第41話 短い火
火は長く焚けなくても、
その短い明かりだけで、
少しだけ人は人に戻れる。
山裾を東へ折れてから、空気が少し変わった。
冷たさは相変わらずだが、風の匂いにわずかに湿り気が混じっている。
土の下を水が走っている時の匂いだと、アシュにも分かった。
先を行くガルドが一度だけ立ち止まり、周囲を見回す。
「近いな」
「湧き場か」
アシュが問うと、ガルドは短く頷いた。
「水がある場所は魔物も寄るが、人も痕を残しやすい」
ノアが横から言う。
「つまり、追うには都合がいい」
「追われる側もな」
ガルドが返した。
その言葉にフィアナは少しだけ眉を下げたが、口には出さなかった。
代わりに足元を見ながら、白い布切れを仕舞った荷の位置をそっと確かめている。
ルゥは先へ出たり戻ったりを繰り返しながら、妙に機嫌よく尻尾を揺らしていた。
水の気配を嗅いでいるのだろう。
「お前だけ楽しそうだな」
アシュがぼそりと言うと、ルゥは一度だけ振り返って小さく鳴いた。
「そうですね」
フィアナが少し笑う。
「さっきから、ちょっとだけ足取りが軽いです」
「おれらより先に湧き場見つけたら褒めてやれ」
ガルドが言う。
「褒めたら調子に乗らねえか、こいつ」
「もう乗ってるだろ」
アシュが返す。
ルゥはその会話が自分のことだと分かっているのかいないのか、また一歩前へ出て、低木の間へするりと消えた。
その先で、すぐに水音が聞こえた。
細い。
だが確かな音だった。
山肌の裂け目から湧いた水が、石を伝って小さな流れになっている。
沢というほど大きくはない。
けれど手を洗い、水袋を満たし、一晩身を寄せるには十分だった。
しかも、少し奥まっている。
外からは見えにくい。
「……悪くねえな」
ガルドが低く言う。
「長居はしねえが、一旦休むまらここだ」
アシュは周囲を見た。
湧き場のそばには、崩れた石積みの名残があった。
昔、誰かが簡単な水場の囲いを作っていたらしい。
今は半分以上崩れているが、風除けにはなる。
ノアが水の流れの脇へしゃがみ込み、石の上を指でなぞった。
「ここも使ってるな」
ガルドが即座に覗き込む。
「新しいか」
「新しすぎはしない。だが古くもない」
ノアは短く答える。
「水袋か容器を置いた跡だ。二つ……いや、一つを何度か同じ場所に置いてる」
フィアナが小さく息を吸う。
「やっぱり、ここにも来ていたんですね」
「たぶんな」
ガルドが立ち上がり、周囲へ視線を走らせる。
「少なくとも、誰かがこの水場を使ってた。しかも道を知ってる」
アシュは水袋を下ろし、岩へ腰を預けた。
肩が重い。
脇腹も、歩いている間は誤魔化せても、止まると鈍く存在を主張してくる。
フィアナはそれを見逃さなかった。
「座っててください」
「もう座ってる」
「そういう意味ではありません」
荷から布と小瓶を出しながら、フィアナはいつもの調子で返す。
「傷、見ます」
「大丈夫だ」
「大丈夫なようには見えませんよ」
「問題ない」
「あります」
即答だった。
ガルドが鼻を鳴らす。
「もう諦めろよ」
「お前は黙ってろ」
フィアナがアシュの肩口の布をそっとずらす。
赤黒く固まった縁がまだ残っている。
深くはない。
だが、塞がるには時間が要る傷だ。
「痛みますか」
「聞く意味あるのか」
「あります」
フィアナは手を止めずに言う。
「痛いのに黙っているのと、痛くないのは違います」
アシュは少しだけ黙った。
「……痛えよ」
「はい」
「なんだよ、はいって」
「知りたかっただけです」
その返しに、アシュはわずかに眉を寄せる。
だが払いのけはしない。
フィアナの手つきは丁寧だった。
手当てをする時だけは、迷いが薄い。
白い加護は使わない。
ここで無理に使えばまた消耗する。
だから布を湿らせ、傷の周りを静かに拭い、新しい布を巻き直すだけに留める。
それでも、不思議と少し呼吸がしやすくなる。
ガルドはその間に、自分の肩口をざっと洗っていた。
乱暴だが無駄のないやり方だ。
「お前も見てもらえ」
