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灰の王は赦されない  作者: 星喰ゆう
第3章 灰の底を踏むもの

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第27話 西の排水路

追われながら辿る道ほど、

選んだものの形をしている。

 上階の足音は、もう隠す気がなかった。


 古い板が軋み、崩れた机が蹴られる音が地下まで響く。旧燈写院の静けさは、とうに終わっていた。


「案内しろ」


 アシュが低く言う。


 ノアは頷き、地下室の西側へ走った。石棚の陰、崩れた書箱の山の奥に半ば埋もれた細い通路がある。普段なら誰も道だと思わないような、石と影の隙間だった。


「排水路だ。昔の墨洗いと雨水を流してた」


「人が通れるのか」


 ガルドが吐き捨てる。


「痩せてればな」


「てめえ、今それ言うか」


 そう言いながらも、ガルドはすでに弓を持ち替えていた。


 階段の上で何かが倒れる音がする。次の瞬間、乾いた声が落ちた。


「地下だ! 下にいる!」


 教会兵か、王国兵か。どちらにしてももう見つかっている。


「フィアナ、先に行け」


 アシュが言う。


「でも――」


「今は言う通りにしろ」


 短く断ち切ると、フィアナは息を呑み、それでも頷いた。ルゥがその足元に寄り添う。ノアが通路の入口で振り返った。


「狭い。順番を詰めろ。止まると終わる」


「レオフ」


 アシュが呼ぶ。


「紙は持ったか」


「あります」


「落とすな」


「分かっています」


 レオフは懐を押さえたまま、フィアナの後に続いた。ノアが先頭、次にフィアナ、レオフ、ガルド。アシュが最後尾に回る。


 その直後、階段の上に影が差した。


 黒衣。槍。教会兵だ。


「見つけた!」


 叫びと同時に、白い拘束線が地下へ放たれる。光の輪が石床を走り、排水路の入口を閉じようと広がる。


「ちっ……!」


 アシュは剣を抜き、踏み込んだ。


 光の起点を斬る。細い術線は断てた。だが完全には消えない。残った半円が床を這い、フィアナの足元へ伸びる。


「――拒んで」


 フィアナの声が、狭い地下で震えた。


 白環の光が彼女の足元から薄く広がる。白と白がぶつかった瞬間、乾いた破裂音が鳴った。教会の拘束線が弾け、壁へ砕け散る。


「走れ!」


 アシュが怒鳴る。


 その声に背を押されるように、一行は排水路へ雪崩れ込んだ。


 通路は狭かった。


 大人が一人ようやく身を捩じ込める幅で、壁も床も湿っている。頭上は低く、ところどころ崩れた石が肩を擦った。古い水の匂いと、墨が腐りきらずに残ったような臭いが鼻につく。


 後ろから足音が近づく。


 教会兵は排水路の存在にもすぐ気づいたらしい。石を蹴る音、鎧が擦れる音、短く抑えた怒号。狭い通路をそのまま追ってくる。


「しつけえな……!」


 ガルドが肩越しに吐き捨てる。


 アシュは最後尾で振り返り、通路の曲がり角へ剣を構えた。直後、暗がりの向こうから槍先が突き出る。速いが、狭さのせいで踏み込みは浅い。


 アシュは半歩だけ軸をずらし、槍の柄ごと斬り払った。


「ぐっ――」


 短い呻き。追手がよろめく。


 だがそれだけで終わらない。別の手が石壁の陰から伸び、今度は術具を投げ込んできた。小さな金輪。地面に落ちた瞬間、白線が爆ぜて通路を縛る型だ。


「アシュ!」


 フィアナの声。


 アシュがそれを蹴り返すより早く、横から細い青白い光が走った。ノアだ。通路の先頭から振り返りもせず、術式環だけを動かしていた。


 金輪の軌道が一瞬だけ逸れる。


 十分だった。


 アシュは壁を蹴って身を捻り、落ちる直前の金輪を剣の腹で弾き返す。術具は追手側の石床へ転がり、白い拘束線を広げて逆に教会兵の足を絡め取った。


「っ、退け!」


 叫び。もつれ。狭い通路にそれだけで渋滞が起きる。


「……助かった」


 アシュが低く言う。


 前の方から、ノアの平坦な声が返る。


「礼は外に出てからでいい」


 排水路は途中からさらに細くなり、その先でようやく上りに転じた。石段というより、崩れた壁の中を無理やり通すための穴に近い。ルゥだけは器用に先へ進み、時折振り返っては低く鳴く。


