第29話 王国の剣
追う背中が、かつて自分の憧れだったとしたら。
剣を向ける理由は、前よりずっと鈍く重くなる。
夜の名残がまだ薄く残る山道で、ルークは足を止めた。
東へ向かう細い尾根道。
踏み荒らされた跡は新しい。
人数は多くない。
五人前後。
それに獣が一匹。
崩れた石の端。
草を払った靴の流れ。
無理を押して進んだ歩幅の乱れ。
ひとつひとつが、追っている相手の息遣いみたいに残っている。
「……先に入られましたね」
後ろの兵が低く言う。
ルークは答えず、足元の痕跡を見たまま目を細めた。
旧燈写院は破られていた。
記録は一部持ち出され、封鎖術は壊され、地下から西へ抜ける排水路まで使われていた。
そこに残っていたのは、焦った痕跡ではない。
追われながらも、行く先を決めている者の動きだった。
アシュ・ヴァレン。
その名を頭の中でなぞるたび、胸の奥で何かが鈍く沈む。
「隊長」
若い兵が言う。
「この先、本当に追いますか。道が死んでます」
「追う」
ルークは短く答えた。
「だが雑に詰めるな。踏み込む場所を間違えれば、こっちから崩れる」
「はっ」
兵が下がる。
その背後で、クレイグが地図を畳んでいた。
王国異端討伐隊、第三席。
その男はいつも通り、余計なことを言わない。
だが今は、黙っているだけで周囲の空気が締まる。
「東の観測路に入ったな」
クレイグが言う。
「はい」
「理由は分かるか」
ルークは少しだけ間を置いた。
「逃走だけなら、もっと散らせたはずです。ですが線が絞られている。向こうも、何かを追っています」
「その何かは」
「まだ」
クレイグは頷いた。
「分からないものを分からないと言えるなら、それでいい」
低く、重い声だった。
「教会は」
ルークが問う。
「おそらく先回りしている」
「ヴァルトも、ですか」
その名が出た瞬間だけ、クレイグの目がわずかに細くなる。
「あれは教会の線に近い」
「王国の命令ではなく?」
「今はな」
短い返答だった。
ルークは尾根道の先を見た。
まだ見えない先に、アシュがいるかもしれない。
フィアナがいるかもしれない。
灰祈りの底へ繋がる何かがあるかもしれない。
それでも、自分の足は前に出なければならない。
追わなければならない。
止めなければならない。
そう理解しているのに、理解したぶんだけ苦くなる。
「……隊長」
若い兵がもう一度、小さく呼ぶ。
「アシュ・ヴァレンって、本当にあの元第七席なんですか」
ルークはすぐには答えなかった。
風が尾根を抜ける。
乾いた空気の中に、ひどく昔の鉄と血の匂いが混じった気がした。
「そうだと、思う」
喉の奥で擦れるような声だった。
「剣跡を見れば分かる」
その瞬間、不意に、六年前の光景が脳裏に差し込んだ。
◇
雨だった。
冷たい雨が、黒く焼けた村跡を叩いていた。
まだ異端討伐隊に入って間もない頃のルークは、その時ただ若かった。
剣も技も足りなかったが、自分は王国の剣になるのだと信じていた。
任務は単純だった。
廃村に巣食った異端化個体の排除。
そう聞かされていた。
だが、現場は単純ではなかった。
家屋の残骸の間を這うように、黒い影が動く。
もとは人だったと聞かされていた。
実際、腕や顔の名残はあった。
だがもう人ではない。
皮膚の下で赤い熱が脈打ち、濁った牙が口元から覗き、雨の中で白い息みたいな穢れを吐いていた。
人だったものが、人でなくなったあとも残る。
異端という言葉の奥にある気味の悪さを、若いルークはまだちゃんとは知らなかった。
「右だ!」
誰かが叫ぶ。
若い隊員の一人が、脇の崩れ壁から飛び出した異端に反応しきれず、半歩遅れた。
ルークだった。
間に合わない。
そう思った瞬間、黒い上着が視界を横切った。
一閃。
速い、では足りない。
必要なところにだけ、最短で届く剣だった。
飛びかかった異端の首がずれる。
遅れて胴が崩れ、黒い液が雨へ溶けた。
アシュ・ヴァレン。
当時すでに、席持ちの名は若い隊員たちの間で半ば伝説みたいに語られていた。
王国異端討伐隊、第七席。
若すぎる実戦位階。
最前線から何度も戻ってくる、生き残りの剣。
その背が、今ルークの目の前にある。
「下がってろ」
ぶっきらぼうな一言だった。
叱責でもない。
気遣いでもない。
ただ、そこで死なせないための指示だった。
アシュは次の瞬間にはもう別の異端へ踏み込んでいる。
二体目は家屋の陰から来た。
横薙ぎの腕を、半身だけ引いて外す。
踏み込みながら喉を断つ。
返す刃で背後から迫る個体の膝を割り、崩れたところへ短く首を落とす。
無駄がない。
力任せでもない。
見せるための強さでもない。
ただ、死なないためと終わらせるために削られた戦い方だった。
ルークは息を呑んだまま、その背を見ていた。
強い。
こんなふうに戦えるようになりたいと、あまりにも真っ直ぐ思った。
