第46話 残された鍵
逃げ延びた先で拾うものは、
たいてい傷か、
次へ進むための理由だ。
イリスが案内した次の隠れ場所は、山肌のさらに奥にあった。
小屋ではない。
岩を削って半ば埋めた、古い避難壕に近い造りだった。
入口は低く、蔓と倒木で半分隠れている。中へ入らなければ、人が潜んでいるとはまず気づかない。
「ここなら半日は持つ」
イリスが言った。
「半日かよ」
ガルドが顔をしかめる。
「一生住むつもりでもなけりゃ十分でしょ」
「お前、そういう言い方しかしねえのか」
「優しく言っても状況は良くならないでしょ」
即答だった。
だが、さっきまでの刺すような硬さは、ほんの少しだけ薄れている。
少なくとも、アシュたちを、今すぐ切るべき厄介ごととしては見なくなっていた。
避難壕の中は乾いていた。
壁際に古い寝台。
石で組んだ小さな炉。
水瓶が二つ。
そして奥の棚には、布包みと木箱がいくつか置かれている。
「隠れ家が多いな」
アシュが言う。
「生き延びるのに必要だったから」
イリスは短く返し、入口の草を内側から整えた。
外からの見え方まで、反射みたいに気にしている動きだった。
ノアが棚の箱を見る。
「全部一人で揃えたのか」
「全部じゃない」
イリスは少しだけ間を置いた。
「最初のいくつかは、逃げる前に回してもらった。あとは自分で」
その言い方に、アシュの目が細くなる。
「白い施設の中にいた、協力者か」
イリスは頷きもしなかった。
だが否定もしない。
フィアナは避難壕の中を見回し、そっと息を吐いた。
「ここ、落ち着きますね」
「別に落ち着く場所を選んだわけじゃないわ」
イリスは言う。
「ただ見つかりにくいだけ」
「それでもです」
フィアナの返しは静かだった。
イリスはその顔を一瞬だけ見て、それ以上は何も言わなかった。
ガルドが入口のそばに腰を下ろし、弓の弦を確かめる。
ノアは炉の近くへしゃがみ込み、灰の状態を見ていた。
ルゥは避難壕をひと通り嗅ぎ回ってから、ようやくフィアナの足元へ戻ってくる。
アシュは奥の棚の前に立った。
「話せるなら話してくれ」
イリスが目を向ける。
「何を」
「白い施設の先に何があるのか。王都に何が残ってるのか。お前がどこまで掴んでるのか」
少しの沈黙。
避難壕の中は静かだった。
外の風も、ここまではほとんど届かない。
だからこそ、イリスが息を整える小さな音まで聞こえた。
「全部は知らない」
やがてイリスが言った。
「でも、なにも知らないまま逃げたわけでもない」
彼女は棚の一番奥から、薄い布包みを取り出した。
丁寧に結ばれている。
何度も開いては結び直した形跡があった。
床へ広げる。
中から出てきたのは、紙束ではなかった。
紙は長く持たない。山の中ならなおさらだ。
薄い木板が三枚。
細い金属片。
それから、小さな鍵がひとつ。
フィアナが目を見開く。
「これは……」
「白い施設から持ち出したものと、そのあと拾ったもの」
イリスが答える。
「持って出られる量なんて限られていたから、役に立つものだけ選んだ」
ノアがすぐに木板を見た。
焼き付けるみたいに薄い文字が刻まれている。
擦れているが、まだ死んではいない。
「読めるか」
アシュが問う。
ノアは目を細める。
「……東棟…再判定…移送…」
そこで止まる。
別の板へ移る。
「こっちは……封印文庫送付控…白環反応記録…」
ガルドが顔をしかめた。
「控えってことは、元の記録は別にあるのか」
「ある」
イリスが答える。
「白い施設で終わる記録なんてほとんどない。候補として使うなら、最後は必ず王都へ送られる」
アシュが金属片を手に取る。
札ではない。
細長い留め具の一部に見える。
刻印が薄く入っていた。
「何の印だ」
「封印文庫の運搬箱に使う金具」
イリスの声が落ちる。
「候補記録、器移行記録、選定外処理の文書。そういう消す前に残しておく必要があるものは、一度そこで束ねられる」
フィアナの指先が小さく強張る。
「消す前に……」
「全部をすぐ燃やすわけじゃないの」
イリスは言った。
「都合がある。責任の線を残すための控え、確認のための写し、次の候補へ流用するための記録。そういうのがいる」
ノアが小さく息を吐く。
「人を使い回す前提の帳簿か」
「そういうこと」
避難壕の空気が少し冷えた。
アシュは最後に残った小さな鍵を見る。
黒ずんだ金属。
持ち手の輪に刻み。
扉ではなく、箱や引き出しに使う種類だ。
「これは」
「文庫の閲覧鍵じゃない」
イリスが言う。
「運搬箱の二重留めの片方」
「片方?」
「もう片方がないと意味がない」
「なら役に立たねえな」
ガルドが言う。
「半分だけならね」
イリスは少しだけ視線を逸らした。
「でも、同じ形式の留めを扱える人間が王都に一人いる」
