
フィアナはアシュを見つめ、やがて小さく頷いた。
「私も、行きます」
「止めても来るだろうな」
「……はい」
それだけ言って、アシュは礼拝堂の入口へ視線を向ける。
ルゥはすでにその前で立ち、闇の向こうを睨んでいた。
外では、誰かが枯れ枝を踏んだ。
ひとつではない。
また増えている。
そして今度は、追うだけの足音じゃない。
探し当て、確かめ、奪い返すための足音だった。
アシュは剣の柄を握り直す。
礼拝堂の冷たい空気の中で、怒りだけが妙に鮮明だった。
灰祈りの村に繋がるなら、もう逃げるだけでは終われない。
その確信だけを胸に、アシュは低く言った。
「……来るなら来い」
夜はまだ、何ひとつ終わっていなかった。
第5話でした。
今回は廃礼拝堂で、
フィアナが“神子”に繋がる過去の断片へ触れる回でした。
ここから少しずつ、
神子とは何か
教会が何を隠しているのか
灰祈りの村と何が繋がっているのか
が見え始めます。
もし少しでも面白いと思っていただけたら、
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次話もよろしくお願いします。




