第53話 見えない手
地下の入口から戻る坂道は、下りた時より長く感じた。
荷車は軽い。
白い箱はもうない。
それなのに、押す手はさっきより重かった。
誰もすぐには喋らない。
坂道の湿った空気。
石壁に吸われる足音。
前を行く責任者の苛立った背中。
その全部が、さっき見たものを薄めてはくれなかった。
箱の中に、人がいた。
候補なのか、器なのか、それともそのどちらにも届かなかった何かなのか。
そこまでは分からない。
でも、ただの荷物じゃないのははっきりした。
上へ戻り、南の第三倉庫の灯りが見えた時、ようやく責任者が振り返った。
「次は二刻後だ」
ぶっきらぼうに言う。
「それまで勝手に消えるなよ。上の帳尻が合わなくなる」
「逃げる気力があるように見えるか?」
ガルドが言う。
「逃げる奴はそんなそぶりなんか見せないからな」
責任者は吐き捨てるように返し、それ以上は何も言わずに奥へ入っていった。
倉庫の中は、さっきまでよりさらに人が減っていた。
アシュは荷車の取っ手から手を離す。
指に残っていた冷たさが、なかなか抜けない。
ノアが確認机のそばで荷札をまとめながら、ほとんど口を動かさずに言った。
「聞いたな」
「ああ」
アシュも同じくらい小さな声で返す。
「南保管層。第三」
「補助の束もあっちへ持っていかれた」
ガルドが低く言う。
「欲しいもんが、全部向こうに集まってやがる」
フィアナは写し板を机へ戻していた。
手は震えていない。
けれど顔色は少し白い。
アシュが近づく。
「立てるか」
「立てます」
即答だった。
だが強がりだけでもない。フィアナはちゃんと自分の足で立っていた。
「……さっきの」
小さく言いかける。
「その話は後だ」
アシュが切る。
今はここで話す時じゃない。
誰が聞いているか分からない。
フィアナはすぐに頷いた。
「はい」
その時、柱の陰にいたルゥが立ち上がった。
低く唸るわけではない。
ただ耳だけを立てて、倉庫の入口の方を見ている。
荷車でも来るのかと思ったが、聞こえてきたのはもっと軽い足音だった。
小柄な少年が一人。
年は十五か十六くらいか。
煤で汚れた服の上に、雑に布を巻いている。
倉庫の荷役というより、雑用や使い走りの下働きといった格好だった。
「水」
少年がぶっきらぼうに言う。
桶を二つ、机の横へ置く。
誰に向けた声でもない。
ただ、ここにいる人間へ一度に渡しているだけの言い方だ。
若い女が苛立ったように顔を上げる。
「遅い」
「呼ばれた順に回ってる」
少年も愛想なく返した。
「南門が先だった」
その言い方に、ノアの指がわずかに止まる。
南門。
確認所だ。
少年はそれ以上何も言わず、桶を置いてすぐ戻ろうとした。
だがアシュたちの横を通る時だけ、ほんの少し歩幅が緩んだ。
「補修戻り」
小さく言う。
ガルドが目だけを向ける。
「何だ」
「裏の水場、今は空いてる」
少年は視線を合わせないまま続けた。
「二刻待つなら、先に顔でも洗っとけって。確認所の人が」
それだけ言って、さっさと奥へ消えていった。
短い言葉だった。
だが、ノアとアシュには十分すぎた。
ガルドが眉をひそめる。
「確認所の人?」
「妙だな」
ノアが低く言う。
「そんな世話を焼く理由がない」
フィアナも小さく息を呑む。
「なにかあるんでしょうか……」
「行ってみるしかない」
アシュが言った。
確認所の人がわざわざ、倉庫の補修戻りに裏の水場を使えなどと言うはずがない。
伝言だ。
しかも、直接じゃなく、下働きの口を通した。
「行くか」
ガルドが問う。
「全員は動くな。余計に目立つ」
ノアがすぐに言葉を継いだ。
「俺とアシュが行く。ガルドは残れ」
「何で俺だ」
「お前は目立つだろ」
ガルドは露骨に嫌そうな顔をしたが、反論はしなかった。
フィアナが小さく言う。
「私も残ります」
「そうしろ」
アシュが答える。
「ルゥは」
とアシュが言いかけると、ルゥはすでにフィアナの足元へ戻っていた。
