第30話 東の観測路
追われる夜が明けても、
背負ったものまで軽くなるわけじゃない。
観測塔を離れた時、空はもう半分以上、夜に沈みかけていた。
西の空に残った光は薄く、山の稜線を黒く縁取るだけだ。
東へ伸びる観測路は、獣道より少しだけましな程度の細さしかなかった。
先を歩くのはガルドだった。
弓を背負い、時おり足を止めては地面と斜面の形を見ている。
その少し後ろにノア。
足元を見るというより、岩肌や古い刻印の残りを拾うみたいに視線を動かしていた。
フィアナはルゥと並び、アシュは最後尾に近い位置を取る。
追われる時の並びだった。
先を見る者と、後ろを捨てない者で自然に形が決まっている。
「まだ道の顔は死んでねえな」
ガルドが低く言った。
「顔?」
フィアナが問い返す。
「人が通ってた跡だよ。古い道ってのは、使われなくなると土の流れ方が変わる」
ガルドは前を向いたまま答える。
「でもここは、消えきってねえ。完全に捨てられた道じゃない」
「最近まで使われていた、ということか」
ノアが言う。
「最近とまでは断言しねえが、完全な廃道でもねえな」
その会話を聞きながら、アシュは一度だけ後ろを振り返った。
観測塔はもう見えない。
そのかわり、夜の色だけがじわじわと山の奥から迫ってきている。
ルークたちが追ってきているなら、時間はそう多くない。
「止まるなら一度だけだ」
アシュが言う。
「野営は短く。夜明け前には動く」
「そうしましょう」
フィアナが頷く。
声に迷いはなかった。
観測塔でイリスの背中を見てから、彼女の中で何かが少し変わったのが分かる。
ただ怯えているだけの目ではない。
怖がってはいる。だが、見失いたくないものがもう目の前にある。そんな目だ。
ノアが岩肌へ手をかざした。
「止まれ」
一行の足が止まる。
「何だ」
アシュが問うと、ノアは岩壁の下半分を指した。
「刻みが残ってる。術式の名残だ」
近づいてみると、風雨で削れた石肌に、たしかに細い線がいくつも走っていた。
自然にできたひびには見えない。
何かを繋ぐために引かれ、そして長い時間の中で死にかけた線だった。
「観測塔の外郭と同系統です」
ノアは短く言った。
「東へ向かう道自体が、最初から管理されていた」
「監視路ってことか」
「それに近い」
ガルドが顔をしかめる。
「気色悪いな。道まで囲ってたのかよ」
「囲うというより、逃がさないための線かもしれない」
ノアの言い方は平坦だったが、妙に冷たかった。
フィアナが静かにその線を見つめる。
「ここも……候補だけを通すような場所、だったんでしょうか」
ノアはすぐには答えなかった。
代わりに、少しだけ目を細める。
「候補、器、異端。呼び方は違っても、どれも“分けるための言葉”だ」
アシュの目がそちらへ向く。
ノアは岩壁から手を離した。
「線を引いて、外れたものに名前をつける。そうすると扱いやすい」
「異端もか」
アシュが言う。
「異端もだ」
ノアは即答した。
「最初から悪いものだったんじゃない。だが、そう呼べば切り離せる」
ガルドが鼻を鳴らす。
「嫌な言い方だな」
「嫌な仕組みだからな」
その返しに、誰もすぐには何も言わなかった。
風が吹く。
山の夜気は冷たく、乾いている。
灰祈りの村の湿った重さとは違うのに、話している中身だけがあの村から離れていない。
しばらく進むと、道は一度だけ開けた。
尾根と尾根の間に浅い窪地があり、背の低い木々が風を避けるように集まっている。
夜を越すならここしかない、という形の場所だった。
「ここで一度切る」
ガルドが言う。
「火は小さく。煙は抑える」
「見つかるか」
「見つかる」
短い答えだった。
「人でも魔物でもな」
ノアは周囲を一度見回し、窪地の東側へ目を止めた。
「あそこに崩れた石がある。昔の目印だ」
アシュが見ると、たしかに土に半ば埋もれた石柱があった。
上半分は折れているが、表面には風化した刻みが残っている。
フィアナがその近くまで行き、しゃがみ込んだ。
