第43話 イリス・ヴェルカ
辿り着いた先に人がいる時、
いちばん先にぶつかるのは、
言葉じゃなく警戒心だ。
草の下へ隠された細道は、途中からほとんど獣道に見分けがつかなくなった。
だが完全な獣道ではない。
人が通るには狭すぎる場所だけ、枝が内側から折られている。
足を取られやすい石の角だけ、わずかに土をかけて均されている。
知らない人間には見えない程度の手入れが、ずっと先まで続いていた。
ガルドが先頭で、低木を払う手を止める。
「近いな」
アシュが問う。
「何がだ」
「隠れ家だよ」
ガルドは振り返らずに言った。
「ここまで来ると、移動のための道じゃねえ。戻る場所がある」
ノアも同意するように頷く。
「道の整え方が変わった。先へ抜けるためじゃなく、特定の地点へ誘導してる」
フィアナは胸元へ手をやっていた。
白環は光っていない。
だが、そのせいで安心できる感じでもない。
「どうした」
アシュが訊くと、フィアナは少しだけ迷ってから答えた。
「近いです」
「何が」
「人の気配、です」
その一言で、全員の空気が変わる。
ガルドが弓へ手をかける。
ノアは足元の線から視線を上げ、木々の間と斜面の高さを見た。
ルゥも低く喉を鳴らし、耳をぴたりと伏せる。
「追手か」
アシュが低く問う。
フィアナは首を横に振る。
「違うと思います。もっと……隠れてる感じです」
「隠れてるなら、なおさら気をつけろ」
ガルドが小さく吐き捨てた。
一行は歩幅を落とした。
細道はやがて、山裾の裂け目みたいにできた岩の間へ入り込む。
左右から迫る岩壁と木々が、空を細く切り取っている。
先へ進めば進むほど、前からも後ろからも見えにくい地形だった。
隠れるにはちょうどいい。
誰かを待つにも、ちょうどいい。
その時だった。
ルゥが突然、横へ跳んだ。
「っ」
アシュの身体も反射で動く。
次の瞬間、細い金属音が鳴った。
見えなかった線が弾け、足元の落ち葉の下から細い木杭が跳ね上がる。
殺すための罠ではない。
だが、脛か足首をやられれば一気に動けなくなる位置だった。
「罠か」
ガルドが顔をしかめる。
「こら油断できねえな」
ノアがしゃがみ込み、切れた細線を拾い上げた。
「古いものじゃない。最近張り直してる」
「追手避けか」
アシュが言う。
「それもあるが、いきなり斬る気なら別の仕掛けを使う」
ノアは線を指先で弾いた。
「これは警告だろうな」
その時、右前方の岩陰で石がわずかに鳴った。
ガルドが即座に弓を向ける。
アシュも半歩前へ出た。
フィアナはルゥの背へ手を置いたまま、息を潜める。
「出てこい」
アシュが言う。
返事はない。
だが、気配は消えない。
見られている。
こちらの人数も、立ち位置も、もう読まれている感じがした。
ノアが低く言う。
「左上にも一つ」
「分かってる」
アシュが返す。
二人いる。
いや、気配が二つあるだけで、片方はダミーかもしれない。
どちらにせよ、こちらの反応を見る配置だ。
フィアナが小さく声を出した。
「待ってください」
アシュが目だけで促す。
フィアナは岩陰の先を見ていた。
白環は光っていないのに、相手の気配に何か引っかかるものがあるらしい。
「敵意だけではありません」
「十分だろ」
ガルドが言う。
「ええ。でも、追手の感じではないです」
その一言のあと、ようやく岩陰から人影が現れた。
女だった。
年は二十代前半に見える。
痩せている。
だが、弱くは見えない。
細い身体のどこにも余計な力みがなく、逃げることにも刺すことにも慣れてしまった立ち方をしている。
上着は色褪せ、何度も縫い直された跡がある。
腰には短剣。
左手には、小型の弩が握られていた。
顔立ちは整っている。
けれど美しいというより、眠れていない時間の方が長かった顔だった。
淡い色の髪は後ろで短く束ねられ、その目は、相手を信じるより先に逃げ道を測る癖が染みついている。
フィアナが息を呑む。
女の目が、最初に見たのはアシュでもガルドでもノアでもなく、フィアナの胸元だった。
「……その印」
低い声だった。
かすれている。
長く大声を出していない人間の声だ。
フィアナは自分の胸元へ手をやる。
「白環、を……知っているんですね」
女の目が細くなる。
「知ってるから、ここにいるんだ」
弩は下げない。
だが引き金に指もかけていない。
ガルドが小さく舌打ちする。
「名前を聞いてもいいか」
「よくない」
即答だった。
「じゃあ、こっちが当てる」
アシュが低く言う。
