第47話 夜明け前の約束
夜のうちに決まることもある。
朝を待つのは、覚悟の方だけでいい。
避難壕の中には、細い火が灯っていた。
大きくはしない。
煙もなるべく出さない。
石で囲い、乾いた枝だけを使って、消す時に痕が残りにくいようにする。
白い施設から逃げ、イリスの隠れ場所へ辿り着いてから、ようやく落ち着いて息を整えられる時間ができた。
だが、それは安心して休めるという意味ではない。
ただ次に動く前に、身体と考えを一度だけ繋ぎ直すための時間だった。
アシュは壁際に背を預けたまま、火の明かりの向こうにいるイリスを見る。
彼女は棚から出した木板と薄い布を床へ広げ、必要なものと不要なものを分けていた。
手つきに無駄がない。
持っていくものは少なく、捨てるものはさらに少ない。
生き延びるために持つべき重さを、もう身体で覚えてしまっている手だった。
「お前、本当に全部持ち歩かねえんだな」
アシュが言うと、イリスは目を上げずに答えた。
「持ちすぎると走れない」
「置きすぎると失うだろ」
「失っていいものしか置かない」
乾いた返しだった。
けれど、その“失っていいもの”がどれだけ少ないのかは、避難壕の中を見れば分かる。
フィアナはそのやり取りを聞きながら、炉のそばで小鍋をかけていた。
湧かしているのは湯というより、薬草の薄い煮出しだ。匂いは強くないが、身体の冷えを少しだけ追い出してくれる。
ルゥはその横で丸くなっている。
眠っているように見えて、耳だけはずっと立ったままだ。
ガルドは入口のそばで矢羽を整えていた。
ノアは木板の文字をもう一度確かめ、時おり火にかざして刻みの深さを見ている。
誰も騒がない。
でも、それぞれが別のことをしながら、同じ先を見ている空気があった。
「王都へ行くなら、真っ直ぐ街道は使わない方がいい」
イリスが言った。
火の明かりの下で、木板の横に粗い線を引く。
地図とは呼べないほど簡素なものだが、山裾と川筋、それに中継路らしい線だけは分かる。
「北の街道は王国兵の目が早い。教会側も表ではそっちを先に探す」
「じゃあどこを使う」
アシュが問う。
「南へ一度回り込む」
イリスの指が線を辿る。
「古い荷路がある。今は半分死んでるけど、封鎖記録や器の搬送にだけ使われていた道が残ってる」
ノアが顔を上げた。
「正規街道ではないのか」
「正規の荷には使わない。見られたくないものだけが通る道」
ガルドが顔をしかめる。
「ほんとにそういうのばっかだな」
「そういうものを追ってるんだから当たり前でしょう」
イリスの返しに、ガルドは何も言い返さなかった。
アシュは地図代わりの線を見つめる。
道筋としては十分だ。
だがそれだけでは足りない。
「王都へ入ったあと、どこへ行く」
アシュが言う。
「封印文庫に決まってる」
イリスはそう言ってから、少しだけ言葉を切った。
「……正確には、その下の南保管層」
フィアナの手が止まる。
「そこに、記録があるんですね」
「あるはずよ」
イリスは頷いた。
「候補の再判定、器移行、選定外処理、白環反応の控え。全部、最後にはどこかへ束ねられる。白い施設で終わる記録なんてない」
ノアが言う。
「だが、読むなら記録局の人間が必要だ」
イリスの目がそちらへ向く。
「そう。だから、私ならそこを先にあたる」
「誰をだ」
アシュが問うと、イリスは少しだけ考えてから答えた。
「あなたたちが一度組んだっていう記録局の男」
アシュの目が細くなる。
「レオフか」
「その人」
イリスは即答した。
「まだ王都側に残ってるなら、封印文庫の癖を知ってる。表から読めないものを、解読できるはず」
ガルドが鼻を鳴らす。
「つまり、王都に入ったらまずレオフ探しだな」
「向こうが先に見つけてくれりゃ楽なんだけどな」
アシュが言う。
「そんな都合のいい話はないでしょ」
イリスが切る。
「王都にいるなら、向こうも向こうで今は首が回らないはずよ」
「そうですね」
フィアナが静かに言う。
「レオフさんも、たぶん安全な場所にはいない気がします」
その声に、アシュは少しだけフィアナを見る。
彼女は鍋の中を見つめたまま、続けた。
「白い施設の線が動いたなら、王都の記録も無事ではいられないと思います」
ノアが頷く。
「消しにかかる側が先に動いてる可能性は高い」
「だから急ぐ必要がある、って話よ」
イリスが言う。
火の明かりが、その横顔を薄く照らす。
白い施設の名残を見た時の硬さはまだ消えていない。
けれど今は、その硬さの向きが少しだけ変わっていた。
追い払うためのものではなく、先へ進めるための硬さだ。
フィアナが静かに器へ湯を分けた。
一つ、二つ、三つ。
四つ目も作る。イリスの分だ。
それを差し出すと、イリスは一瞬だけ目を見開いた。
