第28話 観測塔の白線
残されたものは、
答えではなく、次の行き先だけを指すことがある。
観測塔は、近づくほど人を拒む形をしていた。
崖縁へ突き出すように建てられた細長い石塔。余計な装飾は一切なく、窓も少ない。祈る場所というより、ただ見続けるために削られた石の柱だった。
風が強い。
だがその風は、灰祈りの村のような湿った重さを持っていない。乾いていて、冷たい。そのくせ、塔の足元に立つと妙に息が詰まる。
「……ここも、好きな空気じゃねえな」
ガルドが低く言う。
「好きになれる場所ではないでしょう」
レオフが答えた。
ノアは塔の壁面を見上げ、刻まれた線を指先でなぞる。
「観測用の外郭術式がまだ残ってる。半分以上死んでるが、全部じゃない」
「入れるか」
アシュが問う。
「入れる。だが、またフィアナの加護が鍵になるかもしれない」
フィアナは小さく息を吸った。
疲れはまだ残っている。顔色も良いとは言えない。それでも彼女は首を横には振らなかった。
「やります」
その返事に、アシュは短く言う。
「無理なら止める」
「はい」
「止められる前に倒れるな」
「善処します」
「……ったく、お前は」
言いかけて、アシュは途中で切った。
ガルドが横で鼻を鳴らしているのが見えたからだ。
「何だ」
「いや」
ガルドはわずかに口元を歪める。
「だいぶ板についてきたなと思ってよ」
「うるせえ」
それだけ返して、アシュは塔の正面入口へ向かった。
扉は鉄で補強された石扉だった。錠は外れている。だが、触れた瞬間に分かった。単純な鍵の問題じゃない。石の奥で、まだ術が眠っている。
フィアナが扉の前へ出る。
ルゥはすぐ足元へ寄り、淡い青い瞳で塔を見上げたまま、小さく喉を鳴らしていた。
「来ます」
フィアナがそっと手を当てる。
首元の白環が淡く灯った。
白い光が扉の輪郭を走り、塔の壁面へ細い線となって伸びていく。塔全体が一度だけ、息を吸うように軋んだ。
乾いた音。
石扉が内側へずれる。
「……相変わらず嫌な開き方だな」
ガルドが吐き捨てる。
「候補だけを通す気だったのでしょう」
レオフの声音は冷たい。
「最初から」
その言い方に、フィアナは何も言わなかった。
塔の内部は暗かった。
らせん状の階段が上へ続き、壁には等間隔で細い観測窓が空いている。下層には机も棚もなく、ただ巡回と記録のためだけに作られた構造だった。
「上だな」
ノアが言う。
「観測盤は上階にあるはずだ」
一行は慎重に階段を上った。
石段は古く、ところどころ欠けている。風が観測窓から吹き込み、塔の中で低く鳴った。そのたびに、どこか遠くで別の音が返ってくる気がする。塔そのものが、今も何かを聞き続けているようだった。
二層、三層と上るごとに、フィアナの呼吸が少しずつ浅くなる。
アシュはそれに気づいていた。
「止まるか」
「いえ……まだ」
「そうか」
「でも、近いです」
フィアナは塔の上を見上げたまま言う。
「何かが、そこに残っています」
ノアがその言葉に反応した。
「観測盤か、残留記録だな」
「記録って、見えるのか」
ガルドが訊く。
「見えるというより、引っ張り出す」
ノアは短く答えた。
「この手の塔は、揺らぎを数字じゃなく痕跡で残す。加護持ちが近い方が起動しやすい」
「またフィアナ頼みかよ」
「そういう場所を追って来たんだろ」
ノアの返しに、ガルドは舌打ちで返した。
最上階は思っていたより広かった。
円形の部屋。中央に、金属と石を組み合わせた円盤状の台座がある。周囲の壁には細い目盛りと、削られた文字の列。天井は半ば崩れ、夕方の光が斜めに落ちていた。
「……これが観測盤か」
アシュが低く言う。
「たぶんな」
ノアは近づき、台座の縁を確認する。
「封鎖地点の揺れを見る盤だ。死んでる部分も多いが、核は残ってる」
レオフは壁の刻みへ目を走らせていた。
「記録の剥離痕がある……ここも消されたか」
「残ってるものだけ拾え」
アシュの声に、レオフは短く頷いた。
フィアナは観測盤の前で立ち止まっていた。
白環が、もう隠しきれないほどはっきり光っている。
「……ここです」
彼女の声は震えていた。
「ここで、何かを見ていました。ずっと」
アシュは一歩前へ出る。
「無理ならやめろ」
「見ないと駄目です」
「何でそうなる」
「ここまで来たからです」
短い返答だった。
だが、それで十分だった。フィアナはもうただ怯えて押されるだけの場所にはいない。
アシュは小さく息を吐く。
「やるなら、倒れる前に終われ」
