第48話 選ばれなかった者たち
夜が明ける前の言葉は、
誓いというより、
あとで効いてくる傷に近い。
夜明け前に、アシュは目を開けた。
眠っていたのかどうか、自分でもよく分からない。
壁へ背を預けたまま目を閉じていただけかもしれないし、ほんのわずかに意識が落ちていたのかもしれない。
避難壕の中はまだ暗い。
炉の火はすでに落ち、赤い芯だけが石の間で細く息をしている。
外の風は弱い。
雨の気配もない。
動くにはいい朝だ、とアシュは思った。
その時、入口の方で衣擦れの音がした。
フィアナだった。
すでに起きていたらしい。
上着を羽織り、壕の入口で小さな器に水を注いでいる。
その少し向こう、外の薄明かりの縁にはイリスの背中があった。
アシュはすぐには声をかけず、そのまま二人の様子を見た。
ガルドもノアもまだ起きていない。
ルゥだけがフィアナの足元で目を開け、二人の間の空気を探るように耳を立てていた。
「……眠れた?」
先に口を開いたのはフィアナの方だった。
イリスは振り返らない。
「少しは」
「少し、ですか」
「よく寝る癖をつけると、生き延びにくいのよ」
乾いた返事だった。
でも、初めて会った時みたいな棘だけの声音ではない。
フィアナは器を一つ差し出した。
「温かくはないですけど」
「贅沢言う立場じゃないわね」
イリスが受け取る。
その指先が、ほんの少しだけ荒れているのが見えた。
白い施設で見た細い針や包帯の切れ端が、ふとアシュの頭に浮かぶ。
「昨日、聞きそびれたことがあるんです」
フィアナが言った。
イリスは器を口元へ運びながら、目だけで続きを促した。
「どうして、そこまでして自分の名前を残したかったんですか」
避難壕の空気が少しだけ止まる。
アシュは壁に背を預けたまま、無意識に息を浅くした。
祈祷室の壁に残っていた削られた文字。
イリで途切れた名前。
あれはもう、ただの痕跡ではない。
イリスはしばらく何も言わなかった。
器の中の水が揺れる。
やがて、ごく小さく息を吐いた。
「……消されるのが嫌だったから」
短い言葉だった。
それで終わりにできるなら、たぶんそれで済ませていた。
でもフィアナは急かさない。
ただ黙って待つ。
「候補、第五候補、保留、再判定。あの中にいると、そういう呼ばれ方ばかりになる」
イリスは低く続けた。
「名前を呼ばれない時間が長くなると、自分でも、そっちの方が本当みたいに思えてくるの」
フィアナの指先が、小さく器の縁をなぞる。
「だから残したんですね」
「ええ」
イリスはようやく頷いた。
「下手でも、中途半端でもいいから、自分で刻んでおきたかった。ここにいたのは、第五候補じゃなくてイリス・ヴェルカだったって」
その声は強くない。
けれど、言葉の形だけは少しも揺らがなかった。
フィアナは目を伏せる。
「……私は、そこまで考えたことがありませんでした」
「考えなくて済んでたなら、その方がましよ」
「でも、もう見てしまいました」
フィアナが言う。
「白い部屋も、祈祷室も、名前を削られた壁も」
イリスは返事をしなかった。
代わりに、初めてはっきりとフィアナの胸元を見た。
白環。
目に見えるほど強くは光っていない。
だが、白い施設を越えてから、イリスはそれを一度も“ただの印”として見ていない。
「あなたは、私とは少し違う」
イリスが言った。
「どう違うんですか」
「まだ、誰かに呼ばれてる」
その一言に、フィアナがかすかに目を見開く。
「……アシュさんたち、ですか」
「そう」
イリスの返事は短かった。
「それは大きいわ」
フィアナは言葉を探すみたいに少しだけ黙った。
「でも、呼ばれるだけでは駄目な時もありますよね」
イリスはそこで、初めて少しだけ表情を動かした。
驚いたのか、感心したのか、あるいはその両方か。
「そうね」
小さく答える。
「だから、あなたは今のうちに決めた方がいい」
「何を、ですか」
「誰に決められる前に、自分がどこまで自分でいるかを」
その言葉は重かった。
けれど、不思議と脅しには聞こえない。
生き延びた者が、後から来る者へ置く石みたいな言葉だった。
アシュはそこでようやく立ち上がった。
「朝から重い話してんな」
フィアナが振り返る。
「起きてたんですか」
「ちょっと前にな」
「……聞いてました?」
「少しだけな」
嘘だった。
最初からほとんど聞いていた。
だが、フィアナは追及しなかった。
その代わり、少しだけ頬を引き締める。
「支度、進めますね」
「ああ」
アシュが言うと、イリスが小さく鼻を鳴らした。
「相変わらず不器用ね」
「お前に言われたくねえよ」
「否定しないのね」
「面倒だな、お前」
そのやり取りに、入口の内側でガルドが低く笑う。
いつの間にか目を覚ましていたらしい。
壁に背を預けたまま、肩を回している。
「朝から機嫌いいな」
「良くねえよ」
アシュが返す。
