第33話 谷底の白
隠された場所ほど、
たどり着いた時には、
もう何も隠しきれていないことがある。
崖道は、思った以上に細かった。
人ひとりが横向きでやっと通れる場所もある。
足元は削れ、ところどころ古い鉄杭が打ち込まれていたが、その半分は赤錆に食われていた。
先を行くガルドが、岩肌へ手をかけたまま低く言う。
「足元だけ見んな。上と壁も見ろ」
「落ちる以外にもあるのか」
アシュが返すと、ガルドは振り向かずに答えた。
「こういう道は、崩れやすい」
嫌な言い方だった。
だが間違ってはいない。
谷底へ埋め込まれた白い施設は、朝霧の向こうでまだ輪郭をぼかしている。
見えているのに遠い。
近づいているはずなのに、妙に手応えがない。
ノアが後ろで短く言った。
「音が上を走ってる」
アシュはすぐ足を止めず、声だけ返す。
「追手か」
「たぶんな。まだすこし遠いが」
フィアナが息を潜める。
横穴から出た連中が、そのままこちらを追って崖道へ乗ったのだろう。
数までは分からない。
だが、一人や二人でないことだけは分かる。
ガルドが舌打ちした。
「真上に乗られると面倒だな」
「落石か」
「ある。矢なんて打たれたら最悪だ。こっちは逃げ場がねえ」
言いながら、ガルドはようやく立ち止まった。
崖道の途中に、下へ折れる鎖路があった。
古い鉄鎖が二本、崖へ沿って垂れている。
足をかけるための横板はあるが、どれも細く、ところどころ割れていた。
「これか」
アシュが言う。
「これだ」
ガルドは頷く。
「先に俺が下りる。次にフィアナ、ルゥ。ノア。最後にアシュだ」
「何で俺が最後だ」
「お前は後ろを見てろ」
言われなくても見ている。
アシュは黙ったまま頷いた。
ガルドは躊躇なく鎖へ手をかけ、足場を確かめながら下り始めた。
身体の使い方に無駄がない。
やはりこういう地形では、彼が一番頼りになる。
フィアナが鎖の前に立つ。
アシュはその横へ寄った。
「滑るなよ」
「はい」
「落ちても助けれねえぞ」
「助けてもらう前提では行きません」
「そうしてくれ」
フィアナは小さく頷き、鎖へ手をかけた。
白環は光っていない。
だが、あの白い施設が近づくにつれて、彼女の呼吸はまた少しずつ浅くなっている。
ルゥは先にするりと崖際へ移り、足場を選ぶように軽く跳び下りた。
白い毛が霧の中へ消え、すぐ下から小さく鳴く。
「……器用なやつだ」
ノアがぼそりと言う。
「出会った時からずっとな」
アシュが返す。
その時、真上の崖道で石が跳ねた。
全員の動きがわずかに止まる。
続けて、人の声がした。
はっきりとは聞き取れない。
だが近い。
「急げ」
アシュが低く言う。
フィアナが下りる。
足場は細い。
それでも彼女は一段一段、確かめるように身体を落としていった。
ノアが続き、最後にアシュが鎖へ手をかける。
その瞬間、上から石片が落ちてきた。
自然に崩れたようには見えない。
誰かが蹴ったのだ。
アシュは顔を上げない。
見上げれば遅れる。
代わりに身体を壁へ寄せ、落ちてきた石を肩でやり過ごす。
鈍い痛みが走る。
「アシュさん!」
下からフィアナの声。
「気にすんな、下りろ!」
短く返し、そのまま最後の数段を一気に落ちる。
谷底は朝霧がまだ濃かった。
白い施設は、上から見た時よりさらに嫌な形をしている。
近くで見ると建物の白は清潔さの色ではなかった。
塗り重ねた白だ。
何度も何度も上から塗り潰し、それでも下の痕跡を消しきれなかった白。
棟は三つ。
中央に低い本棟。
左右に短い棟が張り出し、それらを細い回廊が繋いでいる。
