第25話 残された頁
消されたはずの記録ほど、
いちばん深いところに残る。
旧燈写院は、近くで見るとさらに奇妙な建物だった。
山の斜面に半ば埋もれるように建ち、石の壁は黒ずみ、窓は少なく細い。礼拝堂のような祈りの場所ではない。砦とも違う。どちらかと言えば、何かをしまい込むためだけに形を与えられた箱に近かった。
「……嫌な建物だな」
ガルドが低く言う。
「同感です」
レオフはそう返しながら、正面入口の脇に残る紋様を指先でなぞった。
風雨に削れてほとんど判別できないが、円環を幾重にも重ねた古い印がまだ石に残っている。今の教会紋より装飾が少なく、冷たい。
「写本庫であると同時に、封鎖記録の保管所でもあったようです」
「保管所、ね」
アシュは剣の柄に手をかけたまま、建物全体を見た。
静かすぎる。
鳥もいない。風は吹いているのに、建物の周りだけ音が吸われるみたいに薄い。ルゥも正面扉の前で止まり、白い毛を逆立てていた。淡い青い瞳が、暗い入口の向こうをじっと見ている。
「生き物の気配は」
アシュが問うと、レオフは首を横に振った。
「少なくとも表にはありません」
「表には、か」
ガルドが鼻を鳴らす。
「便利な言い方だな」
「正確なだけです」
レオフは扉に手をかけた。
鍵は壊れていた。最近壊されたものではない。だが問題はそこじゃない。扉の縁に、うっすらと白い粉が残っている。木片でも石屑でもない。
アシュはしゃがみ込み、それを指先で擦った。
「……削った跡か」
「古い封止具の残りでしょう」
レオフが言う。
「無理に開けた者がいたようです」
ガルドが顔をしかめる。
「先客あり、ってか」
その一言で空気がさらに張る。
教会か。王国か。あるいは、それ以外か。
「お前たちは外の警戒を頼む。」
レオフが部下に指示をする。
「入るぞ」
アシュが短く言った。
扉を押すと、軋んだ木が重く開いた。中から湿った紙と古い墨の匂いが流れ出る。
旧燈写院の内部は薄暗かった。
高い天井。左右へ並ぶ長机。折れた燭台。崩れた棚。床には羊皮紙の切れ端と、砕けた木片が散らばっている。かつては静かに筆を走らせる人間が大勢いたのだろうが、今はその気配すら死んだまま残っていた。
フィアナが小さく息を呑む。
「……まだ、匂いがします」
「何のだ」
「墨と……加護の残りみたいなものです」
アシュの目が細くなる。
白環の加護が、こういう場所に来るたび反応する。それはもう偶然ではなかった。
レオフは崩れた棚の間を慎重に進み、床の一点で足を止めた。
「やはり」
「何だ」
「足跡です」
アシュも近づく。
薄い埃の上に残る跡は、一つではない。古いものは判別できないが、比較的新しい靴底の線が二種類ある。
「二人分か」
「おそらく」
レオフが頷く。
「しかも荷を持っていた。重心が深い」
ガルドが低く唸る。
「記録だけ抜いて帰ったんなら最悪だな」
「まだ分かりません」
そう言いながらも、レオフの声には少しだけ急きが混じっていた。
一行は建物の奥へ進んだ。
表の書架は半ば崩れていたが、紙の山すべてが無意味なわけではない。レオフは古い索引板を拾い上げ、削れた文字を読もうとする。ガルドは周囲を警戒し、アシュは進路と退路を頭の中で組み替える。フィアナはルゥとともに、どこに反応が強いかを探っていた。
「こっちは駄目です」
フィアナが棚の列の一つを見て言う。
「頁そのものが抜かれてます」
「こっちもだな」
ガルドが別の机の上に散る羊皮紙を睨む。
「わざわざ関係ありそうなとこだけやってやがる」
アシュは荒らされた書架を見る。
偶然ではない。探しているものがある人間の崩し方だ。
その時、ルゥが低く鼻を鳴らし、建物の奥の壁際へ向かった。崩れた棚の陰、ほとんど壁に見える石面の前で止まる。
「どうした」
アシュが近づくと、ルゥは前足で床を掻いた。
そこだけ埃が薄い。
レオフが目を細める。
「隠し扉です」
「本当に見られたら嫌なもんがあるみたいだな」
ガルドが吐き捨てる。
壁の下部に小さな穴があり、その周囲に古い円環紋が刻まれていた。アシュが触れようとした瞬間、フィアナが小さく声を上げる。
「待ってください」
彼女は扉の前へ来て、石に指先を近づけた。
白環の紋が首元で淡く灯る。
「ここ……反応があります」
「開けるなってことか」
「違います」
フィアナは静かに首を振る。
「開けるために、触れさせる形です」
アシュの顔が険しくなる。
「嫌な作りだな」
「はい」
フィアナも同意した。
「でも、開けられると思います」
「危なくなったらすぐ離れろ」
「分かっています」
彼女が石面へ手を置くと、白い光が細い線になって紋様を走った。
次の瞬間、石壁の継ぎ目から乾いた音がして、隠し扉がわずかに沈む。重たい石がずれる音とともに、下へ降りる細い階段が現れた。
冷たい空気が吹き上がる。
