第36話 東棟の記録
名前を消した場所ほど、
残った一文字の重さが、
あとでいちばん効いてくる。
東棟の空気は、それまでの白い部屋よりさらに冷たかった。
冷たいのに、風はない。
閉じた箱の中で、当時の空気だけが残っていたみたいな冷え方だった。
廊下は狭い。
だが本棟より少しだけ整っている。
白い壁。
低い天井。
等間隔の扉。
違うのは、ここには整えられた痕が多すぎることだった。
床の石は入れ替えられた箇所が多く、壁の白も新しい層と古い層がまだらに重なっている。
「こっちの方が後から手を入れられてるな」
ガルドが低く言う。
「隠したいものが多かったんでしょう」
ノアは壁際の棚を見ながら答えた。
「候補を見るための場所じゃない。扱いを決めた後の場所だ」
フィアナの顔色がわずかに変わる。
「決めた、後……」
アシュは歩を緩めなかった。
立ち止まれば、後ろとの差が縮む。
ルークたちはもう施設の中に入っている。
足音は聞こえない位置だが、消えてはいない。
それでも不思議と、すぐ背中を斬られる気配ではなかった。
追ってきている。
止める気もある。
だが、無理に踏み込んでこの施設の中を壊すことも避けている。
それが余計に厄介だった。
東棟の最初の部屋は、書庫に近かった。
棚が三列。
紙ではなく、薄い木板と陶片が収められていた跡がある。
だが、肝心の中身はほとんど抜かれていた。
「遅かったか」
アシュが吐き捨てる。
「もともと、ここを空にしてから封じたんだろうな」
ノアが棚の奥へ指を入れる。
「運ばれた記録と、置いていった記録がある」
「分かるのか」
「埃の溜まり方だ」
短く答えたあと、ノアは棚板の裏に貼りついた木片を剥がした。
小さい。
だが文字はまだ読めた。
「……東棟、移送前観察」
ガルドが顔をしかめる。
「やっぱりそういう場所かよ」
「観察室、処置室、経過記録。そんなところでしょう」
ノアは木片を布へしまった。
フィアナは部屋の中央で、何かを探すように視線を動かしている。
白環はかすかに灯っていた。
「ここには、あまり残っていません」
「どういう意味だ」
アシュが問う。
「記録の場所だけど、長く留まる場所じゃないです。移される前の確認だけをする部屋だった感じがします」
「なら次だな」
アシュはすぐ次の扉へ向かった。
二つ目の部屋は、書庫ではなかった。
中央に机がひとつ。
壁際には細い棚。
そして奥に、天井まで届く白い板戸がある。
部屋へ入った瞬間、ルゥが低く喉を鳴らした。
「何だ」
ガルドが弓を構える。
だが敵はいない。
代わりに、白い板戸の前だけ空気が違った。
冷たい。
しかも、静かすぎる。
「……ここ」
フィアナが一歩前へ出る。
「この奥です」
アシュは板戸に手をかける。
鍵はない。
だが重い。
ノアも無言で隣に付き、二人がかりで押すと、板戸は内側へずれた。
その奥は、小部屋だった。
いや、部屋というより保管庫に近い。
棚が左右に走り、正面の壁には小さな引き出しがいくつも並んでいる。
その大半は空だった。
けれど、最下段の一つだけが半ば開いたまま残っていた。
フィアナが息を呑む。
引き出しの中にあったのは、白い腕札だった。
細い帯に、番号札を通すための留め具がついている。
汚れと時間で白は灰色に濁っていたが、それでも候補者の管理具だと分かる作りだった。
その上に、折り畳まれた紙が一枚。
ノアが慎重に取り上げ、広げる。
「読めるか」
アシュが問う。
「……ぎりぎりだな」
ノアは薄い字を追った。
「“第五候補”……“東棟移送後、再判定保留”……下は潰れてる」
フィアナの指が小さく震える。
「再判定……」
「まだ決まってなかったってことか」
ガルドが言う。
ノアは頷かなかった。
その代わり、紙の端を指で払う。
「違うな。決めきれなかったんだろう」
アシュは紙へ目を落とす。
字は細く、機械みたいに整っている。
人を人として見て書いた文じゃない。
「何をだ」
「使える器か、切るべき失敗か」
ノアの声音は平坦だった。
だがその一言で、部屋の温度がまた一段下がった気がした。
フィアナは腕札を見つめたまま、ぽつりと言う。
「名前じゃなくて、最後まで“第五候補”なんですね」
アシュは返事をしなかった。
答える言葉がないわけじゃない。
ただ軽く返すには、目の前のものが嫌すぎた。
その時だった。
部屋の外の廊下で、足音が止まった。
今度は、はっきり近い。
アシュはすぐに部屋の入口へ視線を向ける。
ガルドが矢をつがえ、ノアは紙をたたみ、フィアナは腕札を持ったまま動きを止めた。
やがて、低い声がした。