回廊には窓が少なく、外から中が見えない。
「気味悪いな」
ガルドが吐き捨てる。
「まるで病舎みたいだ」
「癒やすための作りには見えねえな」
アシュが言う。
入口らしい場所には、半ば朽ちた白い扉がある。
鍵はかかっていない。
だが、誰でも入れるように開いているわけでもない。
ただ、今はもう閉じきれなくなった顔をしていた。
ノアが建物の角を見て回る。
「外郭術式は死んでる。生きてるのはごく薄い残りだけだ」
「中に罠は」
「あるかもしれない。だが、表の封はもう役目を終えてる」
フィアナは施設を見上げたまま、動かなかった。
「……ここです」
「分かるのか」
アシュが問う。
「はい。観測塔で見た背中の感じが、ここで途切れてます」
その言葉に、ノアが目を細めた。
「途切れてる?」
「この先へ進んだんじゃなくて、一度ここで止まってるんです」
ガルドが眉をひそめる。
「寄ったってことか」
「たぶん」
フィアナの声は細い。
だが迷いはなかった。
アシュは扉へ近づき、手で軽く押す。
軋んだ音を立てて、白い扉が内側へ開いた。
中は薄暗い。
観測塔ほど乾いていない。
かすかな湿気と、薬品にも似た古い匂いが残っていた。
床は石。
壁も白く塗られている。
だが近づいて見れば、その白の下に何度も削った跡がある。
名前を消した壁だ。
「……嫌な感じだな」
アシュが呟く。
入口のすぐ内側には小さな机があり、その上に割れた陶器と古い紙片の切れ端が散っていた。
ガルドが紙片を拾う。
「読めるか?」
「無理だな。擦れてる」
ノアが受け取り、目を寄せる。
「日次と……観察。それだけ残ってる」
「観察、ねえ」
ガルドは嫌そうに顔をしかめた。
廊下は短い。
左右に三部屋ずつ。
奥にもう一つ、大きめの扉がある。
アシュたちは手前から順に部屋を確かめた。
一つ目は空。
壁際に低い寝台跡。
水差しの台。
窓は高く、小さい。
外は見えない。
二つ目も似ていた。
違うのは壁の一角だけが削られ、その上からまた白を塗られていることだった。
三つ目で、フィアナが立ち止まる。
「ここ……」
床の隅に、細い線が残っていた。
誰かが何度も同じ場所へ爪を立てたみたいな、浅い傷。
その少し上の壁に、うっすらと文字がある。
全部は読めない。
だが、一文字だけは残っていた。
イ
ノアが息を止める。
「名前の書きかけか」
フィアナは首を振らなかった。
ただ、その文字へそっと指を近づける。
「たぶん、途中で消されたんだと思います」
アシュが周囲を見る。
この部屋だけ、寝台の位置が少し壁寄りだった。
逃げ場を狭くするみたいに。
「ここにいたのか」
「断定はまだ早い」
ノアが言う。
だが声の温度は下がっていた。
否定ではなく、認めたくない時のそれに近い。
部屋の奥、寝台の下に何かが挟まっていた。
フィアナがしゃがみ込み、そっと引き出す。
細い布紐だった。
白かったはずのものが、時間で灰色に変わっている。
先に、小さな金具がついている。
「腕札の留め紐だな」
ノアが言う。
「候補番号をつける札の」
フィアナの指がわずかに震える。
ルゥがその手元へ鼻先を寄せ、低く鳴いた。
その時だった。
外で、小さな音がした。
石を踏み外す音。
全員が一斉に顔を上げる。
「来たか」
ガルドが弓を握る。
「まだ入口までは来てねえ」
アシュは短く言った。
「だが近い」
ノアは廊下の奥の扉を見た。
「奥に行くぞ。ここで迎えるには狭すぎる」
「なんで奥が安全だとわかる?」
「ただの感だ」
「なんだそりゃ」