「文字、でしょうか」
「読めるか」
「全部は無理です。でも……」
指先で汚れを払う。
白環は光っていない。
それでも、彼女がこうして古いものへ触れる時、空気の見え方まで変わるように思えることがあった。
「“二”と……“東”……あと、たぶん“見”です」
ノアがすぐ横へ屈む。
「第二観測路の標石だな」
ガルドが舌打ちする。
「ほんとにこっちで合ってやがる」
アシュは目を細めた。
正しい道を進んでいると分かるたび、安心より先に嫌な重さが増す。
引き返せる曖昧さが一つずつ消えていくからだ。
火は、たしかに小さかった。
乾いた枝を最低限だけ組み、石で囲い、煙が上がりすぎないようガルドが調整している。
フィアナは水を温め、ルゥは火から少し離れた暗がりで丸くなっていた。
だが眠っているわけではない。
耳だけはずっと立っている。
ノアは火の向こうで、塔から持ち出した写しを見返していた。
紙ではなく、頭の中で並べ直しているような沈黙だった。
「ノア」
アシュが呼ぶ。
「第二観測点は何だと思う」
ノアはすぐには答えなかった。
焚き火の小さな明かりが、その横顔を半分だけ照らしている。
「観測塔そのものじゃない」
「根拠は」
「線が細すぎる」
ノアは地面へ指先で簡単な印を描く。
「塔と塔を結ぶなら、もっと太く残す。これは補助路だ。観測のためというより、運ぶための線に近い」
「何を」
フィアナが小さく問う。
ノアは指先を止めた。
「候補、器、記録、封具。どれでも成立する」
ガルドが苦い顔をする。
「ロクでもねえもんしか並ばねえな」
「そういう場所を追ってるんだろ、今さらだ」
ノアの返しは素っ気ない。
だが冷たいだけではなかった。
必要な温度をわざと落としている時の声だった。
フィアナは火を見つめたまま、ぽつりと言う。
「イリスさんは、そこに向かったんでしょうか」
「可能性は高い」
ノアが答える。
「観測塔の投影が嘘でないならな」
「嘘を見せるための盤ではありません」
フィアナの声は静かだったが、はっきりしていた。
「少なくとも、あれは……誰かの願望ではなかったです」
アシュはその横顔を見る。
フィアナは火の明かりに照らされながらも、どこか別のものを見ている顔をしていた。
「まだ残ってるのか」
問いに、フィアナは少しだけ間を置いてから頷く。
「少しだけです。でも、あります」
「何が」
「白い部屋の冷たさと……あの人が、振り返らずに進んだ感じです」
アシュは何も返さなかった。
灰祈りの村で“呼ばれている”と言った時とは少し違う。
今のフィアナは、引かれているだけじゃない。
誰かが残した進み方まで拾い始めている。
それが良いことなのかどうかは、まだ分からない。
その時だった。
ルゥが、ぴたりと動きを止めた。
丸めていた身体が伸びる。
喉の奥で、低い唸りが鳴る。
ガルドの手が即座に弓へ伸びた。
「消せ」
アシュが言う前に、ノアが火へ砂をかける。
明かりが一気に弱まった。
窪地の外。
斜面の上から、小石が転がる音がした。
「人か」
フィアナが囁く。
「違う」
ガルドの声は低い。
「重さが獣だ。だが、普通の獣じゃねえ」
アシュは剣を抜く。
夜目が慣れる前に、影が飛んだ。
最初の一体は、火の残りへ真っ直ぐ落ちてきた。
細長い胴、硬い毛並み、異様に長い後ろ脚。
狼というより、痩せた山犬を無理に引き伸ばしたような魔物だった。
「スレイドハウンドか」
ガルドが舌打ちする。
「群れで来るぞ!」
その言葉通り、二体目、三体目が左右から回り込んだ。
アシュは正面へ出る。
最初の一体の顎が開く。
牙が細かい。噛みつくより裂くための口だ。
踏み込みすぎない。
夜の足場で無理をすると、次が遅れる。
低く刃を流し、前脚を断つ。
倒れきる前に首へ返す。
黒い血が土へ散る。
左から来た二体目は、ガルドの矢が肩口を射抜いた。
だが止まらない。
そのまま低く滑り込み、ガルドの足を狙う。
ノアの指先から青白い線が走った。
