第3話 礼拝堂の獣
第3話です。
逃亡の夜、二人の前に現れたのは――
“普通ではない魔物”でした。
夜の森の奥で、何かがこちらを見ていた。
焚き火の光が届かない闇の中。
気配だけが、じっと息を潜めている。
アシュは剣の柄に手をかけたまま、動かなかった。
先に動いた方が不利になる。
それは人間でも、獣でも、魔物でも同じだ。
「……アシュ」
フィアナの声が、わずかに強張る。
「下がってろ」
短く言うと、彼女は素直に一歩引いた。
火が小さく爆ぜる。
その音に合わせるように、闇の中で枝が揺れた。
次の瞬間、低い影が一気に飛び出してくる。
速い。
だが、読めないほどじゃない。
アシュは半歩だけ身をずらし、抜き打ちの一閃を放った。
鋭い衝突音が夜に弾ける。
手応えが、浅い。
「……硬いな」
距離を取った影が、火の届く場所に姿を現した。
それを見て、フィアナが息を呑む。
「え……」
獣だった。
大きさは中型犬ほど。
白い毛並みはすすをかぶったように薄く汚れているが、月と火を受けた輪郭には、かすかに銀めいた光沢がある。耳はやや長く、尾はふさふさとしていた。
だが普通の獣と違うのは、その目だった。
淡く透き通った、冷たい青。
獣の目にしては妙に澄みすぎている。
「……魔物、ですか」
フィアナが小さく呟く。
「そのはずだ」
アシュは視線を逸らさないまま答えた。
だが違和感がある。
魔物にしては殺気が薄い。
襲うつもりなら、さっきの飛び込みで喉を狙っていたはずだ。
だがこいつは違った。
試した。
そんな動きだった。
獣――いや、魔物は低く唸りながらも、すぐには飛びかかってこない。
焚き火を挟んで、じっとこちらを見ている。
その視線が、一度だけアシュから外れた。
フィアナの方へ向く。
瞬間、アシュの身体が自然に動いた。
彼女の前に立つ。
「下がれ」
フィアナが息を呑む。
だが次の瞬間、魔物の方が先に動いた。
飛びかかったのはアシュでもない。
フィアナでもない。
――焚き火の脇に置いてあった水袋だった。
「……は?」
思わず、アシュが間の抜けた声を漏らす。
魔物は水袋を咥え、そのまま二、三歩飛び退く。
そしてしばらくこちらを警戒するように見たあと――ぺたり、と座った。
フィアナが瞬きをする。
アシュも数秒、何も言えなかった。
「……何してるんだ、お前は」
低く呟く。
魔物は答えない。当然だ。
ただ、水袋を前脚で押さえたまま、じっとフィアナを見ている。
警戒心はある。だが敵意は薄い。
それが余計に気味が悪かった。
「……変です」
フィアナが小さく言った。
「普通の魔物じゃ、ありません」
「見れば分かる」
「いえ、そうじゃなくて……」
フィアナは戸惑ったように視線を揺らす。
「この子……私を見ています」
「それも見れば分かる」
「そういう意味ではなくて……」
言い淀んでから、彼女はそっと首元へ手を当てた。
神子候補の刻印がある場所だ。
「……怖がっていないんです」
その言葉に、アシュの眉がわずかに動く。
「普通、魔物は加護持ちを嫌います。刺激されるから」
「だが、こいつは違うと?」
フィアナは小さく頷いた。
「むしろ……近寄ってきている気がします」
意味が分からなかった。
魔物が人に懐くこと自体、まずありえない。
まして神子候補のような存在に寄ってくるなど、普通ならもっと荒れるはずだ。
だが目の前の獣は、水袋を抱えたまま座り込み、ただフィアナを見ている。
まるで、ずっと探していたものをようやく見つけたみたいに。
「……気味が悪いな」
アシュがそう言うと、魔物の耳がぴくりと動いた。
そして次の瞬間、そいつは露骨に嫌そうな顔をした。
「……今、嫌がったか?」
「嫌がりましたね」
少しだけ間があった。
フィアナが、ほんの少しだけ口元を緩める。
今まで見せたことのない、年相応の笑みに近かった。
それを見てしまって、アシュは何とも言えない顔になる。
「近づくな」
釘を刺すように言う。
「でも」
「魔物だぞ」
「分かっています」
そう言いながらも、フィアナはゆっくりと一歩前に出た。
アシュは舌打ちしそうになるのを堪える。
「アシュさん」
「何だ」
「この子、置いていけません」
「駄目だ」
即答だった。
「早いですね」
「当たり前だろ」
アシュは本気で言っている。
「俺たちは逃亡中だ。魔物なんか連れて歩けるか」
「でも、怪我をしています」
「だから何だ」
「見捨てるんですか」
その一言に、アシュは一瞬だけ言葉を失った。
最悪の聞き方だった。
フィアナもそれに気づいたらしく、少しだけ気まずそうに視線を逸らす。
