第40話 東へ抜ける痕跡
逃げた足跡は、
怯えたままの足跡とは、
少しだけ形が違う。
東の山裾へ入ると、道はさらに見えにくくなった。
山道というほど整っていない。
獣道というには、人の足が通った形が残りすぎている。
昔は炭焼きか見張りのために使われていたのかもしれない。今は草に呑まれ、石の並びだけが辛うじて線を作っていた。
先を行くガルドが、低木を払いながら進む。
「こっちは人が通るには細いが、逆にそれがいい」
「何がだ」
アシュが問う。
「追う側の人数が多いと、ばらける」
ガルドは振り返りもせず言う。
「一人二人ならまだしも、まとまって来るならこの幅は鬱陶しい。しかも足場が均一じゃねえ」
ノアが壁際の岩を見渡す。
「意図して残した道かもしれないな」
「誰がだ」
「逃げる側が、だ」
その言い方に、アシュの目が細くなる。
ノアは淡々と続けた。
「白い施設の裏から出て、そのまま自然地形へ消えるには都合が良すぎる。誰かが一度通って、通れる形を残している」
フィアナが小さく息を吸う。
「イリスさん、でしょうか」
「さあな」
ノアは短く答えた。
「誰かに案内された可能性もあるが、少なくとも偶然見つけた抜け道ではない」
アシュは足元を見る。
道そのものは荒れている。
だが、ところどころだけ不自然に石が寄せられていた。
滑りやすい箇所を避けるためか、落ちやすい土を踏み固めるためか。
「……知ってるやつの仕事だな」
「ああ」
ガルドが鼻を鳴らす。
「追われながらでも、ただ走ってたわけじゃねえ」
フィアナはその言葉を聞いて、少しだけ前を向いたまま頷いた。
「やっぱり……進んでたんですね」
アシュは返事をしなかった。
だが否定もしない。
逃げた、という言葉は間違っていない。
それでも、今拾っている痕跡はもっと能動的だった。
追われた者の足跡ではある。けれど同時に、自分で先を選んだ者の足跡でもある。
山の裾の空気は冷たい。
白い施設の中のような息苦しさはないが、朝の湿り気がまだ草葉に残っている。
そこを抜けるたび、裾や靴に細かな水が触れた。
ルゥは先へ出たり戻ったりを繰り返している。
足場の悪い場所では一度止まり、後ろを見てから跳ぶ。急かしているというより、確認しているような動きだった。
「最近あいつ、案内役づらしてねえか」
ガルドが言う。
「今ごろ気づいたのか」
アシュが返す。
「気づいてたが、認めたくなかった」
「無駄な意地だな」
「うるせえ」
フィアナがそのやり取りに小さく笑う。
白い施設を出てから二度目の、ようやく人の息に近い笑いだった。
しばらく進んだところで、道が一度だけ沢を跨いだ。
橋はない。
だが大きな石が連続して置かれている。自然に転がったには出来すぎた並びだ。
ガルドがしゃがみ込む。
「ここだな」
「何がだ」
「手ぇ入ってる場所だよ。しかも古すぎない」
アシュも石の縁を見る。
泥の溜まり方が不自然に浅い。
何度か人が踏んで、余計な土だけが落ちた跡だ。
ノアが言った。
「一人分の通り方だな」
「それも何回か、だな」
ガルドが続ける。
「一回だけなら、こんなふうにはならねえ」
フィアナが沢の向こうを見た。
「何度も……?」
「迷ったやつの足じゃない」
アシュが言う。
「行き来した跡だ」
その言葉に、フィアナの表情が少し変わる。
「ということは」
「まだ先に、身を寄せる場所があった可能性がある」
ノアが答えた。
「白い施設からここまで抜けて、さらに東へ行く。その往復だと考えれば筋は通る」
ガルドが石を踏んで沢を渡る。
「だが、表道じゃねえ。逃げる先を分かってるやつの動きだ」
全員が順に沢を越える。
最後にアシュが渡った時、ルゥが向こう岸で小さく鳴いた。
促す声ではなく、見つけたという声に近い。
沢を越えた先の斜面に、古い石積みが埋もれていた。
壁、だったものだろう。
今は半分崩れ、草とツタに呑まれている。だが足元にはまだ踏み分けられた土が残っていた。
「建物の跡か」
アシュが低く言う。
「見張り小屋か、炭焼き小屋か……」
ガルドが辺りを見る。
「今は使ってねえ。だが、使えなくもない」
中は狭かった。
屋根は半分落ちている。
壁も三面しか残っていない。
それでも風は多少しのげるし、外からは見えにくい。
そして何より、ここには人の手が入っていた。
古い灰が石に寄せてまとめられている。
新しく火を焚いた形ではない。
だが、一度散った焚火跡を、誰かが崩れないよう整え直したような残り方だった。
フィアナがしゃがみ込む。
「ここ、誰かが使ってます」
「使ってた、だな」
ガルドが言う。
「今はいねえ。匂いも薄い」
ノアは壁際へ目を向けていた。
倒れた棚の下に、何か白いものが挟まっている。