地面に薄い術式が開き、魔物の脚が一瞬だけ沈む。
ほんの一拍。
だが十分だった。
ガルドが半歩退き、至近距離から矢を打ち込む。
喉元に刺さった矢が、深く食い込んだ。
三体目はフィアナへ向かった。
ルゥがぶつかる。
白い影と黒い獣が土の上で噛み合い、擦れ合い、細い唸り声を重ねる。
フィアナは怯んだが、逃げなかった。
両手を重ねる。
白い光が細く走り、ルゥへ組みついていた魔物の後ろ脚を鈍らせる。
「今です!」
アシュが踏み込む。
脇腹が鈍く軋んだ。
それでも止まるほどではない。
一閃。
刃は胴を深く裂き、そのまま喉の下まで走った。
魔物の身体が地へ崩れる。
静けさが戻ったのは、ほんの数拍のあとだった。
ガルドが矢を番えたまま暗がりを睨む。
「……まだいるか?」
ノアが耳を澄ませる。
「いや。散った」
ルゥはすぐには唸りを止めなかった。
フィアナが背を撫で、ようやく低い唸りがほどけていく。
「大丈夫ですか」
フィアナが振り返る。
「そっちは」
アシュが先に問う。
「ルゥも私も、大丈夫です」
ノアが地面の術式跡を見下ろし、短く息を吐いた。
「この辺り、まだ生きた道だな」
「何で分かる」
アシュが訊く。
「魔物の動きが早い」
ノアは倒れたスレイドハウンドをじっくり見た。
「人が通る場所を覚えている。完全な廃道なら、ああは来ない」
ガルドが鼻を鳴らす。
「ありがたくねえ話だ」
「だが間違ってはいない」
ノアは平坦に言った。
「この先には、まだ使われていた場所がある」
フィアナが、倒れた魔物を見つめながら小さく言う。
「灰祈りのものとは、全然違いますね」
アシュは剣の血を払う。
「当たり前だ」
「はい。でも、違うものがちゃんと怖いのは……少しだけ安心します」
その言葉に、ガルドが顔をしかめた。
「変な安心だな」
「そうですね」
フィアナは苦く笑った。
「でも、全部があの村みたいだったら、たぶん息が詰まります」
誰も否定しなかった。
夜の山には夜の脅威がいる。
それはそれで面倒だ。
だが意味があるぶん、灰祈りの異形よりはまだ人が向き合える。
アシュは剣を収める。
腰へ戻す途中、小瓶が触れた。
指先が一瞬だけそこへ止まり、すぐ離れる。
フィアナはそれに気づいたが、何も言わなかった。
言われなくても分かることがある。
分かっても、今は口にしない方がいいことも。
ノアが東の暗がりを見た。
「夜明け前に出る」
「さっきもそう言ったぞ」
アシュが返す。
「確認だ」
「いらねえよ」
「お前にはな」
素っ気ない応酬だった。
だがその中に、もう最初の距離ほどの硬さはなかった。
ガルドが魔物の死体を窪地の外へ引きずりながら言う。
「血の匂い残すと、また来るぞ」
「まだ増えるんですか」
フィアナが顔を上げる。
ガルドは短く答えた。
「来る時は来る」
「だから、休めるうちに目を閉じろ」
火はもう使わなかった。
冷えた夜気の中で、それぞれが岩や木の根元へ背を預ける。
眠るというより、朝まで身体を落ち着かせるだけの時間だった。
アシュは浅く目を閉じる。
東の先。
第二観測点。
イリスが消えたその先。
白い部屋と、器と、異端の名。
追ってくる剣もいる。
だが今は、先に辿り着くことだけを考えればいい。
ルゥの呼吸が少しずつ落ち着いていく。
フィアナも黙って座り込み、膝の上で手を重ねていた。
ノアはまだ目を開けている。
ガルドは最後まで眠らないつもりらしい。
夜は長い。
それでも、止まるための夜ではなかった。
朝になれば、また東へ進む。
そう決めたまま、一行は冷たい山の闇の中で、短い休息をつないだ。
第30話でした。
今回は、観測塔を出た直後の東への移動と、
その途中での野営、そして魔物との遭遇を書きました。
灰祈りの異常とは別に、
この世界そのものの危険や、異端という言葉の重さも少しずつ滲んできます。
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