第58話 影の待ち人
古い記録庫の裏口を出た瞬間、アシュは足を止めた。
ノアも同時に止まる。
フィアナは一歩遅れて、二人の背にぶつかりかけた。
「……どうしました」
フィアナが小さく訊く。
アシュは答えず、薄暗い裏路地の先を見る。
石壁。
崩れた渡り廊下の影。
人の気配が一つ。
近い。
でも、殺気はない。
「出てこい」
低く言う。
少しの間があった。
それから、影が動く。
「相変わらず勘がいいですね」
聞き慣れた声だった。
レオフが、石壁の陰から姿を現す。
上着を深く被っている。
灯りの少ない場所に立っているせいで顔色まではよく分からない。
それでも、その神経質そうな目つきだけは見間違えようがなかった。
「欲しい情報は見つかりましたか」
アシュは答えず、代わりにノアが抱えていた控え札を一枚抜き取り、レオフへ突きつけた。
「これか」
レオフは軽く見ただけで、小さく息を吐いた。
「そこまで取れましたか」
「お前がヒントだけしか寄越さないからな。で、次は何だ」
アシュが言う。
レオフはすぐには答えなかった。
視線を控え札からアシュへ移し、次にフィアナへ向ける。
「箱の中は見ましたか」
「見てない」
アシュが低く返す。
「だが、フィアナは感じたみたいだ」
フィアナが小さく息を吸う。
「……人、でした」
レオフの目が一瞬だけ伏せられた。
「そうでしょうね」
「知ってたのか」
アシュの声が落ちる。
「もちろん全部は知りません」
レオフは答える。
「でも、南保管層の第三に落ちる箱が、ただの物品じゃないことくらいは」
「選定外候補」
ノアが言う。
「仮収容。再仕分前。旧祈祷院地下へ移送候補」
レオフはそこで、初めてはっきり頷いた。
「ええ」
短い返事だった。
「白い施設で終わらなかったものが、一度そこへ落ちる」
「一度、ってことは」
フィアナが言う。
「やっぱり、そこで終わりじゃないんですね」
「終わりではありません」
レオフはフィアナを見た。
「南保管層の第三は仮置きです。選び直す前の沈め場所に近い」
沈め場所。
嫌な言い方だった。
嫌な言い方なのに、妙にしっくりきてしまうのがさらに嫌だった。
「旧祈祷院地下は」
アシュが問う。
レオフは一拍だけ黙った。
「その先です」
レオフは壁から背を離す。
「白い施設は、候補を選ぶ場所でした。旧祈祷院地下は、そのあとを扱う場所です」
フィアナの指先がきつく組まれる。
「扱う……」
「ええ」
レオフはその言葉を飾らない。
「残すか、回すか、止めるか。そういう判断が落ちていく先です」
夜風が冷たい。
なのに、胸の奥だけ熱くなる。
ノアが問う。
「入れるのか」
「今夜は無理です」
レオフは即答した。
「鍵がない。通しの印も足りない。中の見取りはありますが、それだけで通れるような場所ではない」
「なら何しに出てきた」
アシュが言う。
レオフはその言葉を待っていたみたいに、懐から薄い紙を出した。
見取り図だった。
急いで写したのだろう。
線は荒い。
だが入口、階段、左右の通路、それに地下の礼拝室らしき広い部屋まで描かれている。
「これを渡すためです」
ノアが受け取る。
すぐに中身を確かめ、目を細めた。
「西区画……旧祈祷院地上部は半分死んでるな」
「地下は死んでいません」
レオフが言う。
「今も使われている」
アシュは見取り図を横から見た。
入口は二つ。
表の礼拝堂跡。
それから脇の納骨堂らしき細い通路。
「どっちが使える」
「今のところは脇です」
レオフが答える。
「ただし、明日まで持つ保証はない」
「どういうことだ?」
レオフの目が少しだけ鋭くなる。
「今夜、記録は動きます。白い箱も、受け入れ控えも、比較補助も。向こうが整理し終える前に入るなら、明日の夜が限界です」