「……すみません」
「……」
「でも」
彼女は魔物の頭を撫でたまま、静かに言う。
「この子、私たちと同じです」
「何がだ」
「追われて、怪我をして、ひとりでいた」
アシュは答えなかった。
答えられなかった、の方が近い。
焚き火の向こうで、獣がじっとこちらを見返してくる。
その青い目は、獣らしくないほど静かだった。
やがてアシュは、深く息を吐く。
「……朝までだ」
フィアナが顔を上げる。
「え?」
「それまで様子を見る」
「それって――」
「勘違いするな。置いていくかどうかは朝決める」
フィアナの顔が、ぱっと明るくなった。
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはない」
そう言いながら、アシュは少しだけ視線を逸らした。
その様子を見ていた獣が、唐突に水袋を咥えたままアシュの方へ二歩ほど近づいてくる。
そして、ぽとりと足元へ落とした。
「……何だこれは」
フィアナが少しだけ笑いを堪えた声で言う。
「たぶん、仲良くしたいんだと思います」
「馴れ合うつもりはない」
即答だった。
だが獣は気にした様子もなく、再びフィアナのそばへ戻って丸くなる。
焚き火のそばで、白い毛並みがゆっくり上下していた。
完全にくつろいでいる。
「……図太いな」
「少し似てるかもしれません」
「誰にだ」
フィアナは答えず、ただ小さく笑った。
年相応で、少しだけ無防備だった。
そんなふうに笑う顔を、アシュはまだ知らなかった。
アシュはそれを見て、なぜか落ち着かない気分になる。
フィアナは、足元で丸くなった白い獣を見つめた。
「……ずっと“この子”って呼ぶのも変ですね」
アシュが眉を寄せる。
「名前でもつける気か」
「だめですか?」
「魔物だぞ」
「でも、もう離れない気がします」
「朝までだと言ったはずだ」
「朝になっても、たぶんついてきますよ」
そう言ってフィアナが小さく笑うと、獣は耳をぴくりと動かした。
少しだけ考えるように視線を落としてから、彼女はそっと口を開く。
「……ルゥ、はどうでしょう」
獣が顔を上げる。
淡い青の目が、まっすぐフィアナを見た。
「……反応したな」
アシュが低く呟く。
フィアナは少しだけ嬉しそうに、その頭を撫でる。
「気に入ったみたいです」
「ただ音に反応しただけかもしれない」
「それでも構いません」
フィアナはそう言って、もう一度呼ぶ。
「ルゥ」
今度は、白い獣が小さく喉を鳴らした。
アシュは数秒それを見てから、諦めたように小さく息を吐く。
「……勝手にしろ」
焚き火の向こう。
少女と獣が並んでいる光景は、この夜の空気にはひどく不釣り合いだった。
それでも――少しだけ、悪くないと思ってしまった。
その時だった。
ルゥの耳が、ぴくりと動く。
次の瞬間、身体を起こして森の奥を睨んだ。
アシュの表情が変わる。
「どうした」
問いかけても答えはない。
だが今度はアシュにも分かった。
気配が、増えている。
ひとつではない。複数だ。
しかも、さっきまでの“様子見”の気配じゃない。
もっと濃い。
もっと近い。
そして、その中には――人の気配も混じっていた。
アシュはゆっくりと立ち上がる。
焚き火の向こうで、フィアナも表情を強張らせた。
「……追手ですか」
「いや」
アシュは低く言った。
「それだけじゃない」
森の奥で、木々の隙間にいくつもの影が揺れた。
低い唸り声。
湿った土を踏む音。
そして、そのさらに奥から聞こえる、甲冑の擦れる音。
魔物と、人間。
両方だ。
最悪の組み合わせだった。
ルゥが、フィアナの前に立つ。
毛を逆立て、小さく唸る。
その姿を見て、アシュはほんのわずかに目を細めた。
「……お前」
ルゥは振り返らない。
ただ、闇の奥を睨み続けている。
フィアナが、かすかに呟く。
「守ろうとしてる……?」
アシュは剣を抜いた。
銀の刃が、焚き火の光を受けて冷たく光る。
「フィアナ」
「はい」
「火から離れるな」
「……分かりました」
アシュは視線を前に向けたまま、低く言う。
「どうやら、休ませてはくれないらしい」
闇が、ゆっくりとこちらへ滲んでくる。
夜はまだ、終わらない。
第3話でした。
ルゥ、登場です。
次話からは、
ルゥの正体の違和感
追手との圧
逃亡の緊張感
がもう一段強くなっていきます。
もし少しでも
「続きが気になる」
「ルゥが気になる」
と思っていただけたら、
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