王国の剣とは、こういうものなのだと。
「見惚れてる場合か」
横から低い声が飛ぶ。
ヴァルトだった。
当時のヴァルト・グレインは、今より少し若かった。
だが目の奥の冷たさだけは、もうその頃から変わらない。
剣を抜き、別の異端を斬り伏せながらも、その視線だけはアシュから一瞬も離れていなかった。
「……第七席は化け物ですね」
若いルークが思わず呟く。
ヴァルトは笑った。
笑ったが、底は冷えていた。
「そう見えるか?」
「見えます」
「は」
鼻で笑う。
「若いな、お前」
その返しの意味を、その時のルークはまだよく分かっていなかった。
だが次の瞬間、その温度差ははっきり形になった。
路地の奥から、大型の異端が現れたのだ。
半ば獣のように四肢を使い、焼け残った梁を叩き折りながら突っ込んでくる。
隊の前衛二人が弾かれ、隊列が崩れる。
「包囲しろ!」
誰かが叫ぶ。
だが包囲が間に合う前に、アシュはもう動いていた。
正面から行った。
普通なら避ける角度だ。
だがアシュは一歩も引かない。
異端の右肩が落ちる、その癖を見た瞬間に軸をずらし、最小の動きで懐へ潜る。
剣は短く、深く、三度だけ閃いた。
脇腹。
喉。
最後に頭部の付け根。
巨体が数歩遅れて崩れた。
雨音だけが残る。
隊員たちの空気が変わる。
恐れでも熱狂でもない。
あれが席持ちだと理解させられる静まり方だった。
ルークはその場で、はっきり思った。
王国の剣だ、と。
ああいう人間がいるから、自分たちはまだ立っていられるのだと。
だが、その横でヴァルトだけは違う顔をしていた。
倒れた異端ではなく、アシュの背中を見ている。
憧れではない。
認めてもいない。
もっと濁った、冷たい何かだった。
「……気に入らねえな」
ヴァルトがぽつりと漏らす。
雨に消えそうな小さな声だった。
だがルークには、なぜか妙にはっきり聞こえた。
「え?」
「何でもねえよ」
ヴァルトは笑った。
軽い調子で剣の血を払う。
「ほら、手ぇ止めんな。終わってねえ」
そのあとも戦闘は続いた。
だが、若いルークの中ではもう決まってしまっていた。
追いつきたい背中がある。
王国の剣は、こういうものなのだと。
それが、今でも消えていない。
◇
「隊長」
呼びかけられて、ルークは現在へ引き戻された。
尾根道の風は冷たい。
雨は降っていない。
だが胸の奥には、あの時と同じ鉄の匂いだけが残っていた。
「どうしました」
「……いや」
ルークは短く息を吐く。
「進むぞ」
兵たちが足を動かし始める。
クレイグだけが少し遅れて歩き出し、ルークの横へ並んだ。
「揺れているな」
唐突な一言だった。
ルークは表情を変えずに答える。
「任務に支障はありません」
「そうか」
クレイグはそれ以上言わなかった。
だが、否定しなかったことを見逃したわけでもない。
しばらく進んだ先で、道が二つに割れていた。
片方は尾根沿い。
もう片方は下へ回り込む古い巡検路。
クレイグは足元の土を見て、すぐに判断する。
「下だ」
「なぜです」
「人数が減っている」
ルークも屈み、痕跡を見た。
確かに、途中で人数の流れが変わっている。
別働を切った跡だ。
本隊は軽くなっている。
「南へ分かれた跡があります」
「記録局の男を切ったか、護衛を切ったか」
クレイグの声は低い。
「いずれにせよ、本隊は急いでいる」
「観測塔を抜いた後、さらに東へ?」
「その可能性が高い」
ルークは目を細めた。
アシュは追われながらも、ただ逃げるだけの動きをしていない。
何かを追っている。
そしてその何かは、王国も教会も隠したがっている。
それでも、だからといって見逃せる理由にはならない。
胸の奥で、昔の憧れと今の任務が噛み合わないまま、鈍く擦れ続ける。
「……本当に、あの人なのか」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
クレイグは聞こえたのか聞こえなかったのか、表情を変えない。
「確認しろ」
ただ、それだけ言った。
「お前の目でな」
ルークは短く頷く。
それで十分だった。
今はまだ、追うしかない。
追って、見て、それでもなお違うと思うなら、その時に考える。
「先行します」
「深追いはするな」
「了解」
ルークは一礼し、先の細道へ身を滑らせた。
東の観測路。
その先にいるのが逃亡者アシュなのか。
かつて自分が憧れた王国の剣なのか。
あるいは、そのどちらでもない何かなのか。
それを確かめるためにも、もう止まれなかった。
第29話でした。
第4章と区切りがいいので、
今回はルーク視点で、
“追う側”から見たアシュと、かつての第七席としての姿を描きました。
ここからさらに、
王国側の剣たちの思惑と、アシュたちの進む先が近づいていきます。
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