第56話 西側の扉
南の第三倉庫へ戻ると、空気はさっきよりさらに重くなっていた。
灯りは増えていない。
なのに、暗さの方が濃い。
白い箱が二つ増えている。
荷役は減っている。
それでも責任者の怒鳴り声だけは変わらず響いていて、その不釣り合いさが余計に気味悪かった。
アシュが中へ入った瞬間、ガルドが露骨に嫌そうな顔を向けてきた。
「遅え」
「何かあったか」
アシュが低く問う。
「白封二つ追加。写し一束追加。あとは責任者の機嫌が最悪だ」
ガルドは吐き捨てるように言った。
「地下へ降ろしたあと、戻しが一つ足りねえとかで騒いでる」
ノアの目がわずかに細くなる。
「戻しが遅れてるのか」
「ああ。だから余計に人が足りねえらしい」
その横で、フィアナが机の端に立っていた。
顔色はまだ白い。
でも、目は逸れていない。
アシュが近づくと、フィアナはすぐ小さく言った。
「大丈夫です」
「まだ聞いてねえ」
「でも言いたかったので」
その返しに、アシュはほんの少しだけ口元を動かした。
「……なら、いい」
ノアは確認机へ戻り、何事もなかった顔で荷札を受け取る。
倉庫の中では、今も誰がどこで何をしているかがよく見える。
だからこそ、不自然な止まり方はできない。
責任者が奥から出てきた。
「戻ったなら突っ立ってるな! 白封を奥へ寄せろ!」
怒鳴り声で空気がまた揺れる。
アシュとガルドが動く。
箱を持ち上げる。
やはり冷たい。
重い。
そして、さっきよりも嫌な感触が強い。
「……これも同じか」
アシュがごく小さく言う。
フィアナは写し板を持ったまま、小さく頷いた。
「はい」
それだけで十分だった。
白い箱の中にいるものは、一つではない。
地下へ降ろした四つだけで終わりじゃない。
まだ続いている。
その時、倉庫の奥の扉がまた開いた。
地下の入口へ続く方ではない。
その手前の机へ繋がる内側の扉だ。
昼にはいなかった痩せた女が入ってくる。
年は三十前後。
「第三の戻し控え、誰が受けてる」
声は高くない。
でも通る。
責任者が顔をしかめる。
「まだ来てねえ」
「来ないなら作るしかないでしょ」
女は吐き捨てるように言って、机の上の写し板へ手を伸ばした。
「西側に回す控えが足りない。確認の男と写しの娘、前へ」
ノアとフィアナの手が同時に止まる。
アシュは箱を持ったまま、何も言わない。
来た。
女はフィアナを見る。
「字は読める?」
「読めます」
「敬語はいらない」
フィアナは一拍だけ置いて、言い直す。
「……読める」
「じゃあそれでいい」
次にノアを見る。
「数字と印、追える?」
「見れば分かる」
「結構」
女は頷いた。
「西側へ回す控えを今からまとめる。下働きが一人抜けたせいで手が足りない。持っていく人間も足りない」
責任者が露骨に嫌そうな顔をした。
「そっちまでこいつら使うのかよ」
「使えるんだから使う」
女は一歩も引かない。
「そこの運びの男も一人つける。束は軽くないからな」
アシュの目がわずかに細くなる。
ノアとフィアナだけではない。
自分も行ける。
責任者は舌打ちしたが、それ以上は言い返さなかった。
いま人手が足りていないのは事実なのだろう。
「ガルド」
アシュが低く言う。
「こっちに残れ」
ガルドは一瞬だけ嫌そうな顔をして、それからすぐ頷いた。
「分かってる。そっちの方が都合いいんだろ」
「ああ」
「フィアナ」
アシュが目だけで向ける。
フィアナは頷いた。
女は写し板を三束まとめ、薄い布で縛る。
さらに棚の端から、控え札の束を二つ抜いた。
「これを西側の記録庫へ運ぶ。裏から入って、受け渡し棚へ置く。印を受けたら戻れ」
ノアが自然な声で問う。
「受け渡し棚はいつもの場所か」
女がちらりとそちらを見る。
「知ってるなら話が早い。右から三番目の棚の下。今夜は表じゃなく裏だ」
ノアは小さく頷いた。
レオフの木片と一致する。
やはり線は本物だ。
アシュは束を受け取る。
見た目より重い。
白い箱ほどじゃない。
だが、中身は紙ではなく木板だ。
数が積もれば十分な重さになる。
フィアナも一束抱える。
ノアは控え札を持つ。
倉庫の中を出る前、ガルドがぼそりと言った。
「戻ってこいよ」
「分かってる」
アシュが返す。
「お前も余計なことするなよ」
「それはそっちだろ」
短いやり取りだった。
でも、それで十分だった。
西側へ向かう道は、さっきよりもずっと堂々と歩けた。
