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灰の王は赦されない  作者: 星喰ゆう
第5章 逃げた器の行方

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第47話 夜明け前の約束

夜のうちに決まることもある。

朝を待つのは、覚悟の方だけでいい。

 避難壕の中には、細い火が灯っていた。


 大きくはしない。

 煙もなるべく出さない。

 石で囲い、乾いた枝だけを使って、消す時に痕が残りにくいようにする。


 白い施設から逃げ、イリスの隠れ場所へ辿り着いてから、ようやく落ち着いて息を整えられる時間ができた。

 だが、それは安心して休めるという意味ではない。


 ただ次に動く前に、身体と考えを一度だけ繋ぎ直すための時間だった。


 アシュは壁際に背を預けたまま、火の明かりの向こうにいるイリスを見る。


 彼女は棚から出した木板と薄い布を床へ広げ、必要なものと不要なものを分けていた。

 手つきに無駄がない。

 持っていくものは少なく、捨てるものはさらに少ない。


 生き延びるために持つべき重さを、もう身体で覚えてしまっている手だった。


「お前、本当に全部持ち歩かねえんだな」


 アシュが言うと、イリスは目を上げずに答えた。


「持ちすぎると走れない」


「置きすぎると失うだろ」


「失っていいものしか置かない」


 乾いた返しだった。

 けれど、その“失っていいもの”がどれだけ少ないのかは、避難壕の中を見れば分かる。


 フィアナはそのやり取りを聞きながら、炉のそばで小鍋をかけていた。

 湧かしているのは湯というより、薬草の薄い煮出しだ。匂いは強くないが、身体の冷えを少しだけ追い出してくれる。


 ルゥはその横で丸くなっている。

 眠っているように見えて、耳だけはずっと立ったままだ。


 ガルドは入口のそばで矢羽を整えていた。

 ノアは木板の文字をもう一度確かめ、時おり火にかざして刻みの深さを見ている。


 誰も騒がない。

 でも、それぞれが別のことをしながら、同じ先を見ている空気があった。


「王都へ行くなら、真っ直ぐ街道は使わない方がいい」


 イリスが言った。


 火の明かりの下で、木板の横に粗い線を引く。

 地図とは呼べないほど簡素なものだが、山裾と川筋、それに中継路らしい線だけは分かる。


「北の街道は王国兵の目が早い。教会側も表ではそっちを先に探す」


「じゃあどこを使う」


 アシュが問う。


「南へ一度回り込む」


 イリスの指が線を辿る。


「古い荷路がある。今は半分死んでるけど、封鎖記録や器の搬送にだけ使われていた道が残ってる」


 ノアが顔を上げた。


「正規街道ではないのか」


「正規の荷には使わない。見られたくないものだけが通る道」


 ガルドが顔をしかめる。


「ほんとにそういうのばっかだな」


「そういうものを追ってるんだから当たり前でしょう」


 イリスの返しに、ガルドは何も言い返さなかった。


 アシュは地図代わりの線を見つめる。


 道筋としては十分だ。

 だがそれだけでは足りない。


「王都へ入ったあと、どこへ行く」


 アシュが言う。


「封印文庫に決まってる」


 イリスはそう言ってから、少しだけ言葉を切った。


「……正確には、その下の南保管層」


 フィアナの手が止まる。


「そこに、記録があるんですね」


「あるはずよ」


 イリスは頷いた。


「候補の再判定、器移行、選定外処理、白環反応の控え。全部、最後にはどこかへ束ねられる。白い施設で終わる記録なんてない」


 ノアが言う。


「だが、読むなら記録局の人間が必要だ」


 イリスの目がそちらへ向く。


「そう。だから、私ならそこを先にあたる」


「誰をだ」


 アシュが問うと、イリスは少しだけ考えてから答えた。


「あなたたちが一度組んだっていう記録局の男」


 アシュの目が細くなる。


「レオフか」


「その人」


 イリスは即答した。


「まだ王都側に残ってるなら、封印文庫の癖を知ってる。表から読めないものを、解読できるはず」


 ガルドが鼻を鳴らす。


「つまり、王都に入ったらまずレオフ探しだな」


「向こうが先に見つけてくれりゃ楽なんだけどな」


 アシュが言う。


「そんな都合のいい話はないでしょ」


 イリスが切る。


「王都にいるなら、向こうも向こうで今は首が回らないはずよ」


「そうですね」


 フィアナが静かに言う。


「レオフさんも、たぶん安全な場所にはいない気がします」


 その声に、アシュは少しだけフィアナを見る。


 彼女は鍋の中を見つめたまま、続けた。


「白い施設の線が動いたなら、王都の記録も無事ではいられないと思います」


 ノアが頷く。


「消しにかかる側が先に動いてる可能性は高い」


「だから急ぐ必要がある、って話よ」


 イリスが言う。


 火の明かりが、その横顔を薄く照らす。

 白い施設の名残を見た時の硬さはまだ消えていない。

 けれど今は、その硬さの向きが少しだけ変わっていた。


 追い払うためのものではなく、先へ進めるための硬さだ。


 フィアナが静かに器へ湯を分けた。


 一つ、二つ、三つ。

 四つ目も作る。イリスの分だ。


