第32話 裏の道
きれいな部屋の裏には、
たいてい、見せたくないものが隠されている。
保守路は、人が使うための通路というより、石の隙間を無理やり人の幅にしたような狭さだった。
アシュを先頭に、フィアナ、ルゥ、ノア、最後尾にガルドがつく。
壁も床も乾いている。
だが空気は冷たく、長いあいだ日の差さない場所にだけ残る、古い石の匂いがした。
背後からは、かすかに人の気配が追ってくる。
足音そのものはまだ遠い。
だが一度聞こえてしまえば、もう幻では済まない距離だった。
「思ったより速いな」
ガルドが低く言う。
「向こうも保守路に気づいたんでしょう」
ノアが前を見たまま答える。
「白い部屋を見れば、出口が一つで済む施設じゃないことくらい分かる」
「向こうもバカじゃないってことだな」
吐き捨てるような返しだった。
アシュは壁へ手をやり、前方の曲がり角を確かめる。
通路は細くうねりながら東へ続いていた。
人を閉じ込めていた部屋の裏側だというのに、真っ直ぐ外へ逃がす作りではない。
「わざと迷わせてるのか」
「違います」
フィアナが細い声で言う。
アシュが少しだけ振り返ると、彼女は白い壁ではなく、この狭い通路そのものへ意識を向けていた。
「ここ、迷わせるためじゃありません。見せないための道です」
ノアが短く頷く。
「表の部屋に入れる人間と、裏で動かす人間を分けていたんだろう」
「候補を“待たせる”部屋が表で、“運ぶ”道が裏か」
アシュが呟く。
「嫌な施設だな」
「今さらだろ」
ガルドが返した。
足元でルゥが小さく鳴く。
狭い道でも迷いなく進んでいるが、耳だけは絶えず後ろを警戒していた。
やがて通路は下りに入った。
段差は浅い。
だが、一定すぎる。
自然な坂ではなく、人が荷を運ぶことを前提に作られた傾斜だと分かる。
ノアが壁の下の金具跡を指先でなぞった。
「担架か、滑車か……何かを固定していた痕跡だ」
「人か」
ガルドが問う。
「人以外をここまで隠して運ぶ意味は薄い」
ノアの答えは淡々としていた。
フィアナの呼吸が、ほんの少しだけ浅くなる。
アシュは立ち止まりはしなかった。
止まれば後ろとの差が縮むだけだ。
それでも声だけは落とす。
「大丈夫か」
フィアナはすぐ答えた。
「大丈夫です」
「本当に大丈夫な時だけ、その言葉を使え」
「……努力します」
「最近そればっかりだな」
ぶっきらぼうに返すと、フィアナは少しだけ息を漏らした。
笑った、というより、緊張がほどけるのを堪えた音に近かった。
通路の右壁に、浅い引っかき傷が並んでいた。
最初に気づいたのはガルドだった。
「待て」
全員が足を止める。
傷は低い位置から始まり、途中で途切れている。
獣の爪ではない。
金具か、細い刃物か、何か硬いもので、苛立つように何度も石を擦った跡だった。
アシュが指先で触れる。
「新しくはねえな」
「でも古すぎもしません」
ノアが屈み、傷の深さを確かめた。
「風化の仕方が浅い。数年単位か」
フィアナがその痕を見つめる。
「……数えていたのかもしれません」
「何をだ」
「日数とか、順番とか……」
言いながら、自分でも嫌な想像をしたのだろう。
フィアナはそこで小さく唇を結んだ。
ガルドが舌打ちする。
「考えたくもねえな」
「でも、考えずに進むわけにもいかない」
ノアの返しは冷たい。
だが、冷たいだけで切り捨てているわけではないのが分かる声だった。
「ここがどういう場所だったかを知らなければ、次も同じものを見落とす」
アシュは手を離し、前を向く。
「行くぞ」
通路はさらに下り、やがて低い鉄格子の前で終わっていた。
格子自体は半ば錆び、下半分は歪んでいる。
向こう側にはわずかに光があった。
朝だ。
だが、その光は外の広がりではなく、狭い裂け目の先にあるだけの弱い白さだった。
「出口か」
「出口というより、廃棄路ですね」
ノアが言った。
「保守路の最後にしては扱いが荒い」
「廃棄?」
