第42話 逃げた器の跡
消された記録より、
生き延びた跡の方が、
その人のことをよく語る時がある。
湧き場を離れて東へ下ると、道はさらに細くなった。
細いというより、意図して細く残された道だった。
人ひとりなら通れる。
だが二人並べば肩が触れる。
後ろから追う側にとっては鬱陶しく、前を知っている側にとっては都合がいい。
ガルドが草を払いながら進む。
「鬱陶しい道だが、こういうのは嫌いじゃねえ」
「珍しいな」
アシュが言う。
「広い道よりましってだけだ」
ガルドは振り返らずに答えた。
「広い道は追う側にも親切すぎるからな」
ノアが壁際の石を一瞥する。
「人が通ることを前提に、わざと獣道みたいに崩してる」
「やっぱり、誰かが残した道なんですね」
フィアナが言う。
「ええ。しかも一度だけではない」
ノアは短く頷いた。
「通って、覚えて、次にまた使えるようにしてる」
アシュは足元へ視線を落とす。
浮いた石が不自然に端へ寄せられている。
足を取られやすい木の根だけが切られている。
手入れと言うほど露骨ではない。
けれど、知らない人間には気づかれず、知っている人間には助かる程度の直しが続いていた。
逃げた人間の足跡ではない。
生き延びるために、先のことまで考えていた人間の痕だった。
道はしばらく下り、やがて大きな岩棚の陰へ回り込んだ。
ルゥが先に小さく鳴く。
その声にガルドがすぐ手を上げた。
「止まれ」
一行の足が止まる。
アシュは剣の柄へ手をかけ、岩棚の陰を覗き込んだ。
だが敵の気配はない。
代わりにそこにあったのは、人が身を寄せるためだけに使われていた狭い空間だった。
洞窟というほどではない。
岩棚の下へ、板と石で半端に風除けを作っただけの粗い隠れ場だ。
大人一人が横になれば、もう余裕はない。
「……ここか」
アシュが低く言う。
ガルドは無言で近づき、地面を見た。
土は固い。
だが奥の方だけ、人の体重で何度か押された跡がある。
長く使われた寝床ほどではない。
けれど一晩二晩で消える浅さでもなかった。
ノアが岩棚の端へ触れる。
「風の流れがいい」
「隠れ場所としてか」
「見つかりにくさの割に、息がこもらない。知ってるやつが選んでる」
フィアナは狭い隠れ場の前で、しばらく動かなかった。
白環は光っていない。
それでも、ここに残ったものを拾うように、じっと空気へ耳を澄ませている顔だった。
「……ここで休んでいます」
「分かるのか」
アシュが問うと、フィアナは小さく頷く。
「長くじゃありません。何日も暮らした場所ではないです。でも……何度か戻ってきています」
ガルドが鼻を鳴らした。
「水場との往復か」
「たぶん」
ノアも同意した。
「山道へ出る前の息継ぎ場所だな」
アシュは隠れ場の中を見た。
奥に古い布が一枚。
石の窪みに、乾いた草を詰めて作った簡単な敷き。
それだけだ。
だが、その少なさが逆に生々しかった。
ここは住む場所じゃない。
止まって、息を整えて、また動くためだけの場所だ。
ルゥが低く鼻を鳴らし、隠れ場の奥へ顔を突っ込んだ。
次いで、小さな金属音。
「何かあるな」
ガルドがしゃがみ込み、敷き草をそっとどける。
出てきたのは、細い針だった。
縫い針。
それも、ただの衣縫いじゃなく、厚い布を何度も直した先のように先端が少し曲がっている。
フィアナが息を呑む。
「縫ってたんですね」
「そうみたいだな」
アシュが言いながらも、その針を見下ろす目は少しだけ細かった。
番号をつけられていた候補。
白い施設を抜けた後、自分の布を縫い直して、隠れ場を作って、また先へ進んでいた。
その事実が、妙に重い。
ノアは岩棚の壁を見ていた。
自然の岩肌だと思っていたそこに、細い線がいくつか刻まれている。
数を数えた跡かと思ったが、違った。
「……印だな」
「何て書いてある」