「……利口だな、お前」
ガルドがぼそりと言う。
ルゥは一鳴きだけ返した。
倉庫の裏の水場は、表よりずっと暗かった。
水桶を洗うための細い流しと、割れた石槽があるだけの狭い場所だ。
人通りも少ない。
荷役がたまに水を汲みに来る程度なのだろう。
アシュとノアがそこへ回ると、さっきの少年が壁にもたれて待っていた。
「確認所の人ってのは誰だ」
アシュが低く言う。
少年は肩をすくめる。
「知らない」
「嘘だな」
「名前は知らない」
少年は平然と返した。
そう言って、懐から小さな木片を取り出す。
木札の切れ端みたいなものだ。
表には何もない。
だが裏に、細い刻みが二本、浅く入っている。
ノアの目が僅かに細くなった。
「……この癖」
少年が言う。
「数字が多い時は右から見ろ、だってさ。意味は知らない」
アシュは木片を受け取る。
ただの傷にしか見えない。
でも、ノアの顔だけで十分だった。
「レオフか」
小さく言うと、ノアが頷く。
「たぶんな」
少年は面倒そうに鼻を鳴らした。
「名前は知らないって言ったろ。俺はただ、言われたことを持ってきただけだ」
「どこにいる」
アシュが問う。
少年は壁の向こう、南門の方ではなく、さらに西へ伸びる細い路地を顎でしゃくった。
「今夜の鐘がもう一つ鳴ったら、西の古い記録庫裏。下働きの出入り口のとこ」
「本人が来るのか」
「そこまでは知らない」
少年は即答した。
「でも、あんたらが欲しいのは、たぶん下へ行く箱の話じゃなくて、下へ落ちたあとにどこへ残るかの話だって」
アシュの目が少しだけ細くなる。
その言い方は、たしかにレオフらしかった。
箱の流れを追うだけでは足りない。
記録がどこへ残るか。
それを掴まないと、南保管層へ入っても終わらない。
「伝言はそれだけか」
ノアが訊く。
少年は少しだけ迷ってから、最後に言った。
「……白い箱は開けるなって」
その一言に、アシュもノアも黙った。
つまりレオフも、それが何か知っているということだ。
少年はもう用が済んだ顔で壁から離れた。
「俺は行く」
「待て」
アシュが言う。
「何でこんなことを引き受けた」
少年は振り返らない。
「金」
短く答える。
「あと、あの人はちゃんと最初に危ないって言ったから」
それだけ残して、細い路地の向こうへ消えていった。
アシュは木片を指で転がした。
軽い。
だが、その軽さの割に意味は重かった。
「……どう見る」
ノアに向けて言う。
「本物だと思う」
ノアは即答した。
「刻みの癖も、言い回しも。あいつなら、ああいう回し方をするだろう」
「やたら慎重だな」
「慎重じゃなきゃとっくに死んでる」
その返しに、アシュは小さく息を吐いた。
たしかにそうだ。
「今夜、もう一つ鐘が鳴ったら動く」
アシュが言う。
「ただし、その前にもう一回地下への流れは見る」
ノアが頷く。
「補助の束がどこへ回るかも確認したい」
アシュも同じ考えだった。
全部が、繋がり始めている。
倉庫へ戻ると、ガルドが露骨に嫌そうな顔で待っていた。
「遅え」
「何かあったか」
アシュが問う。
「写し二束追加。あと白封二つ追加」
ガルドが言う。
「今夜、まだ終わらねえぞこれ」
フィアナがその横で小さく頷く。
「さっきの人、来ましたか」
「ああ」
アシュは短く答えた。
「当たりだった」
フィアナの目が少しだけ大きくなる。
だが今は、詳しく話す時間じゃない。
責任者が倉庫の奥で怒鳴っている。
次の白い箱がもう入ってきていた。
ルゥも柱の陰から戻ってきて、フィアナの足元へぴたりとつく。
その耳は、また立っていた。
夜はまだ終わらない。
でも、ようやく次に誰を追えばいいかは見え始めていた。
第53話でした。
ついに、
レオフへ繋がる線が見えてきました。
少しでも続きが気になったら、
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次話もよろしくお願いします。