「なら声に角立ちすぎだ」
「お前は黙ってろ」
ノアも火のそばで目を開けた。
器を見つけ、勝手に水を注ぎながらぼそりと言う。
「起きた瞬間からうるさいなお前たちは」
「一緒にすんな」
ガルドが言う。
「眠いなあ」
「知るか」
短いやり取りだったが、昨夜よりも少しだけ空気が軽い。
白い施設を越え、イリスと合流し、王都へ向かう道が決まったことで、全員の足場が少しだけ固まってきたのだろう。
支度は早かった。
荷はもともと多くない。
水袋を満たし、薬草を分け、火の痕を消す。
イリスは外で道の様子を見て戻り、手短に言った。
「この下りを抜けたら、昼前には古い荷路に着く」
「追手は」
アシュが問う。
「王国側はまだ上で探してるはず。教会の黒衣は、動きが速ければ追いつかれるかも」
ガルドが顔をしかめる。
「速けりゃって、不吉なこというなよ」
「残念だけど、そういう性格なんだ」
「やっかいな奴だな
イリスはそれを無視して、床へ簡単な線を引いた。
「ここから南東へ落ちる。途中で枯れた沢を横切る。その先の橋は使わない」
「橋があるのか」
ノアが問う。
「ある。でもかなり目立つ」
イリスの指が線をずらす。
「橋の少し上流に、岩の並びがある。荷路を知ってる人間だけが使う渡り方」
「嫌な道ばっか知ってるな」
ガルドが言う。
「生き延びるのに要ったから」
イリスが返す。
その返答はもう何度か聞いた。
けれど聞くたびに、軽くない。
フィアナは荷を背負い直しながら、ふと訊く。
「王都まで行ったら……イリスさんは、どうするんですか」
イリスの手が止まる。
「行かないって昨日言ったわよ」
「王都の中ではなく、そのあとです」
フィアナはやわらかく言った。
「私たちが王都へ向かっている間、あなたは」
イリスは少しだけ目を伏せた。
答えに迷ったというより、答えを持ちすぎていて、どこを出すか選んでいるような間だった。
「動く」
やがて、短く言う。
「私も山に籠もり続ける気はない。王都に入らなくても、外で拾えるものはある」
アシュが目を向ける。
「つまり別ルートか」
「ええ」
イリスは頷いた。
「白い施設が一つなら、逃げるのも一人で済んだ。でも、そうじゃない」
その一言で、避難壕の空気が少しだけ冷える。
全部が一つの場所で終わるはずがない。
「なら、また会う可能性もあるな」
アシュが言う。
イリスはその言葉に、ほんのわずかに目を細めた。
「……そうね」
「嫌そうだな」
「別に嫌じゃない」
少しだけ間を置いてから、イリスは続けた。
「ただ、また会う時は、今よりもっと面倒なことになってる気がするだけ」
ガルドが鼻を鳴らす。
「別に今さらだろ」
「違いない」
アシュも短く返した。
支度が終わる。
フィアナは荷の中を確かめ、ふと手を止めた。
白い施設から持ってきた布切れ。
針。
腕札の留め紐。
そういう小さなものが、今はもうただの証拠以上の重さを持ち始めている。
イリスがそれに気づいたのか、言った。
「全部持ってくの」
「迷いましたけど」
フィアナは答える。
「置いていく方が嫌だったので」
「そう」
イリスはそれ以上何も言わなかった。
ルゥがその時、入口でひとつ鳴いた。
催促だ。
「分かったよ」
アシュが言うと、ルゥは尻尾を一度だけ振った。
「こいつ、ほんとに急かすの好きだな」
ガルドがぼやく。
「見張り役のつもりなんでしょう」
フィアナが言う。
「ずいぶん自由な見張りだ」
「役に立つなら文句はない」
ノアが返す。
避難壕の入口を出る前、イリスがふとフィアナを呼び止めた。
「ひとつだけ」
「はい」
「王都に入ったら、白環は隠せるだけ隠しなさい」
フィアナは頷く。
「分かりました」
「それと」
イリスは少しだけ視線を逸らし、それから戻す。
「……誰かがあなたの名前を呼ぶうちは、それを手放さないで」
フィアナが目を見開いた。
アシュも、ガルドも、ノアも、すぐには何も言わない。
それがどれだけ重い言葉か、全員に分かったからだ。
フィアナはやがて、小さく、でもはっきり頷いた。
「はい」
イリスはそれで終わりにした。
それ以上は振り返らない。
「行くわよ」
短く言って、先頭で外へ出る。
避難壕の外は、ようやく朝の光が山肌に届き始めたところだった。
夜露はまだ重く、空気は冷たい。
だが、止まっている朝ではない。
山を下りる朝だ。
アシュたちはイリスの後を追い、細い斜面の道へ入った。
行く先はもう曖昧じゃない。
痕跡を追う段階は終わりつつあった。
ここから先は、この世界の仕組みを解き明かす。
第48話でした。
王都へ向かう前の、
最後の短い準備と会話の回になりました。
ここから先は、
いよいよ山を下りて、王都へ向かう流れが本格的に始まります。
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