その一言で、アシュの目が細くなる。
「誰だ」
「記録局の人間。昔、施設の控えを受け取る側にいた人」
「名前は」
イリスは一拍置いてから答えた。
「そこまではわからない」
アシュは黙った。
王都の裏文書に触れる人間が一人だけで済むはずがない。
けれど、その名がすぐ続く気配はない。
イリスは木板の一枚をアシュへ滑らせた。
「でも、その人が最後に残した印がある」
木板の端に、細い刻みが入っていた。
ただの傷に見える。
だがよく見ると、記号だ。
ノアが先に気づく。
「……南保管層」
フィアナが小さく繰り返す。
「王都の、ですか」
「ええ」
イリスが頷いた。
「封印文庫の中でも、正規の閲覧記録に載せないものを置く場所。候補や器の処理記録は、そこへ送られる」
ガルドが腕を組んだ。
「つまり、行き先は決まりってことか」
アシュは木板を見下ろす。
南保管層。
封印文庫。
候補と器の記録。
白い施設を見ただけでは足りない。
イリスが逃げた意味も、フィアナが今どこに立たされているのかも、その先へ行かないと掴みきれない。
「王都か」
低く呟く。
イリスは頷いた。
「山の中で拾えるのは、せいぜい逃げ道と痕跡まで。答えそのものは向こうにある」
その時、フィアナが小さく口を開いた。
「あなたは、行かないんですか」
イリスの目が一瞬だけ揺れる。
すぐ消えたが、今までで一番はっきりした揺れだった。
「……行けない」
「どうして」
「私の顔も、白環も、記録も、向こうには全部残ってる。王都へ入ればすぐ追われる」
淡々とした説明だった。
だが、その言い方の奥にはただの諦めじゃないものがあった。
戻りたくない。
戻れば、また候補へ戻される。
その感覚がまだ身体に残っている声だ。
フィアナはそれ以上は問わなかった。
代わりに、小さく頷く。
「分かりました」
ガルドが入口の方を見たまま言う。
「で、王都に行くとして、今すぐ山下りるのは危ねえぞ」
「分かってる」
アシュが答える。
「ルークたちだけじゃねえ。教会の黒衣もこっちを追ってる」
「なら、ここで一晩休んでから夜明け前に動く」
イリスが言った。
「私が知ってる下り道なら、途中までは人目を避けられる」
ノアが木板を丁寧に布へ包み直しながら訊く。
「その道、王都まで繋がるのか」
「王都までじゃない」
イリスは答える。
「でも、王都へ向かう荷が使ってた古い中継路には繋がる」
その言葉に、アシュとノアの視線が一瞬だけ重なる。
線が、ようやく形になり始めていた。
ルゥがその時、小さく鳴いてフィアナの膝へ鼻先を押しつけた。
フィアナは少しだけ肩の力を抜き、その頭を撫でる。
「王都……ですね」
「嫌か」
アシュが問う。
フィアナは少しだけ考えた。
そして首を横に振る。
「嫌、というより……怖いです。でも、行かないと駄目なんだと思います」
「正しいと思う?」
「分かりません」
フィアナは正直に言った。
「でも、何も知らないまま決められるのは、もっと嫌です」
その返しに、イリスがわずかに目を伏せた。
たぶん、その言葉はフィアナ自身のものでもあり、かつてのイリス自身に近いものでもあったのだろう。
アシュは立ち上がった。
「なら決まりだ」
短く言う。
「山を下りて、王都へ行く」
ガルドが息を吐く。
「ほんとに面倒な方へばっか行くな」
「今さらだろ」
ノアが返す。
「違いねえ」
ぼやきながらも、ガルドはもう止める顔をしていなかった。
イリスはしばらく黙っていたが、やがて避難壕の奥からもう一つ小さな布包みを持ってきた。
「これ、持っていって」
差し出されたのは、薄い布と乾燥薬草だった。
手当て用のものだろう。
「いいのか」
アシュが言う。
「別に、いまさらでしょ」
イリスは素っ気なく答えた。
「それに、王都へ行くなら途中で倒れられる方が困る」
ガルドが小さく笑う。
「仲間みてえなこと言うじゃねえか」
「言ってない」
即答だった。
でも、最初に会った時なら、そんな布包み自体出してこなかったはずだ。
アシュはそれ以上は何も言わず、受け取った。
避難壕の外では、夕方の光がもう少しずつ薄くなり始めている。
山にいられる時間は長くない。
けれど、次に行く場所はようやく決まった。
王都
封印文庫
南保管層
イリスが逃げた先と、フィアナがまだ知らない自分の先が、そこで繋がる。
第46話でした。
イリスの手元に残っていたものから、
王都へ向かう理由が、かなりはっきり見えてきました。
ここから先は、
山の中の逃走だけでは終わらない話になっていきます。
少しでも続きが気になったら、
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次話もよろしくお願いします。