フィアナが問い返す。
「使い終えた物を出す道にも見えます」
その一言に、空気がまた冷えた。
アシュは格子へ手をかける。
びくともしない。
錆びてはいるが、単純な老朽では外れない作りだ。
「ノア」
「やる」
ノアが前へ出る。
細い術式線が指先から走り、格子の端に残っていた封を探る。
「完全には死んでない。だが弱い」
「急げ」
「急かすな。雑に切ると音が出る」
その時、通路の遠い先で、小さく石が鳴った。
全員の表情が変わる。
「来たか」
アシュが言う。
「まだ距離はあります」
ノアは封へ集中したまま答えた。
「だが、そう遠くない」
ルゥが低く唸る。
フィアナは白環へ無意識に手を添えていた。
かち、と乾いた音。
格子の端がわずかに浮く。
「開くぞ」
アシュとガルドが同時に鉄格子を引く。
歪んだまま、ぎりぎりと嫌な音を立てて持ち上がる。
その先は、崖腹に空いた細い横穴だった。
人が屈んでようやく抜けられる程度の高さしかない。
だが風が通っている。
外へ繋がっているのは間違いなかった。
「先に出る」
アシュが身を滑らせる。
外は崖の中腹だった。
真下は見たくない深さで落ち込み、眼下には白く薄い朝霧が溜まっている。
横には岩を削っただけの狭い足場があり、崖沿いにさらに東へ延びていた。
「……廃棄路ってより、逃がす気のない抜け道だな」
ガルドが這い出しながら吐き捨てる。
ノアも続き、最後にフィアナとルゥが出る。
五人が足場へ並ぶと、それだけで窮屈だった。
だが、前方を見た瞬間、全員が無言になった。
崖の向こう、朝霧の切れ間の先に、谷がひとつ沈んでいる。
深い、隠すような谷だった。
そしてその底近く、崖肌へ半ば埋め込まれるように、白っぽい低い建物群が見えた。
塔ではない。
礼拝堂でもない。
広くもないのに、いくつもの棟が回廊で繋がっている。
閉じたまま増築を繰り返したような、不格好な白い塊。
「……おい」
ガルドの声が低くなる。
「まだあるのかよ」
ノアが目を細める。
「第二観測点の先、か」
「施設、ですね」
フィアナの声はかすれていた。
「観測だけの場所じゃないみたいです」
アシュは谷の底の建物から目を離さない。
観測塔、白い部屋、保守路。
全部がそこで一本に繋がると言われても納得できるだけの気味悪さがあった。
「イリスは、あそこへ?」
フィアナが小さく呟く。
ノアはすぐには頷かなかった。
「いた可能性は高い。だが、まだ断定はするな」
「分かっています」
フィアナは答えたが、その目は谷から逸れなかった。
その時、背後の横穴から、微かな金属音が響いた。
ガルドが振り返る。
「っ、もう来たのか」
「速えな」
選んでいる時間はなかった。
後ろからは人。
前には、谷へ降りるしかない狭い崖道。
ガルドがすぐに足場の先を見た。
「東へ回る。途中で下りの道があるはずだ」
「ある、じゃなくて、あってほしいの間違いじゃねえのか」
「どっちでもいい。今は行くしかねえだろ」
アシュはフィアナを見る。
「行けるか」
「行きます」
迷いのない返事だった。
ルゥはすでに一歩前へ出ている。
白い毛が朝の薄光を弾き、細い崖道の先を見据えていた。
人の足音が、また一つ近づく。
アシュは剣の柄を握り、すぐに離した。
ここは斬り合う場所じゃない。
「動くぞ」
短く言う。
ガルドが先導し、崖沿いの細道へ踏み出す。
ノアがその後ろにつき、フィアナとルゥが続き、アシュが最後尾を取る。
背後の横穴から、誰かの息遣いがもう届きそうだった。
だが前には、さらに隠された白い施設がある。
イリスの痕跡はまだ途切れていない。
なら、止まる理由はなかった。
東の谷へ向けて、一行は崖道を急いだ。
第32話でした。
ここからさらに、
イリスの痕跡と、追ってくる側との距離が詰まっていきます。
もし面白かったら、
ブックマーク
評価
感想
などいただけると嬉しいです。
次話もよろしくお願いします。