「……そこにいるんでしょう」
ルークだった。
ガルドが小さく舌打ちする。
「来やがったな」
「静かにしろ」
アシュが返し、それから扉の外に向けて言う。
「来るのが遅えよ」
「遅らせていたのは、あなたでしょう」
返ってきた声は、静かだった。
「施設の中を壊されたくなかったので」
アシュの目が細くなる。
「お前もそういう気を遣うのか」
「目の前にあるのが何かは、さすがに分かります」
沈黙が落ちる。
ルークは扉の向こうへまだ入ってこない。
こちらもすぐには斬りかからない。
間にあるのは白い廊下と、いくつかの扉だけだ。
だが今はそれが妙に遠かった。
「見たんだろ」
アシュが言う。
「白い部屋も、寝台も、処置室も」
「見ました」
短い返答だった。
その二文字だけで、ルークが何も見なかったふりをできなくなっているのが分かる。
「それでも止めるのか」
アシュが問う。
今度の沈黙は少し長かった。
扉の向こうで、誰か別の兵が息を呑む気配がある。
だがルークはすぐには答えない。
やがて、低い声が返る。
「……止めなければならない立場です」
それは迷いのある声だった。
それでも、言葉だけは外さない。
「ですが」
そこで初めて、ルークの声にわずかな熱が混じる。
「ですが、ここまで来て、何も見なかったことにはできません」
ガルドが鼻を鳴らす。
「そりゃ結構」
「茶化すな」
アシュが短く言った。
ノアは小さな保管庫の中を見回していた。
やがて、引き出し列の最下段を指先でなぞる。
「アシュ」
「何だ」
「まだある」
アシュが目を向ける。
最下段の一番奥。
木の色が少しだけ違う。
隠し引き出しだ。
ルークの気配が向こうにいるまま、アシュは保管庫の奥へ一歩入り、木枠へ指をかける。
固い。
だがノアが横から薄い術式線を差し込むと、引き出しは小さな音を立てて浮いた。
中に入っていたのは、薄い封筒と、細い金属鍵だった。
フィアナが小さく息を呑む。
「鍵……」
「どこのだ」
ガルドが問う。
ノアが封筒を開く。
中には、手描きの簡略図が一枚だけ入っていた。
施設の見取り図だ。
だが、ここまで歩いてきた部分だけではない。
東棟のさらに先、下へ落ちるようにもう一本の線が引かれている。
線の先には、かすれた文字が二つだけ残っていた。
下層
祈祷室
アシュの眉が寄る。
「祈祷室?」
フィアナの表情が変わる。
白環が、今度ははっきり脈打った。
「……そこです」
かすれた声だった。
「イリスさんの感じが、そこへ続いています」
ルークの足音が、扉の向こうでわずかに動いた。
「何を見つけたんですか」
敬語のままの声だった。
アシュは振り返らない。
「お前に教える義理はねえ」
「なら止めます」
今度の返しは早かった。
だが怒鳴らない。
それでもそこにある決意だけは、前よりはっきりしていた。
ガルドが低く言う。
「どうする」
ノアは見取り図から目を離さない。
「下層へ行くなら今しかない。こいつらとここで長くやれば、こっちが先に潰れる」
フィアナは鍵を見つめていた。
その小さな金属片が、白い部屋の奥へ続く最後の線みたいに見えているのだろう。
アシュは短く息を吐く。
ルークを斬るか。
ここで押し通るか。
あるいは、まだ別の手があるのか。
扉の向こうから、またルークの声がした。
「アシュさん」
その呼び方に、部屋の空気がほんの少しだけ止まる。
追手としての声だった。
だが完全な敵の声でもなかった。
「……そこから先は、あなたが進んでいい場所じゃない」
敬語のままの忠告。
だがその中に、命令だけではない何かが混じっていた。
アシュはようやく扉の方へ顔を向ける。
「知るかよ」
吐き捨てるように言って、フィアナの手から鍵を受け取った。
「行くぞ」
短く告げる。
ノアが見取り図をたたみ、ガルドが入口へ半歩寄る。
ルゥはもう唸っている。
ルークはまだ踏み込んでこない。
アシュは保管庫の奥、白い棚の裏に隠されていたもう一つの継ぎ目へ鍵を差し込んだ。
乾いた音が鳴る。
白い壁の一部が、ゆっくりと内側へずれた。
そこに現れたのは、下へ続く細い石段だった。
冷たい空気が、底から這い上がってくる。
東棟のさらに下。
白い施設が、最後まで隠していた場所。
一行は下層へ消えていく。
白い廊下には、まだルークの気配が立ち尽くしたまま残っていた。
第36話でした。
今回は東棟の記録保管庫で、
“第五候補”に関する記録と、さらに下へ続く鍵を見つける展開にしました。
もし面白かったら、
ブックマーク
評価
感想
などいただけると嬉しいです。
次話もよろしくお願いします。