「努力します」
「だからその返しをやめろ」
フィアナはほんの少しだけ口元を動かした。
泣きそうな顔ではなく、やっと自分で立っている顔だった。
彼女が観測盤へ手を置く。
次の瞬間、白い光が盤の溝を走った。
塔が、低く唸る。
床へ広がった白線が、部屋の壁の目盛りと繋がる。削られたはずの記録が一瞬だけ浮かび、空中へ薄い線となって投影された。
「っ……」
フィアナの身体が揺れる。
アシュがすぐ後ろへ立ち、肩へ手を添えた。
「立てるか」
「まだ……大丈夫です」
「信用ならねえ」
「でも、見えます」
観測盤の上に現れたのは、地図だった。
山脈。灰祈りの村。旧燈写院。そこから東へ伸びる一本の細い白線。
「観測路だ」
ノアが目を細める。
白線はそこで終わっていない。さらに先へ、もう一つの点を示している。塔よりも東。山を越えた先の、小さな印。
「これが、次の……」
フィアナが呟く。
レオフが壁の浮き文字を拾うように読む。
「“第二観測点……”その先は削られています」
「第二観測点?」
ガルドが顔をしかめる。
「観測塔はここだけじゃねえのか」
「少なくとも二つはあったらしい」
レオフが答える。
「灰祈りの揺らぎを複数地点から見ていた」
アシュの眉が寄る。
「そこへイリスが向かった可能性がある」
「おそらく」
ノアが即答した。
「燈写院の断片、観測路の線、残ってる運用記録。全部繋がる」
その時だった。
観測盤の白線が一瞬だけ強く脈打つ。
次いで、光の中に別の像が重なった。
人影だ。
少女。
長い髪。細い肩。振り返らず、ただ東の線の先へ歩いていく。輪郭は曖昧なのに、首元だけがはっきり白く光っていた。
「……イリス」
フィアナの声がかすれた。
人影は答えない。
ただ、東へ進む。
そしてその背に、一瞬だけ別の光景が重なった。
白い部屋。拘束具。祈るように組まれた小さな手。誰かの声。
――まだ早い。
――器としては不安定だ。
――それでも白環は高い。
フィアナが息を止める。
「やめろ」
アシュが低く言ったのは、人影に対してか、盤に対してか、自分でも分からなかった。
ノアがすぐに観測盤の縁へ術式環を当てる。
「引きずられるな!」
青白い光が走り、盤の投影が少しだけ揺らぐ。
それでも、最後の像だけは消えなかった。
少女――イリスと思しき影が、東の点の手前で一度だけ立ち止まる。
そして振り返りかけた。
顔は見えない。
だが、その仕草だけで十分だった。
“逃げた”のではなく、“捨てきれずに進んだ”者の背中だった。
投影が崩れる。
白線が砕け、観測盤は沈黙した。
部屋に残ったのは、フィアナの荒い呼吸だけだった。
「フィアナ」
アシュが支える。
彼女はどうにか立っていたが、足元が危うい。ルゥがすぐにその脚へ身体を寄せる。
「……見えました」
フィアナは細い声で言う。
「逃げたんじゃなくて、進んでた」
レオフが静かに目を伏せる。
「少なくとも、移送前夜に消えた後も、自分で動いていた可能性が高い」
「この東の点は何だ」
アシュが問う。
ノアは観測盤の残り火みたいな光を見つめていた。
「正式名までは残ってない。でも、第二観測点と繋がってるなら、封鎖系の補助施設だ」
「施設って、どんな」
「小さい監視所か、古い隔離房か……」
ノアは少しだけ嫌そうに眉を寄せる。
「あるいは、候補を一時的に隠すための場所かもしれない」
フィアナの表情が静かに強張る。
だが今度は俯かなかった。
「そこに行けば、イリスさんの痕跡があるかもしれないんですね」
「あるいは、消された残りがな」
ノアの言い方は平坦だ。
けれど、その冷たさは必要なものだった。期待だけで動けば、次に折れるのは簡単すぎる。
ガルドが壁に背を預けたまま息を吐く。
「……行き先は決まったな」
「ああ」
アシュが短く答える。
その時、レオフがゆっくりと羊皮紙を畳んだ。
その動きに、アシュは顔を上げる。
「どうした」
「ここで、私は離れます」
静かな声だった。
だが全員がすぐに意味を理解した。
「今かよ」
ガルドが眉をひそめる。
「ちょうどいい頃合いです」
レオフは崩れた観測窓の外を見た。
「灰祈りの村、旧燈写院、観測塔。ここまでで繋がる線は拾えました。ここから先は、現地を追う側と、王都の封鎖記録を洗う側に分かれた方が早い」
「戻るのか」
アシュが問う。
「戻ります」
レオフは頷いた。
「イリス・ヴェルカの名前が残っていた以上、王都側にもまだ消しきれていない記録があるはずです。教会より先に押さえたい」
