第37話 祈祷室
祈るための部屋と、
祈らせるための部屋は、
似ているようで少し違う。
石段は長くなかった。
だが短いわりに、下りきるまでの空気がひどく重かった。
白い施設の上層にあった乾いた冷たさとは違う。
もっと湿っていて、息を吸うたびに喉の奥が張るような冷たさだった。
先頭を行くアシュは、最後の段を下りたところで足を止めた。
下層は広かった。
いや、広く見えるように作られていた。
半円形の部屋。
高くはない天井。
正面には白い台座がひとつあり、その左右に細い柱が並んでいる。
壁際には細い溝が巡り、床にも同じような線が浅く刻まれていた。
礼拝堂に見えなくもない。
だが、祈りのための部屋としては整いすぎている。
「……祈祷室、か」
ノアが低く呟いた。
ガルドが顔をしかめる。
「趣味の悪い部屋だな」
「そうだな」
ノアは白い台座を見つめたまま言う。
「祈りを捧げる場所じゃなく、祈らせて反応を見る場所だ」
フィアナの呼吸がわずかに乱れる。
白環が、今度は隠しようもなく灯っていた。
「ここ……ずっと、見られていました」
細い声だった。
「待つ部屋じゃない。選ぶ前の部屋でもないです。ここは……決める部屋です」
アシュは白い台座へ近づいた。
正面から見ると、それは祭壇ではなかった。
人が跪く位置だけが不自然に削れている。
台座の表面には丸い窪みがあり、ちょうど胸の高さで手を置くためのくぼみまで刻まれていた。
「測ってたのか」
「白環か、加護か、あるいは器の適性か」
ノアが答える。
「何にせよ、人の祈りを見るための形じゃない。反応を引き出して記録するための形だ」
ガルドが吐き捨てる。
「クソみてえだな」
ルゥが低く唸り、部屋の左側へ歩く。
白い壁の一角だけ、上塗りが剥げていた。
その下に、浅い文字の傷がある。
フィアナが近づき、息を呑む。
「……あります」
アシュもそちらへ寄る。
全部は読めない。
だが、壁に刻まれた文字の一部は消しきれていなかった。
イリ
そこまでだった。
あとは刃物で削られ、白を塗り重ねられている。
それでも、もう十分だった。
「名前か」
ガルドが言う。
「たぶん」
フィアナは壁に触れそうになって、寸前で手を止めた。
「ここにいたんです。この人……ここで、自分の名前を残そうとした」
ノアが部屋を見回す。
「番号で管理されていたなら、なおさらだな」
アシュの目が少し冷える。
白い腕札
記録の第五候補
移送
再判定
そして、名前を消された壁
全部が、一人の人間を人として残さないためのやり方に見えた。
フィアナは壁を見つめたまま、小さく言う。
「消される前に、残したかったんだと思います」
「何をだ」
「自分が、自分だったことを」
誰もすぐには返さなかった。
その沈黙を破ったのはノアだった。
「アシュ」
「何だ」
「台座の裏を見てみろ」
白い台座の背面に、薄い引き出しがあった。
正面からは見えない位置だ。
アシュがしゃがみ込み、指をかける。
固い。
だが、鍵はかかっていない。
引き出しの中には、薄い板札が数枚と、小さな結晶片がひとつ入っていた。
結晶は乳白色で、欠けている。
手に取ると、冷たいというより、じっとりと張りつくような嫌な冷え方がした。
ノアがすぐに眉を寄せる。
「……反応記録石だ」
「何に使う」
「祈祷室で引き出した加護や白環の揺れを、一時的に写す」
ガルドが露骨に嫌そうな顔をする。
「人でやることかよ」
「人にやるから残るんだろう」
ノアは短く返した。
板札の方は、ほとんど文字が死んでいた。
だが、一枚だけ辛うじて読めるものがある。
ノアがそれを拾い上げる。
「……第五候補……祈室適性……反応高」
そこで言葉が止まる。
アシュが目を向ける。
「続きは」
「削られてる」
ノアは板札を裏返した。
裏面にも薄い字が残っている。
「器移行保留……その下は、もう無理だ」
フィアナの顔色が変わる。
「器移行……」
それが何を意味するか、全員が分かってしまった。
ただ候補として見られていただけじゃない。
その先へ進めるかどうかを、ここで測られていたのだ。
フィアナが、白い台座の前に立つ。
「やめとけ」
アシュがすぐ言う。
「でも……」
「分かる。だから余計にだ」
フィアナは俯かなかった。
白環が灯っている。
ここに残ったものを拾えるのは、たぶん彼女だけだ。
「少しだけです」
声は細い。
それでも、逃げたいだけの声じゃない。
「ここで何が決められていたのか、たぶん今なら……」
アシュは舌打ちしそうになり、やめた。
止めても、もう意味がないと分かる時がある。
「気をつけろ」
「はい」
フィアナが台座の窪みに手を置く。
次の瞬間、白い光が走った。
床に刻まれた細い線が、ひとつずつ浮かび上がる。
壁際の溝が淡く灯り、半円形の部屋全体が、長い眠りから一瞬だけ目を覚ましたみたいに軋んだ。
フィアナの身体が強張る。