アシュが言うと、ガルドは顔をしかめた。
「俺はいい」
「血の滲み方がよくねえぞ」
「……見えてんのかよ」
「見たくなくても見える」
その会話を聞いていたフィアナが、アシュの傷を結び終えながらそちらを見た。
「ガルドさんも」
「いや、だから」
「見ます」
今度は少しだけ強かった。
ガルドは露骨に嫌そうな顔をしたが、結局は逃げなかった。
「……お前、最近ちょっと押し強くなってねえか」
「みなさんちゃんと言わないと聞かないので」
フィアナの返しに、ノアが小さく鼻を鳴らす。
「それは間違いないな」
「お前まで乗るな」
ガルドがぼやく。
そのやり取りの間、ルゥは水辺に座り、前脚を濡らしては振り、また濡らしていた。
見張っているのか遊んでいるのか微妙なところだ。
「ルゥ」
フィアナが呼ぶと、ルゥはすぐ振り返る。
「濡れすぎると冷えますよ」
その声に、ルゥは一度だけ首を傾げ、それから素直に水辺を離れた。
アシュはそれを見て、思わず言う。
「お前には従うんだな」
「アシュさんにも従ってます」
「そうか?」
「たぶん」
フィアナが小さく笑う。
ガルドの肩の布を結び終えた頃には、空の色が少しだけ暮れ側へ傾き始めていた。
長く留まるつもりはない。
だが今すぐ動くよりは、この短い休息の方が価値があると全員が分かっていた。
ノアがようやく湧き場の奥から戻る。
「この先、二手に分かれてるな」
アシュが顔を上げる。
「どっちだ」
「北へ巻く細道と、東へ下りる獣道」
ガルドが眉をひそめる。
「獣道に見せてるだけかもしれねえな」
「俺もそう思う」
ノアは頷く。
「東へ下る方は、人が通る前提で石が寄せてある。ただ雑に隠してる」
フィアナが小さく言う。
「東、ですね」
「そうだな」
アシュも頷いた。
「ここまで来て、北へ戻る理由はねえ」
ノアは少しだけ目を伏せ、それから言った。
「もう一つ」
「何だ」
「水場の上流に、古い焚火跡がある」
ガルドが顔を上げる。
「新しいか」
「新しくはない。だが、完全に死んでもいない」
「ややこしい言い方しやがるな」
「石の置き方が新しい。灰は古い」
ノアは短く説明した。
「誰かが、昔の焚火跡を崩れないように組み直してる。火を起こすためじゃなく、次に使えるように」
その言葉に、フィアナの表情が静かに変わる。
「……待っていたんでしょうか」
「待つってより、戻るつもりだったんだろ」
ガルドが言う。
「一度きりの逃走じゃなく、行き来してたならな」
アシュは水面を見る。
白い施設を抜けて、それで終わりではなかった。
外へ出てからも、誰かはこの山裾を使い、水を汲み、火の跡を直し、また先へ進んでいた。
逃げ切るためだけの動きではない。
生き延びるための動きだ。
「近いな」
ぼそりと漏らすと、フィアナがそちらを見る。
「はい」
小さく頷く。
「もう、そんな気がします」
アシュは立ち上がった。
休息は終わりだ。
短い。
だが必要な時間だった。
水袋を締め、剣を確かめ、荷を背負い直す。
フィアナも立ち上がり、ガルドは弓を、ノアは荷の紐を確認する。
ルゥだけが、最初から準備が終わっていたみたいな顔で立っていた。
「お前、いつも準備万端だな」
アシュが言うと、ルゥは小さく鳴いた。
「たぶん褒められたと思ってますね」
フィアナが言う。
「しっかり褒めてんぞ」
「そうですね」
アシュは鼻で笑い、それ以上は言わずに東を向いた。
水の気配
小屋の痕
布切れ
包帯
焚火跡
そして、先へ続く隠された道
白い施設の中で止まらなかった足取りが、山の中でもまだ途切れていない。
「行くぞ」
短く言う。
誰も異論は挟まない。
湧き場を背にして、一行は東へ下る細道へ入った。
イリスが、自分で選んで進んだ、その続きへ。
第41話でした。
少しだけ息をつける回でしたが、
休んだ先にも、ちゃんとイリスが進んだ痕跡が残っていました。
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