第35話 追いついた剣
追いつくことと、
届くことは、
似ているようで少し違う。
横穴の先にあった白い光は、出口の光ではなかった。
石の通路が終わった先に広がっていたのは、低い天井の長い部屋だった。
左右へ細い寝台が並び、そのどれもが白い布で覆われている。
だが、その白は清潔な白じゃない。
何度も洗い、何度も塗り、何度も隠して、それでも下に何かが残っている白だった。
アシュは一歩目で顔をしかめる。
薬品の匂い。
湿気。
そして、長く閉じ込められていた場所にだけ残る、人の気配の名残。
「……まだあったのか」
後ろからガルドが吐き捨てた。
ノアが天井近くの細窓を見上げる。
「療養室じゃないな」
「見りゃ分かる」
アシュが低く返す。
寝台の幅はどれも狭い。
子どもか、痩せた女を寝かせることだけを考えたみたいな作りだった。
寝返りを打つ余裕もない。
フィアナは一番手前の寝台の前で立ち止まった。
白い布の端へそっと触れる。
その下に人はいない。
何も残っていない。
それでも、彼女の指先は少しだけ震えていた。
「ここ……」
声がかすれる。
「待たせるための部屋じゃありません。弱らせるための部屋です」
ガルドが顔をしかめる。
「どういう事だ」
「待つなら、まだ外を見られます。でもここは……外を忘れさせる感じがします」
ノアが一つの寝台の足元へ屈み込む。
床に鉄の輪があった。
半ば白で塗り潰されているが、隠し切れていない。
「固定具か」
「逃がさねえための」
ガルドが吐き捨てる。
アシュは部屋の奥を見た。
寝台は六つ。
その奥にさらに薄い仕切りがあり、向こう側にもう一室あるらしい。
壁際には細い棚。
瓶の跡。
布片。
そして、白で塗り潰された札の欠片。
どこを見ても、名前ではなく番号だけが残っていた。
ルゥが低く唸り、部屋の右奥へ歩く。
フィアナも引かれるようにその後を追った。
「ルゥ」
アシュが呼ぶが、止まらない。
右奥の寝台だけ、他より少しだけ壁から離れていた。
足元の白布が床へ垂れ、その下に何かが隠れている。
ルゥが鼻先で布を押し上げる。
そこにあったのは、小さな木箱だった。
古い。
だが雑に置かれたというより、見つからないよう寝台の下へ押し込まれたものに見えた。
「また箱か」
ガルドが嫌そうに言う。
「ああ、うんざりだ」
アシュが返し、そのまま木箱を引きずり出した。
鍵はない。
蓋も半分浮いている。
開けるのに苦労は要らなかった。
中には布と紙と、小さな金属片が入っていた。
上にあったのは、折り畳まれた薄い布。
白地に、淡い青の刺繍。
候補者の衣に近いが、子ども用にしては少し大きい。
その下の紙は、湿気で半ば癒着していた。
ノアが慎重に一枚だけ剥がす。
文字は薄い。
だが、残っているところだけでも十分だった。
「……“移送再開”」
アシュの目が細くなる。
「その下は」
「“第五候補”……“東棟経由”……その先は潰れてる」
フィアナの呼吸が止まる。
ノアは紙を持つ手を少しだけ下げた。
「第五候補は、ここで終わってない」
「……イリスさん」
フィアナが細く呟く。
箱の底には、もう一枚、薄い札が入っていた。
木ではなく、白い塗装を施された金属板。
表面の数字は擦れていたが、まだ読める。
五
アシュはそれを指先でつまみ上げた。
冷たい。
だが、冷たすぎる気もした。
この部屋の空気の方が、もっと冷えていたからかもしれない。
その時だった。
フィアナが小さく息を呑む。
「……見えます」
アシュが即座にそちらを見る。
フィアナの目は、部屋の奥の仕切りを向いていた。
白環がかすかに灯っている。
「何がだ」
「背中です」
声は震えている。
だが目は逸らしていない。
「ここを出て、奥へ行こうとしてます。急いでるわけじゃない。でも、止まってもいない」
ノアが仕切りの向こうへ目をやる。
「東棟か」
「たぶん」
フィアナが頷く。
「それと……誰かに見られてる感じがあります」
「誰にだ」
「分かりません。でも、助けるためじゃない目です」
ガルドが小さく舌打ちした。
「そりゃかなり胸糞悪いな」
アシュは仕切りへ近づき、白い布を払った。
向こう側はさらに狭い。
部屋というより、処置室に近かった。
中央に台がひとつ。
周囲に棚。
壁際に水桶の跡。
そして台の足元に、乾いて色の抜けた染みが残っている。
血だとは言い切れない。
だが、そう思わせるには十分な染みだった。
「ここで見てたのか」
ガルドが低く言う。
「選ぶ前に壊れるか、使えるか」
「あるいは、壊し方を決めてた」
ノアの声音は平坦だった。
だがその言葉の重さは軽くない。
フィアナは台の前で、ほんの少しだけ足を止めた。