「……何」
「温かいうちに飲んでください」
フィアナの声はやわらかい。
「冷えると、身体に残ります」
「慣れてるけどね」
「それでもです」
ほんの少しの間。
イリスは器を見て、それからフィアナを見た。
試すみたいに。
困らせる言葉を返せば引くのか、それとも本気で差し出しているのかを確かめるみたいに。
だが結局、何も刺すようなことは言わずに受け取った。
「……ありがと」
小さな声だった。
フィアナが少しだけ表情をゆるめる。
「どういたしまして」
イリスは器に口をつける。
熱さを確かめるみたいに少しだけ含み、飲み込んで、それから視線を落とした。
「あなたたちって、変な集団ね」
「何が」
アシュが言う。
「寄せ集めのくせに、なんか昔から仲間みたい」
その言葉に、避難壕の中が少しだけ静かになる。
ガルドが矢を置いた。
「それは褒めてるのか」
「さあ、事実を言ってるだけ」
イリスは器を持ったまま、火を見ていた。
「そういう連中って、途中で崩れやすいから」
フィアナがその横顔を見つめる。
「イリスさんも経験があるんですね」
イリスは答えなかった。
けれど、その沈黙自体が答えみたいなものだった。
アシュはそれ以上そこへ踏み込まない。
今必要なのは、傷を言葉にさせることじゃなく、次の道を固めることだ。
「もう一度確認するが、お前はどうする」
アシュが問う。
イリスの目が上がる。
「何が」
「王都だ。ついてくるのか、残るのか」
避難壕の空気がまた変わる。
フィアナも、ガルドも、ノアも、答えを待った。
イリスはすぐには返さなかった。
器を置き、火の向こうの木板を見て、それからようやく言う。
「行けない」
短かった。
「王都は、私にとって山より危ない」
「追われるからか」
「それだけじゃない」
イリスの声は、前より少し低かった。
「入った瞬間に、あっち側へ引き戻される。私はそれを分かってる」
フィアナの指先が膝の上でわずかに動く。
あっち側。
その言い方は、たぶんフィアナ自身にも遠くない。
「でも」
イリスは続けた。
「行かないからって、何も託さない気もない」
そう言って、棚の奥からもう一つ細い木筒を出してきた。
中身は紙ではない。
薄い布片が巻かれている。
「これを持っていって」
アシュが受け取る。
布片には、黒く細い線が何本か引かれていた。
地図というより、箱と棚の位置を記した覚え書きに近い。
「南保管層の?」
「そこへ行く荷箱の並び」
イリスが言う。
「正確な見取り図じゃない。昔見たものを、忘れないうちに移しただけ。でも何もないよりはましでしょ」
ノアがその布片を覗き込み、静かに息を吐く。
「……十分だ」
「役に立つかは分からない」
「お前の言う通り、無いよりはましだ」
アシュが言うと、イリスは小さく頷いた。
「そう」
それだけの返しだったが、その中にあったのは最初よりずっとましな温度だった。
外では、夜の気配が少しずつ濃くなっていた。
山の夜は早い。
今夜はここで休む。
夜明け前に出る。
王都へ向けて下る。
それが、ようやく全員の中で同じ形を取り始めていた。
フィアナが小さく口を開く。
「イリスさん」
イリスの目が向く。
「何」
「さっき、白環を勝手に使い切らないほうがいいって言いましたよね」
「言ったわね」
「……ありがとうございます」
火が一度だけ、小さく鳴った。
イリスはすぐには答えない。
だが、少しだけ視線を逸らしてから言った。
「礼を言われるようなことじゃない」
「それでもです」
フィアナはやわらかく言った。
「誰かにそう言ってもらえるのは、たぶん大事なことなので」
イリスは返事の代わりに、小さく息を吐いた。
困ったような、呆れたような、それでも完全には拒まない息だった。
アシュはその光景を見ながら、壁へ背を預け直す。
全部が一つに繋がり始めている。
ここから先は、山の逃走だけで終わる話じゃない。
「少しでも寝ろ」
アシュが言う。
「出る前に潰れたら話にならねえ」
ガルドが鼻を鳴らす。
「それ、お前もだろ」
「そうだな」
「だったら先に寝ろよ」
「うるせえな」
「うるさくないだろがよ」
その返しに、フィアナが少しだけ笑い、ノアが火の具合を確かめ、ルゥが丸くなり直す。
避難壕の中には、まだ緊張がある。
けれど、それだけではなくなってきていた。
夜が明ければ、王都へ向かう。
その前の、短い静けさだった。
第47話でした。
王都へ向かう目的と、
そのために必要なものが、だいぶはっきりしてきました。
ここから先は、
いよいよ山を下りて、王都へ向かいます。
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