女の視線が初めて、まっすぐアシュへ向いた。
「イリス・ヴェルカ」
その名を口にした瞬間、空気が止まった。
女の――イリスの顔から、わずかに色が引く。
ほんの一拍。
それで十分だった。
ガルドが鼻を鳴らす。
「当たりだな」
イリスはすぐに持ち直した。
弩の先がほんの少しだけ上がる。
「どこでその名を拾ったの」
「白い施設だ」
アシュが答える。
「お前が通った跡も、削られた名前も見た」
「……」
「第五候補って札もな」
その一言で、イリスの表情がはっきり変わる。
怒りか、嫌悪か、どちらともつかない感情が目の奥を過った。
「その呼び方で、二度と呼ばないで」
声は低かった。
だが今までで一番はっきりしていた。
フィアナが一歩だけ前へ出る。
「私は」
言いかけて、アシュが腕を出して制した。
「まだだ」
フィアナは息を止める。
だが引かない。
イリスはそのやり取りを見ていた。
そして、フィアナの立ち方と、アシュの庇い方と、ルゥが自然にフィアナの足元へ寄っているのを、一つずつ確かめるみたいに見た。
「……あなたも、白い施設から来たのね」
イリスが言う。
「なら、あそこを見たんだ」
「ああ」
アシュが答える。
「祈祷室も、白い部屋も、選別の記録も」
「そこまで見て、まだ私のところまで来るなら、物好きか馬鹿かどっちかだわ」
「それは褒め言葉か」
「違う」
即答だった。
だが、その即答の奥に、さっきより少しだけ人の温度が混じっていた。
ノアがそこで口を開く。
「追手も近い」
イリスの目がそちらへ向く。
「王国側か」
「そうだ」
「教会ではないのね」
「今のところはな」
短い確認だった。
だが、それだけでイリスの中でも盤面がかなり早く組まれているのが分かる。
ガルドが苛立ったように言う。
「話を聞くならさっさと決めろ。ここで立ち話してる余裕はねえぞ」
イリスはまだ弩を下ろしていない。
けれど最初の、今にも撃つ緊張はもう少しだけ薄れていた。
その代わり、今は別の目で見ている。
フィアナを見る目だ。
「……あなたも候補だったの」
フィアナは一瞬だけ言葉に詰まり、それから小さく頷いた。
「たぶん」
「たぶん?」
「まだ全部は、分かっていません」
フィアナの返しに、イリスはほんの僅かに眉を動かした。
「そう」
それだけだった。
アシュが言う。
「ここで話す気がねえなら、それでもいい。だが俺たちはお前を見つけた。向こうもそのうち来る」
「脅し?」
「事実を言っただけだ」
「……嫌な言い方するのね」
数拍の沈黙。
風が岩の間を抜ける。
遠くで鳥が一度だけ鳴き、それが逆にこの場の静けさを際立たせた。
やがて、イリスが先に弩を下ろした。
完全にではない。
けれど、今すぐ撃つ角度ではなくなった。
「ついてきて」
「白い施設まで見たなら、もう中途半端に帰れないでしょう」
その言葉に、誰もすぐには反論しなかった。
イリスはそれを確認してから、岩棚の奥へ身体を滑らせる。
ぱっと見では行き止まりにしか見えない場所だ。
だが近づくと、崩れた岩の裏にさらに細い通り道が隠れているのが分かった。
「……ほんとに色々知ってるな」
ガルドがぼやく。
「知らなきゃ生きてないよ」
イリスは振り返らずに言った。
その返しに、フィアナが少しだけ目を伏せる。
アシュはそれを見たが、何も言わなかった。
イリスのあとを追って、一行はさらに岩の奥へ入る。
道は狭い。
だが短い。
抜けた先にあったのは、小さな谷の窪みだった。
外からは見えない。
岩と木に囲まれ、簡単な小屋が一つだけ建っている。
白い施設の隠れ場よりはずっと生活の跡があった。
火を焚いた跡
水桶
布を干した痕
粗い棚
生きるための場所だ。
イリスが小屋の前で止まる。
「入って」
そう言って初めて、彼女はフィアナから一度だけ目を外し、アシュを見る。
「話すなら中で話す。外よりはましでしょ」
アシュは頷く。
ルゥが先に小屋の匂いを嗅ぎ、危険がないことを確かめるように一度だけ鳴いた。
ようやく、ここまで追ってきた痕跡が人の形を持った。
白い施設を抜けて、自分で生き延びた者。
イリス・ヴェルカ。
物語はここから本当に動き始める。
第43話でした。
ついに、イリス本人と対面しました。
ここからは痕跡ではなく、
イリス自身の言葉と過去が少しずつ前に出てきます。
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次話もよろしくお願いします。