「イリスさんは……ここでも、まだ諦めていません」
アシュが見る。
「分かるのか」
「はい」
フィアナは白い台を見つめたまま言う。
「怖かったはずです。でも、ここで終わるつもりではなかった感じが残っています」
ルゥが低く鳴き、台の奥に顔を向けた。
壁に小さな扉がある。
大人なら膝を折らないと通れないくらい低い扉だった。
「東棟へ繋がるのはあれか」
アシュが言った、その時。
部屋の外――白い廊下のずっと手前から、はっきりと足音が響いた。
今までより近い。
今までより迷いがない。
「来たな」
ガルドが弓を握り直す。
「今度はごまかしが効かねえぞ」
アシュは一歩だけ戻り、廊下の方へ意識を向けた。
足音は複数。
だが騒がしくない。
叫ばない。
焦ってもいない。
その静かさに、嫌な覚えがあった。
「……ルークか」
誰に聞かせるでもなく、アシュが低く呟く。
ノアが顔をしかめる。
「分かるのか」
「こういう詰め方をするやつを一人知ってる」
フィアナがかすかに息を呑む。
足音が止まった。
白い廊下の向こう。
角を一つ挟んだ位置で、気配だけがそこにある。
やがて、低い声がした。
「……アシュ・ヴァレン」
やはりルークだった。
抑えてはいる。
だが遠くからでも分かるくらい、喉の奥が硬い。
ガルドが低く吐き捨てる。
「クソっ」
「騒ぐな」
アシュは短く返す。
そして、白い廊下の先へ向けて言う。
「やっぱりお前だったか。ルーク」
沈黙が落ちる。
次に返ってきたのは、すぐの答えではなかった。
「……来るしかなかった」
ルークの声は、乾いていた。
アシュが言う。
「ここで斬り合ってる場合じゃねえ」
「その言葉を、あなたが言うんですか」
ルークの返しは低かった。
「今のあなたはなんなんですか。逃亡者か第七席か」
ガルドが顔をしかめる。
「面倒くせえな、お前ら」
ノアは黙ったまま、低い扉の構造を見ていた。
フィアナは息を潜め、ルゥを抱き寄せるようにしてその場に立っている。
アシュは白い廊下の向こうへ視線を向けたまま、短く言う。
「どっちでもねえ。ただ進む側の人間だ」
また沈黙が落ちた。
ルークが何を見て、何を考えたのかは分からない。
だが次の声は、さっきよりわずかに低かった。
「……そこに何があるんですか」
「お前が知ってどうする」
「あなたは一体なにがしたいんですか」
「お前には関係ねえよ」
その返しの直後、白い廊下の向こうで金属音が鳴った。
誰かが動いたのだ。
ルークではない。
後ろについている兵の一人か、あるいは同行している別の誰か。
アシュは剣の柄を握る。
ルークの声が鋭く落ちた。
「動くな」
部下へ向けた命令だと、すぐに分かった。
その一瞬で、場がまた変わる。
ルークは追ってきた。
こちらを止める気もある。
だが、ここをただの斬り合いの場所にしたいわけでもないらしい。
アシュは目を細めたまま言う。
「ルーク」
名を呼ぶと、向こうの気配がわずかに揺れた。
「お前も見たなら分かるだろ。ここは、今まで俺たちが追ってたものとは違う」
「……違わない」
返ってきた声は、迷い切れていない。
「違わない。だが、同じでもない」
その言い方だけで十分だった。
ルークも揺れている。
王国の命令と、目の前の白い施設と、アシュを追う理由の間で。
ガルドが小さく吐き捨てる。
「どうする」
アシュは低い扉を見る。
その向こうに東棟がある。
イリスの痕跡も、おそらくまだ先にある。
止まれない。
「進む」
短く言う。
「ルーク、お前が本気で止めるなら気があるなら来い。だが今は、お前もよく見ておけ」
その一言のあと、アシュは低い扉へ手をかけた。
ノアがすぐ横へ付き、封の残りを探る。
フィアナは白い布と紙片を抱え直し、ルゥがその前へ出る。
ルークの足音は、まだ動かない。
だが止まったままでも、そこで待つ圧は消えなかった。
扉が開く。
その向こうから流れてきた空気は、今までよりさらに冷たかった。
東棟だ。
白い施設のさらに奥。
イリスが進んだかもしれない先。
アシュは一度だけ廊下の向こうを振り返る。
ルークの姿はまだ見えない。
だが、そこにいることだけは分かる。
「……追えるなら追ってこい」
吐き捨てるように言って、アシュは東棟へ踏み込んだ。
その後を、フィアナ、ルゥ、ノア、ガルドが続く。
白い施設の奥は、まだ終わっていなかった。
第35話でした。
今回は、白い施設のさらに奥でイリスの痕跡を追いながら、
ついにルークが追いつくところまで進めました。
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