アシュはすぐ後ろへ回り、肩へ手を添えた。
「大丈夫か」
「……まだ」
息が浅い。
だが目は閉じていない。
光の中に、像が滲む。
白い部屋
細い背中
壁に寄る少女
顔までは見えない
ただ、白い台座の前へ立たされるところだけがはっきり見えた。
誰かの声がする。
低く、感情の薄い声。
――第五候補
――白環反応、再測定
――器移行、保留
フィアナが小さく息を止めた。
「……あの人」
少女の肩が、ほんの少しだけ震える。
だが逃げない。
逃げられなかったのか、逃げなかったのかは分からない。
それでも、台座の前で膝を折りそうになりながら、顔だけは上げている。
次の瞬間、像がぶれる。
今度は別の場面だ。
夜
同じ部屋
人の気配が少ない
少女が壁に何かを刻んでいる
名前だ。
急いでいる。
焦りながら、それでも手を止めない。
イリ
そこまで刻いたところで、外から足音が近づく。
少女は振り返る。
そして、その場面はそこで途切れた。
フィアナが膝を折る。
アシュがすぐ支えた。
「もういい」
「……いいえ」
細い息で、それでもフィアナは首を振った。
「まだ、少しだけ……」
白環の光がもう一度だけ脈打つ。
今度に見えたのは、祈祷室ではなかった。
狭い裏通路
薄暗い搬送路
誰もいない夜
少女――イリスと思しき影が、一度だけ立ち止まる
その手に何かを握っている。
細い金属片
鍵か、留め具か
はっきりは見えない
だが、その先へ進む前に、彼女は一度だけ振り返った。
助けを待つ顔じゃなかった。
怖がっている。
それでも、自分で行くと決めた顔だった。
光が落ちる。
祈祷室の線がひとつずつ沈黙し、部屋は再び冷たい白へ戻った。
フィアナの呼吸だけが荒い。
「……見えました」
かすれた声で言う。
「逃げたんじゃありません。ここで決められる前に、自分で先へ行ったんです」
ノアが低く息を吐く。
「拒んだ、か」
「はい」
フィアナは頷く。
「ここで選ばれる方じゃなくて、自分で進む方を」
アシュは何も言わなかった。
その時だった。
部屋の入口の向こうで、足音が止まる。
今までで一番近い。
白い廊下の先、扉一枚向こう。
「……見たんですね」
ルークの声だった。
彼ももう、祈祷室の光を見ていたのだろう。
ガルドが弓を握り直す。
「ほんとにしつけえな」
「下がってください」
ルークの返しは静かだった。
「ここから先は、これ以上踏み入っていい場所じゃない」
「うるせえ」
ガルドが吐き捨てる。
アシュはフィアナを支えたまま、扉の方へ視線を向ける。
「お前はこの施設がなにをしてきたか知っていたのか」
沈黙。
ルークはすぐには返さなかった。
その代わり、扉の向こうで短く息を吐く気配がある。
「……知りません」
ようやく返ってきた声は、乾いていた。
「ですが、あなたたちをこのまま進ませるわけにもいかない」
ルークの声色は普段より固く思えた。
見たのだ。
白い部屋も。
候補の扱いも。
祈祷室で何を測っていたのかも。
それでも、なお止めるというなら。
もう、次は戦いになる。
ノアが祈祷室の奥の壁へ手をやる。
「アシュ」
「何だ」
「ここ、まだ先がある」
アシュの目が細くなる。
祈室の背面。
白い壁の一部だけ、継ぎ目が深い。
「下か」
「いや、もっと奥だ。祈祷室の裏部屋に近い」
ガルドが短く言う。
「行くなら今だな」
「分かってる」
フィアナはまだ息を整えきれていない。
それでも、アシュの腕から身体を離し、自分で立った。
「行けます」
「無理してんじゃねえよ」
「しています」
即答だった。
「でも、今は行かないと駄目です」
その返しに、アシュはほんの一瞬だけ黙る。
それで十分だった。
「……ルーク」
扉の向こうへ向けて、アシュが低く言う。
「次は止める気で来い」
廊下の向こうで、金属音が鳴る。
剣だ。
ルークが、今度こそ抜いたのだろう。
「最初から、そのつもりです」
ルークの声が返る。
けれど、その声の底には、前よりはっきりした覚悟があった。
アシュは祈祷室の奥の方を向く。
ノアが継ぎ目へ術式線を流し込み、白い壁がゆっくりとずれる。
その向こうから、さらに冷たい空気が流れてくる。
祈祷室の裏。
イリスが選ばれず、自分で進んだ先。
そしてルークが、もう見過ごせないまま追ってくる場所。
アシュは剣を握り直した。
「行くぞ」
短く言う。
ルゥが先に踏み出し、フィアナ、ノア、ガルドが続く。
扉の向こうでは、ルークの気配がもう動いていた。
次は避けられない。
その確信だけを残して、一行は祈祷室の裏へ消えていった。
第37話でした。
今回は祈室で、
第五候補と呼ばれていたイリスが、ここで何を測られ、何を拒んだのかに少し触れる回でした。
ルークももう見てしまったので、
次はいよいよ、避けられない衝突に入っていきます。
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