 それを差し出すと、イリスは一瞬だけ目を見開いた。


「……何」


「温かいうちに飲んでください」


 フィアナの声はやわらかい。


「冷えると、身体に残ります」


「慣れてるけどね」


「それでもです」


 ほんの少しの間。


 イリスは器を見て、それからフィアナを見た。

 試すみたいに。

 困らせる言葉を返せば引くのか、それとも本気で差し出しているのかを確かめるみたいに。


 だが結局、何も刺すようなことは言わずに受け取った。


「……ありがと」


 小さな声だった。


 フィアナが少しだけ表情をゆるめる。


「どういたしまして」


 イリスは器に口をつける。

 熱さを確かめるみたいに少しだけ含み、飲み込んで、それから視線を落とした。


「あなたたちって、変な集団ね」


「何が」


 アシュが言う。


「寄せ集めのくせに、なんか昔から仲間みたい」


 その言葉に、避難壕の中が少しだけ静かになる。


 ガルドが矢を置いた。


「それは褒めてるのか」


「さあ、事実を言ってるだけ」


 イリスは器を持ったまま、火を見ていた。


「そういう連中って、途中で崩れやすいから」


 フィアナがその横顔を見つめる。


「イリスさんも経験があるんですね」


 イリスは答えなかった。

 けれど、その沈黙自体が答えみたいなものだった。


 アシュはそれ以上そこへ踏み込まない。


 今必要なのは、傷を言葉にさせることじゃなく、次の道を固めることだ。


「もう一度確認するが、お前はどうする」


 アシュが問う。


 イリスの目が上がる。


「何が」


「王都だ。ついてくるのか、残るのか」


 避難壕の空気がまた変わる。


 フィアナも、ガルドも、ノアも、答えを待った。


 イリスはすぐには返さなかった。

 器を置き、火の向こうの木板を見て、それからようやく言う。


「行けない」


 短かった。


「王都は、私にとって山より危ない」


「追われるからか」


「それだけじゃない」


 イリスの声は、前より少し低かった。


「入った瞬間に、あっち側へ引き戻される。私はそれを分かってる」


 フィアナの指先が膝の上でわずかに動く。


 あっち側。


 その言い方は、たぶんフィアナ自身にも遠くない。


「でも」


 イリスは続けた。


「行かないからって、何も託さない気もない」


 そう言って、棚の奥からもう一つ細い木筒を出してきた。


 中身は紙ではない。

 薄い布片が巻かれている。


「これを持っていって」


 アシュが受け取る。


 布片には、黒く細い線が何本か引かれていた。

 地図というより、箱と棚の位置を記した覚え書きに近い。


「南保管層の?」


「そこへ行く荷箱の並び」


 イリスが言う。


「正確な見取り図じゃない。昔見たものを、忘れないうちに移しただけ。でも何もないよりはましでしょ」


 ノアがその布片を覗き込み、静かに息を吐く。


「……十分だ」


「役に立つかは分からない」


「お前の言う通り、無いよりはましだ」


 アシュが言うと、イリスは小さく頷いた。


「そう」


 それだけの返しだったが、その中にあったのは最初よりずっとましな温度だった。


 外では、夜の気配が少しずつ濃くなっていた。

 山の夜は早い。


 今夜はここで休む。

 夜明け前に出る。

 王都へ向けて下る。


 それが、ようやく全員の中で同じ形を取り始めていた。


 フィアナが小さく口を開く。


「イリスさん」


 イリスの目が向く。


「何」


「さっき、白環を勝手に使い切らないほうがいいって言いましたよね」


「言ったわね」


「……ありがとうございます」


 火が一度だけ、小さく鳴った。


 イリスはすぐには答えない。

 だが、少しだけ視線を逸らしてから言った。


「礼を言われるようなことじゃない」


「それでもです」


 フィアナはやわらかく言った。


「誰かにそう言ってもらえるのは、たぶん大事なことなので」


 イリスは返事の代わりに、小さく息を吐いた。

 困ったような、呆れたような、それでも完全には拒まない息だった。


 アシュはその光景を見ながら、壁へ背を預け直す。


 全部が一つに繋がり始めている。

 ここから先は、山の逃走だけで終わる話じゃない。


「少しでも寝ろ」


 アシュが言う。


「出る前に潰れたら話にならねえ」


 ガルドが鼻を鳴らす。


「それ、お前もだろ」


「そうだな」


「だったら先に寝ろよ」


「うるせえな」


「うるさくないだろがよ」


 その返しに、フィアナが少しだけ笑い、ノアが火の具合を確かめ、ルゥが丸くなり直す。


 避難壕の中には、まだ緊張がある。

 けれど、それだけではなくなってきていた。


 夜が明ければ、王都へ向かう。


 その前の、短い静けさだった。

第47話でした。


王都へ向かう目的と、

そのために必要なものが、だいぶはっきりしてきました。


ここから先は、

いよいよ山を下りて、王都へ向かいます。


少しでも続きが気になったら、

ブックマークや評価、感想などいただけると嬉しいです。


次話もよろしくお願いします。

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