「明かりが見えます」


 レオフが言う。


 アシュは後ろを見た。追手の足音はまだ消えていない。だがさっきの術具で少しだけ間が空いた。


「外に出たら左か右だ」


 ノアが前から言う。


「正面は駄目だ。建物の裏手と繋がってる」


「だから最初から全部言え」


「言ってる暇があるならとっくに言ってる」


 短いやり取りの後、通路の先が唐突に開けた。


 崩れた石壁の裏、燈写院の西側斜面だった。岩とツタに隠れた狭い裂け目から、一行は次々と外へ転がり出る。冷たい外気が肌に刺さる。


 その場で、ルゥがすぐに別の方向へ駆けた。


「ルゥ?」


 フィアナが呼ぶ。


 ルゥは十歩ほど先の茂みで止まり、低く鳴いた。


 そこには人影が二つあった。


 レオフの部下たちだった。


 一人は木の根元に座り込み、手首を背で縛られている。もう一人は地面に横たわっていたが、意識はあるらしく、額を押さえて顔をしかめていた。


 レオフの表情が変わる。


「無事か」


「……っ、レオフ殿」


 縛られていた方が息を吐く。


「生きています」


「当たり前だ」


 ノアが横から言った。


「殺す理由がなかった」


 ガルドが振り返る。


「理由があれば殺ってたみてえな言い方だな」


「敵だと思ってた相手を、気絶させただけで済ませたんだ。十分だろ」


 ノアの声は平坦だった。


「騒がれると困ったから落としただけだ」


 地面に横たわっていた部下が、ようやく身体を起こす。


「……後ろから、急に」


「頭は」


 レオフが問う。


「大丈夫です」


「なら立てるな」


 部下は歯を食いしばりながら頷き、どうにか膝をついた。


 アシュは燈写院の裏手へ視線を向ける。建物の中からはまだ足音がしている。だが排水路の出口までは気づいていない。時間はわずかだ。


「どうする」


 ガルドが言う。


「二人も連れてそのまま走るか?」


 レオフは一瞬だけ考えた。


 すぐに決める。


「いや。お前たちはここで別れる」


 部下二人の目が上がる。


「東へ向かう本隊から少し南へ振れ。追跡が割れれば、向こうも人数を割く」


「ですが――」


「記録は俺が持つ」


 レオフの声に迷いはなかった。


「お前たちは王都側の残った連絡点へ走れ。旧燈写院が破られたこと、灰祈りの封が揺らいでいること、教会がすでに動いていること、それだけを届けろ」


 部下たちは苦い顔をしたが、反論はしなかった。


 アシュは短く言う。


「動けるなら今すぐ行け。燈写院から出てきた連中に見つかったら終わる」


 二人は頷き合い、片方がもう片方の肩を支えながら斜面の下へ消えていった。


 それを見送って、ガルドが低く息を吐く。


「思ったよりあっさり切ったな」


「本隊の人数が多すぎる方が危険です」


 レオフはそう言ったが、顔色は少し悪かった。


 ノアが上着の裾を払う。


「判断は間違ってない」


「あなたに褒められても嬉しくありません」


「褒めてない」


 その返しに、フィアナがわずかに目を瞬かせた。


 アシュは二人の間を切るように言った。


「観測塔はどっちだ」


 ノアが東の尾根を顎で示す。


「あの向こうだ。正面の山道は使えない。追跡標が多すぎる」


「別の道は」


「獣道に近いが、一つある。巡検路の残りだ」


「お前、本当に何者だ」


 ガルドがぼやく。


「消された道を読む流れ者だよ」


 ノアは平然と言う。


「便利そうに聞こえるが、だいたいロクな場所へ着かない」


「今がまさにそうだな」


 アシュが吐き捨てる。


 その時、燈写院の西壁の向こうで何かが砕ける音がした。排水路の出口に気づかれたのかもしれない。もう長居は無理だ。


「行くぞ」


 アシュが言う。


 ルゥがすぐに先へ走り、フィアナがその後を追う。レオフが懐の羊皮紙を確かめ、ガルドは弓を握り直した。ノアだけが一瞬、旧燈写院を振り返る。


「まだ残ってる箱もあったのにな」


「未練か」


「少しだけな」


「そんなもん置いてけ」


「そうする」


 言葉ほどあっさりした顔ではなかったが、ノアはすぐに前を向いた。


 一行は燈写院の裏手からさらに東へ回り込み、尾根へ続く細い巡検路へ入った。道とは名ばかりの斜面で、足元は崩れやすく、片側はそのまま谷へ落ちている。


 夕方が近づき、空の色が少しずつ薄青から鈍い金へ変わっていく。


 フィアナの呼吸は重い。だが止まらない。ルゥも時折立ち止まり、彼女の足元へ戻っては先を急がせるように鳴いた。


 ノアは先頭で道を選びながら、ふいに言った。


「観測塔には、記録だけじゃなく観測具も残ってるかもしれない」


 アシュが眉を寄せる。


「何が見える」


「封印の揺らぎ、加護の偏り、あるいは祈骸に引かれた線」


 フィアナが小さく息を呑む。


「そんなものまで分かるんですか」


「ちゃんと動けばな」


 ノアは振り返らずに答えた。


「逆に言えば、まだ動いてるなら厄介だ」


「嬉しくねえ情報ばっかだな」


 ガルドのぼやきに、今度はノアも少しだけ口元を歪めた。


「そういうものしか追ってないからな」


 日が傾く頃、尾根の先にようやくそれが見えた。


 木々の切れ目の向こう。東の崖縁に、細長い塔が一本、立っている。


 礼拝堂とも城塞とも違う。余計な装飾のない、観るためだけに作られた石の柱。


「……あれか」


 アシュが低く言う。


 ノアが頷く。


「観測塔だ」


 風が、塔のある方角からまっすぐ吹いてきた。


 冷たい。だが灰祈りの村で嗅いだのとは違う。もっと乾いて、もっと遠くを見るための風だった。


 それでもアシュは、その風の底に薄く混じった嫌な気配を見逃さなかった。


 終わりに近づいている気配ではない。

 まだ見えていない何かへ、確実に近づいている気配だ。

第27話でした。


旧燈写院から抜けて、

ようやく次の場所――観測塔が見えてきました。


今回は逃走と合流の回でしたが、

ただ人数が増えただけではなく、

次に何を見に行くのかが少しはっきりした回でもあったと思います。


もし面白かったら、


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などいただけると嬉しいです。


次話もよろしくお願いします。

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