ガルドが問う。
ノアは少しだけ目を細めた。
「字というほど整ってないな。だが同じ形が三度ある。方角の記号だ」
「どっちだ」
「東。あと……下か」
フィアナが隠れ場の外へ目を向ける。
今いる山道は、東へ行くには緩やかすぎる。
だが山裾の先、さらに低い谷へ落ちる道がどこかにあるなら、その印は意味を持つ。
ガルドが周囲を見回した。
「下に落ちる道なんざ、ぱっと見じゃ見えねえぞ」
「だから印を残したんでしょう」
ノアは岩壁から手を離した。
「見落とすと先へ行けない」
アシュは隠れ場の外へ出た。
岩棚の陰から先を見渡すと、たしかに山裾の道はこのまま東へ続いている。
だが数歩先で、不自然に草が濃い場所があった。
道が消えているように見える。
しかしよく見れば、その草の下だけ地面の沈み方が違う。
「……ここか」
足先で草を払う。
下へ降りる細い踏み跡が現れた。
獣道にしか見えない。
だが、さっきまでの道と同じで、知っている人間にだけ分かる残し方をしている。
「やっぱり先があるな」
ガルドが言う。
「しかも隠してやがる」
フィアナはもう一度だけ隠れ場を振り返った。
そこは狭くて、寒くて、ひどく心細い場所にしか見えない。
それでも誰かはそこで針を使い、布を直し、息を整え、また先へ行った。
「……強い人ですね」
小さく呟く。
アシュは横目で彼女を見た。
「何だ、急に」
「いえ……」
フィアナは少しだけ首を振る。
「怖かったはずなのに、ちゃんと次のために残していったんだと思って」
ガルドが鼻を鳴らした。
「強いってより、止まったら終わるって知ってたんだろ」
「それでも、です」
フィアナの声は静かだった。
「止まらないって、簡単じゃありません」
その言葉に、今度は誰もすぐには返さなかった。
アシュは針を拾い、手のひらの上で転がした。
小さい。
役に立つものとして見れば、本当にそれだけのものだ。
けれど、誰にも知られず生き延びた時間の重さは、こういうものの方に残る。
「持っていくか」
フィアナが小さく訊く。
アシュは一拍だけ考え、それから頷いた。
「置いといて踏まれるよりはましだ」
フィアナは少しだけ表情を和らげた。
「はい」
針は小さな布へ包まれ、荷の中へしまわれる。
それを見て、ガルドが肩をすくめた。
「だいぶ拾うもん増えてきたな」
「文句あるか」
アシュが返す。
「別に。ただ、そのうち荷の方が重くならねえかって話だ」
「じゃあお前が持て」
「何で俺なんだよ」
「言い出したからだろ」
ガルドが露骨に嫌そうな顔をした横で、ノアが小さく鼻を鳴らした。
「持てるだろ」
「お前まで言うな」
ルゥがそのやり取りに合わせるみたいに一度だけ鳴く。
フィアナが思わず笑い、アシュもそれを見て何も言わなかった。
緩んだのはほんの少しだった。
でも、その少しがあるだけで、白い施設から持ち越した冷たさが少しだけ薄まる。
アシュは東と下を示す印をもう一度だけ見た。
白い施設の中にいた誰かがここまで来て、次のために記したものだ。
なら、それを無視する理由はない。
「行くぞ」
短く言う。
ガルドが前へ出る。
ノアが草を払い、下へ落ちる細道を確かめる。
フィアナは荷を背負い直し、ルゥがその横へつく。
アシュは最後にもう一度だけ隠れ場を振り返った。
記録には残らない場所。
でも、確かに誰かが生きていた場所。
それを胸の奥へ押し込み、一行は草の下に隠された細道を下り始めた。
東へ。
さらに下へ。
イリスが進んだ、その続きへ。
第42話でした。
記録ではなく、
実際に生き延びた跡を拾う回になりました。
ここから先は、
イリスがどこへ向かったのかが、もう少し具体的に見えてきます。
少しでも続きが気になったら、
ブックマークや評価、感想などいただけると嬉しいです。
次話もよろしくお願いします。