アシュは舌打ちを飲み込んだ。
急かされるのは好きじゃない。
でも、言っていることは分かる。
今この王都が崩れかけているからこそ、ここまで入れた。
整えられたら、もう通らない。
その時、フィアナが小さく口を開いた。
「……灰刻も、そこに繋がっているんですか」
レオフの視線が止まる。
アシュも、ノアも、何も言わない。
今夜、古い記録庫の奥で見つけた黒い帳面。
灰刻関連。
その名前が、今もまだ胸の奥へ棘みたいに残っている。
「少なくとも、全く無関係な話ではありません」
レオフはゆっくり言った。
アシュの目が細くなる。
「知ってたのか」
「灰刻については、断片だけです」
レオフはすぐに答えた。
「でも、灰刻が個人の能力として片づけられていないことくらいは」
「なら最初から言え」
アシュの声は低かった。
レオフは受け流さなかった。
「言えば、あなたは白い箱を追う前に、そっちへ向かったでしょう」
否定できなかった。
たぶん、その通りだ。
「順番を間違えると、どちらも取れなくなると思ったんです」
レオフの声は静かだった。
「だから先に、白い箱の流れを押さえてもらいました」
ノアが小さく息を吐く。
「確かに理にかなってるな」
「嫌いですか」
「好かん」
「でしょうね」
レオフは皮肉げにもならず、ただ事実として返した。
フィアナが見取り図を見つめながら言う。
「じゃあ、旧祈祷院地下に行けば……白い箱の人たちのことも、灰刻のことも、少しは分かるんですね」
「全部ではありません」
レオフは首を横に振る。
「でも、繋がっている場所ではあります」
それで十分だった。
フィアナは目を伏せ、それからゆっくり上げる。
「行きましょう」
小さい声だった。
アシュはその横顔を見てから、レオフへ向き直った。
「他は」
「南の第三倉庫には戻らないでください」
レオフは言った。
「今夜はまだ混乱が勝っています。ですが、明日の昼には戻りの帳尻が合い始める。知らない顔は浮きます」
「だろうな」
アシュも頷く。
「じゃあ今夜はこれが限界だな」
「西の外れに空き家を一つ押さえています」
レオフが続ける。
「下働きが案内します。そこで明日の夜まで休んでください」
「レオフさんは来ないんですか」
フィアナが訊く。
レオフは少しだけ黙った。
「まだ無理です」
「どうして」
「今、私があなたたちと同じ場所に長くいると、怪しまれます」
それは言い訳ではなく、計算だった。
フィアナもそれが分かったのだろう。
少し寂しそうな顔をしたが、それでも頷いた。
「……そうですね」
レオフはその返事に何も言わなかった。
代わりに、もう一枚だけ小さな紙片をノアへ渡す。
「脇の入口の見張りが交代する時間です」
ノアが紙片を見て、目を細める。
「流石だな」
アシュは小さく息を吐いた。
「……明日の夜だな」
「ええ」
「その時は逃げるなよ」
レオフはほんの少しだけ、口元を動かした。
「努力はします」
それだけ言って、また影の方へ引く。
もともとそこにいなかったみたいに、気配が薄くなる。
最後に残ったのは、見取り図と、交代時間の紙片だけだった。
フィアナがぽつりと言う。
「もう見えないですね」
「そうでもしないと生き残れねえんだろ」
アシュが答える。
ノアは見取り図をたたんだ。
「行くぞ」
アシュは頷く。
夜はまだ終わらない。
だが、次にやることだけは迷わなかった。
旧祈祷院地下へ行く。
白い箱の行き先を確かめる。
そして、その先で灰刻の記録にも手をかける。
止まって考える時間は、もうあまり残っていなかった。
今回で、第6章最後になります。
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