ノアがそれを聞いて小さく鼻を鳴らす。
「合理的な判断だ」
「あなたに褒められても嬉しくありません」
「別に褒めてない」
淡々としたやり取りだったが、レオフは気にした様子もない。
フィアナが小さく言った。
「……危なくないんですか」
「危ないでしょうね」
レオフはあっさり答えた。
「ですが、ここから先をあなたたちだけに押しつけるつもりはありません」
その返しに、フィアナは少しだけ目を見開く。
アシュはレオフを見る。
最初から信用していたわけじゃない。今も全部を信用したわけではない。だが少なくとも、この男はここで逃げるために離れるのではないと分かった。
「王都で動くなら、クレイグより先に押さえろ」
アシュが言う。
レオフの目がわずかに細くなる。
「第三席を意識しているんですね」
「放っておいても来る」
「ええ。私もそう思います」
レオフはそこで一度、アシュ、フィアナ、ガルド、ルゥ、ノアを順に見た。
「観測路の先は、おそらくもう“記録の場所”ではありません。現物と向き合うことになる」
「今さらだな」
ガルドが吐き捨てる。
「それでも、今までとは種類が違います」
レオフはフィアナへ視線を戻した。
「白環を持つあなたには、なおさら」
フィアナは静かに頷く。
「分かっています」
「いいえ」
レオフは珍しく、少しだけ言い方をやわらげた。
「たぶん、まだ全部は分かっていない。ですが、それでいいんです」
フィアナは小さく目を瞬かせた。
「分かったつもりで進むより、ずっとましです」
沈黙。
風が観測窓を抜ける。
アシュは外を見る。日が落ちきる前に、この塔も離れるべきだった。
「別れるなら、ここだな」
「はい」
レオフは短く応じた。
「東へ向かうのはあなたたち。私は南へ折れて王都へ戻る」
「また会えますか」
フィアナが問う。
レオフは少しだけ考えてから答えた。
「生きていれば」
「縁起でもねえな」
ガルドが言う。
「それもまた事実です」
そう返して、レオフはわずかに口元を緩めた。
ほんの僅かだったが、それだけでこの男なりに冗談を言ったつもりなのだと分かる。
「……では」
レオフは一礼した。
「ここまで案内役でしたが、次は向こうから線を繋ぎます」
アシュは短く顎を引く。
「遅れるなよ」
「努力します」
「お前もそれ言うのか」
その返しに、レオフは今度こそ少しだけ笑った。
観測塔を下りる頃には、空はもう鈍い紫に沈み始めていた。
塔の前で、レオフは足を止めた。
南へ戻るための細道へ身体を向ける。誰も引き止めない。それでいいと思った。
引き止めれば、どちらかの役目が鈍るだけだ。
「フィアナ」
去る前に、レオフが一度だけ呼んだ。
「はい」
「白環は、あなたを器にするためのものだった」
フィアナの表情がわずかに張る。
「ですが、使われ方だけがすべてではありません」
風が吹く。
「最後にどう使うかを決めるのは、持っているあなたです」
それだけ言って、レオフは踵を返した。
細い背が、夕暮れの山道へ消えていく。
見送ったあと、しばらく誰も口を開かなかった。
最初に息を吐いたのは、ガルドだった。
「……ああいうのが、いちばん長生きするかもな」
「どうだろうな」
アシュが答える。
「ロクな場所に戻ってね」
ノアが横から言う。
「お前が言うな」
そのやり取りの横で、フィアナはルゥの背を撫でていた。
白環は静かだった。だが、もう以前みたいにただ怯えるだけの顔ではない。
観測塔で見たイリスの背中が、まだ彼女の中に残っているのだろう。
「行きましょう」
フィアナが言った。
「東へ」
アシュは頷く。
ノアが先の尾根を見上げ、ガルドが弓の位置を直す。ルゥはすでに一歩前へ出ていた。
灰祈りの村を見つけた時とは違う。
旧燈写院に入った時とも違う。
今はもう、逃げながら真相に触れるだけの段階ではない。
次は、自分たちから踏み込む。
東の観測路の先へ。
イリス・ヴェルカが消えた、その続きへ。
第28話でした。
第3章の終わりとして、
観測塔で見えたものと、ここで一度別れるものを描いた回でした。
灰祈りの村の真相はまだ途中ですが、
それでも「次にどこへ行くのか」は、かなりはっきりしてきたと思います。
そしてレオフも、ここで役目を終えたわけではなく、
別の線を繋ぎに行く形で一度離脱です。
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次話もよろしくお願いします。