それでも、選ぶ時間はない。
アシュが先に進み、最後の大きな扉へ手をかける。
鍵はなかった。
だが、開けた瞬間に空気が変わった。
そこは他の部屋より少しだけ広かった。
中央に、机が二つ。
壁には棚。
棚の半分は空だが、片方には陶器の瓶や、薄い板札がまだ残っている。
そして奥の壁一面に、白で塗り潰される前の線が、薄く格子みたいに浮いていた。
「管理室か」
ノアが呟く。
ガルドが棚の瓶を一つ持ち上げ、すぐ顔をしかめる。
「薬臭え」
アシュの目がわずかに動く。
薬。
その言葉だけで、身体の奥に別の種類の嫌な感覚が走る。
フィアナは棚の下に落ちていた紙束を拾い上げた。
端は湿気で癒着している。
だが、一枚だけ辛うじて剥がれる。
「何て書いてある」
アシュが問う。
フィアナは読めるところだけを拾おうと、目を細めた。
「……“第五候補”……“移送延期”……その下は、かすれて……」
ノアが横から覗き込む。
「“白環反応不安定”」
沈黙が落ちる。
フィアナの顔色が変わる。
だが今度は俯かなかった。
「第五候補……」
アシュは短く息を吐く。
第二観測点で見つけた金属札の数字。
箱に入っていた白い布。
そして、今の紙片。
全部が一本に繋がり始めていた。
「イリスか」
「可能性は高いな」
ノアが答える。
「少なくとも、この施設で第五候補と呼ばれていた誰かがいたのは確かだ」
外で、また音がした。
今度はさっきより近い。
白い扉の向こう、廊下の先。
「クソ、早えよ」
ガルドが吐き捨てる。
アシュはすぐ部屋の奥を見た。
管理室なら、出口は一つではない。
「ノア、逃げ道」
「いま探してる」
ノアは壁の格子状の線へ手を当てた。
「こっちだ。記録庫か、搬出口に繋がってる」
「じゃあそっちに行くぞ」
「言われなくても」
青白い術式が壁を走る。
白い塗装の奥で、古い線が一度だけ脈打つ。
その間に、フィアナは紙片を布へ包み、腕札の留め紐も一緒に抱え込んだ。
「持っていくのか」
「置いていけません」
即答だった。
アシュはそれに頷き、剣を抜く。
迎え撃つなら短い時間だけ。
抜ける道が開いたら、すぐ動く。
ガルドが入口脇に位置を取り、矢をつがえる。
ルゥは低く唸りながらフィアナの前へ出た。
ノアの術式が、最後の封を押し切る。
壁の一部が、鈍い音を立ててずれた。
その向こうには、細い下り階段があった。
「開いた!」
同時に、廊下の先で白い扉が押される音がする。
人だ。
もう目の前まで来ている。
アシュは一度だけ廊下を睨み、低く言った。
「先に行け」
「お前は」
ガルドが問う。
「すぐ追う。少しだけ時間を稼ぐ」
「一人は無茶だぞ」
「無茶でもやるしかない」
ルゥが一段低く唸る。
フィアナの白環が、かすかに灯った。
ノアが顔をしかめる。
「おい、長くは保たないぞ」
「分かってる」
白い廊下の向こうで、とうとう人影が揺れた。
アシュは剣を構える。
追手はすぐそこだ。
だが、ここで終わるわけにはいかない。
イリスの痕跡はまだ先に続いている。
第五候補と呼ばれた誰かの歩いた先も、たぶんまだ東にある。
「行け」
短く言ったその直後、白い廊下に最初の影が踏み込んできた。
第33話でした。
今回は谷底の白い施設へ踏み込んで、
イリスの痕跡と“第五候補”の断片が繋がり始めるところまで進めました。
ここからさらに、
追手との距離と、東の先にあるものが近づいていきます。
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