引き抜くと、それは布ではなく細い包帯の切れ端だった。
洗い直して何度も使ったみたいに擦り切れている。
アシュの目が少しだけ鋭くなる。
「怪我してたのは確かだな」
「ええ」
フィアナもそれを見て頷いた。
「でも、手当てはしてます。誰かに手当てされたというより……自分で」
「分かるのか」
「なんとなく、です。でも」
フィアナは包帯を見つめたまま言う。
「置き方が、誰かに看病されてる感じじゃないんです」
ノアが小さく鼻を鳴らす。
「一人で生き延びてきた人間の痕跡ってことか」
その言い方に、フィアナは静かに頷いた。
ガルドは崩れた壁の外を見張りながら言う。
「長居はしたくねえが、確認できるものは見とくぞ。こういうとこに方向を残すやつもいる」
アシュは小屋の奥へ目を向けた。
残った壁の一面に、刃物で浅く削ったような線がいくつか入っている。
意味のない傷にも見える。
だが、並び方に癖があった。
「……これ、文字か」
フィアナが近づく。
「全部じゃないです。でも、たぶん印です」
「読めるか」
フィアナは指でなぞらず、目だけで追った。
「“東”と……あと、“水”……その下は潰れてます」
ノアが横から覗き込む。
「水場を経由して東へ、か」
ガルドが顔をしかめる。
「山の裾の先に湧き場があったな。古い巡回路の名残もある」
「そこへ向かったってことか」
アシュが問う。
「たぶんな」
ガルドは頷く。
「生き延びるなら水は要る。追手を撒くにも、谷筋に寄るのは悪くねえ」
フィアナが壁の傷を見つめたまま、小さく言う。
「急いでいても、残そうとしたんですね」
「自分のためか、後から来る誰かのためかは分からねえがな」
アシュが返す。
だが、そのどちらでも筋は通る気がした。
イリスは施設を抜け、ただ必死に消えただけじゃない。
自分が通った先を、かすかにでも残そうとしている。
それは助けを待つやり方じゃない。自分で選んで進んだ者のやり方だった。
その時、ルゥが小屋の外でぴたりと動きを止めた。
全員の空気がわずかに変わる。
ガルドが即座に弓へ手をかける。
アシュも音を殺して外へ出た。
だが、いたのは人ではない。
小屋の少し下、沢へ落ちる斜面の陰から、痩せた獣が二頭こちらを窺っていた。
毛並みは茶黒く、背だけが異様に盛り上がっている。
「……グラッジボアか」
ガルドが舌打ちする。
「こんな細いとこにも来るのかよ」
「腹が減ってりゃ来るだろ」
アシュが短く返した。
猪型の魔物だ。
大きさは人より少し大きい程度だが、突進力が厄介なやつだ。
ルゥが低く唸る。
フィアナは包帯を荷へしまい、すぐに両手を重ねた。
ノアは小屋の入口の石をひとつ蹴り、足場の悪い位置へ転がしておく。
「左を回る」
ガルドが言う。
「一頭目を受けたら二頭目が来る」
「分かってる」
アシュが前へ出た。
最初の一頭が土を蹴る。
まっすぐではない。
少し膨らんでから横へ入る。
獣らしい嫌らしさだ。
アシュは引きつけ、最後に一歩だけ内へずれる。
牙が脇腹を掠める寸前で剣を落とし、首筋へ深く刃を入れた。
血が散る。
だが二頭目は止まらない。
ガルドの矢が肩へ刺さる。
それでも突っ込む。
そこへノアの細い術式が地面へ走り、足元の石を一瞬だけ浮かせた。
獣の重心がぶれる。
フィアナの白い光がその鼻先をわずかに逸らす。
ルゥが横からぶつかり、アシュが返す刃で喉を断った。
短い戦闘だった。
静けさが戻ると、ガルドが肩で息を吐いた。
「……やっぱり山は山だな」
「油断したら串刺しだ」
ノアが言う。
「縁起でもねえ」
その横で、フィアナがルゥの頭を撫でる。
「ありがとうございます」
ルゥは小さく鳴き、当たり前みたいな顔で毛を逆立てるのをやめた。
アシュは剣の血を拭いながら、小屋の壁の傷をもう一度見た。
東。
水。
次へ行くには十分な手がかりだった。
「動くぞ」
短く言う。
ガルドが頷く。
「湧き場を通る。その先に本当にまだ道が残ってるなら、イリスの隠れ先も近い」
フィアナは小屋を一度だけ振り返った。
白い施設を抜けた誰かが、ここで呼吸を整えた。
怪我をして、それでも止まらず、先へ行くために印を残した。
それだけで、もうただの痕跡じゃなかった。
アシュたちは小屋を離れ、さらに東へ向かった。
白い施設の中では終わらなかった道が、ようやく少しだけ生きたものとして見え始めていた。
第40話でした。
白い施設を抜けた先で、
イリスが“先を知って進んでいた”痕跡が少しずつ見えてきました。
ここから先は、
その足取りをもっと具体的に追っていきます。
少しでも続きが気になったら、
ブックマークや評価、感想などいただけると嬉しいです。
次話もよろしくお願いします。