隠れる必要はない。
運ぶ側の顔をしていればいい。
その代わり、止められた時に迷わないことが大事だった。
王都の夜は深い。
だが完全には眠らない。
通りを横切る兵。
細い道を急ぐ下働き。
閉まった戸の向こうから漏れる灯り。
そこに混じってしまえば、今の三人もただの夜の仕事に見える。
古い記録庫の裏口へ着く。
さっきと同じ小さな木の戸。
今度は迷わず入る。
中の空気は変わらない。
静かで、乾いていて、今も人が使っている場所の気配だけがある。
フィアナが小さく息を吐いた。
「……ここ、やっぱり嫌です」
「だろうな」
アシュが言う。
「でも、さっきよりは分かる」
フィアナは束を抱えたまま続けた。
「何を隠してる場所なのかが」
ノアは前を向いたまま、小さく言った。
「だから今は好都合だ」
裏口の先、右手の棚の下。
さっき確認した通り、三つ並んだ受け渡しの棚がある。
その前に、今夜は灯りが一つだけ置かれていた。
そしてその灯りの横に、誰かが立っている。
少年だった。
さっきの下働きだ。
腕を組み、面倒そうに壁へ背を預けている。
だが三人の姿を見ると、すぐに体を起こした。
「遅い」
ぶっきらぼうに言う。
「働いてたんだよ」
アシュが返す。
「そんなん見れば分かる」
少年は鼻を鳴らした。
「その束だ、そこ」
顎で棚を示す。
ノアが控え札を置き、フィアナとアシュも写し束を並べる。
少年はその手元を見てから、小さく言った。
「上出来」
「偉そうだな」
アシュが問う。
少年はすぐには答えない。
代わりに、棚の一番下へ手を入れた。
薄い板束を一つ引き出す。
布で巻かれている。
表には何も書かれていない。
「これを持ってけってさ」
ノアの目が細くなる。
「何だ」
「第三の受け渡し控えの写し。西側の分だけ抜いたやつ」
少年は言う。
「本物は今夜もう奥へ回る。見たけりゃ今しかないって」
アシュの喉の奥が少し熱くなる。
西側閲覧制限。
「本人は」
ノアが訊く。
少年は肩をすくめた。
「会わないらしい」
「慎重だな」
「死にたくないんだろ」
それは下働きの少年の言葉でもあり、レオフの代わりの答えでもあった。
フィアナが小さく言う。
「その写し、本当に持ち出して大丈夫なの」
少年がそちらを見る。
「大丈夫じゃないよ」
即答だった。
「でも、今夜の西側は別の束に気を取られてる。だから今なら抜ける」
「別の束?」
アシュが問う。
少年は少しだけ迷って、それから答えた。
「白い箱の受け入れ記録」
沈黙。
フィアナの抱えていた空の布束に、わずかに力が入る。
アシュも何も言わなかった。
そうか。
いま向こうが本当に見ているのは、今夜地下へ落ちた箱の方だ。
だからこそ、横の控えが薄くなる。
「……都合がいいな」
アシュが低く言う。
少年は鼻を鳴らした。
「都合がいいんじゃない。あの人が、そういう時しか動かないだけだよ」
その言い方で十分だった。
レオフはまだ姿を見せない。
でも、ちゃんと先へ通す手だけは伸ばしてくる。
ノアが板束を受け取る。
思ったより薄い。
だが中身は軽くないだろう。
「西側の閲覧制限は」
ノアが訊く。
少年はさらに奥、暗い廊下の先を顎でしゃくった。
「次の扉。白衣のじじいが今そこにいる」
アシュの目が細くなる。
「さっきの老人か」
「知らない。けど、指先の綺麗な灰色の男も、そのうち来る」
それで十分だった。
次の扉。
白衣の老人。
灰色の男。
欲しいものは、その向こうだ。
「ありがとう」
フィアナが小さく言う。
少年は露骨に嫌そうな顔をした。
「礼はいらない。俺は言われたことやってるだけ」
「それでも」
「それでもいらない」
即答だったが、背を向ける前にほんの少しだけ耳が赤かった。
アシュはそれを見て、何も言わなかった。
言う時間があるなら先へ進む方がいい。
ノアが板束を脇に抱え、奥の廊下を見る。
「行くか」
「ああ」
アシュが答える。
フィアナも空になった布束を置き、頷いた。
「うん」
今度の返事は自然だった。
全部が、やっと一つの場所へ集まり始めていた。
第56話でした。
今回は、
西の古い記録庫で、ついに次の扉の手前まで繋がる線が見えてきました。
少しでも続きが気になったら、
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次話もよろしくお願いします。