湿った土と、古い皮装丁の匂いがした。
「……下か」
アシュが低く言う。
「行くぞ」
階段は狭く、足場も悪かった。
先頭をルゥ、次にアシュ、その後にフィアナ、レオフ、最後尾をガルドが取る。地下は予想以上に深い。灯りの届かない闇が、階段の先で口を開けているみたいだった。
やがて辿り着いた地下室は、思っていたより広かった。
低い天井。石の棚。湿気で膨らんだ書箱。金具のついた保管箱がいくつも並び、その大半は開けられた痕がある。ここまで来た先客は、表の棚荒らしではなく、最初からここを目指していたのだと分かった。
「最悪だな」
ガルドが呟く。
「やられてる」
「全部ではありません」
レオフがすぐに言った。
彼はしゃがみ込み、床に落ちた封印札の切れ端を拾う。
「急いでいた。持ち出せるものだけ持ち出している」
「なら、残りを漁るか」
アシュは棚の並びを見た。
地下室の中央に、一段高くなった石台がある。そこだけ灰色の布がかぶせられていた。布には焼け焦げた穴が開いている。
フィアナの呼吸が少し浅くなる。
「……あそこです」
ルゥも同じ方向を見ていた。
石台の上には、金具で閉じられた薄い書箱が一つだけ残っていた。表面には、削られきらなかった文字がある。
レオフが顔色を変える。
「白環候補管理録」
アシュの目が止まる。
「そのままだな」
「そのまま残っているのが異常です」
「罠か」
「可能性は高い」
ガルドが弓を構え直す。
「どうする」
「開けるしかありません」
レオフが答える。
「ここまで来て手を引く理由がない」
アシュは石台へ近づき、金具を確かめた。
外からの鍵は壊されている。だが箱そのものに触れると、指先の奥がひどく冷えた。封印か、それに類するものがまだ生きている。
「フィアナ」
「はい」
「またお前の加護に絡んでる」
「……そうですね」
フィアナは箱の前で息を整える。
そして、ルゥが彼女の足元へ寄った。
「無理ならやめろ」
「やめません」
「即答だな」
「ここまで来たので」
その答えに、アシュは何も返さず半歩だけ横へ退いた。
フィアナが箱へ手を触れた瞬間、白環の光が細く走る。
ぱち、と乾いた音。
金具が外れた。
だが次の瞬間だった。
地下室の空気が一気に張り詰める。
「下がれ!」
アシュが叫ぶより早く、石台の周囲へ白い線が浮かび上がった。幾重もの円が床に広がり、遅れて細い光の糸みたいなものが箱から飛び出す。
フィアナの手首へ絡みつこうとしたそれを、アシュが剣で弾いた。
甲高い音が鳴る。
「っ……!」
糸は一本ではない。二本、三本、さらに四本。空中で生き物みたいにうねりながら、フィアナの首元の紋を目指してくる。
「封鎖術か!」
レオフが叫ぶ。
「候補を認識して固定するタイプです!」
「最悪じゃねえか!」
ガルドが吐き捨て、矢を放つ。
矢は糸を正確に射抜いたが、完全には止まらない。糸は矢を絡め取り、床へ叩き落とした。
ルゥが飛ぶ。
白い身体が糸の束へ噛みつき、強引に引きずる。じゅ、と焼けるような音がして、ルゥが低く唸った。
「ルゥ!」
フィアナが前に出かける。
「出るな!」
アシュが腕を伸ばし、彼女を止めた。
次の瞬間、別の糸がアシュの剣へ絡む。重くはない。だが嫌な感触だった。斬るたびに、こっちの力を奪うような抵抗がある。
「……生け捕り用か」
アシュが低く吐く。
候補を殺さず、逃がさず、固定するための術。こんな古い保管箱にまでそれが仕込まれている。胸の奥が冷たくなる。
「フィアナ、拒めるか!」
「やります!」
彼女は両手を胸元で重ねた。
白環の光が、今度は守る形ではなく、押し返す輪になって広がる。地下室の石壁が淡く照らされ、糸の動きが一瞬だけ鈍った。
「今だ!」
アシュが踏み込み、剣を振るう。
光の糸の束をまとめて断ち切る。ルゥがその隙に飛び退き、ガルドの二射目が残った糸の根元を穿つ。糸は震え、それでもまだ箱の奥から新しく這い出そうとする。
「レオフ!」
アシュが叫ぶ。
「中身だけ抜け!」
「やっています!」
レオフは石台の横から手を伸ばし、書箱の中の束を強引に引き抜いた。次の瞬間、術式の光が一気に乱れる。
フィアナの白環がもう一度強く走った。
輪が閉じる。
地下室に張り巡らされていた白い線が、音もなく砕けるように消えていった。
静寂。
全員の呼吸だけが残る。
ガルドが肩で息をしながら言う。
「記録庫ってのは、どこもこんな趣味してんのか」
「ここは特別ひどい方です」
レオフが膝をついたまま答える。
手元には、焦げかけた羊皮紙の束があった。完全な冊子ではない。だが数枚は残っている。
アシュはすぐにフィアナを見る。
「怪我は」
「大丈夫です」
「ルゥは」
ルゥは小さく鼻を鳴らした。前脚の毛が少し焦げていたが、大きな傷ではないらしい。
「無茶しやがって」
ガルドが言うと、ルゥは知らないふりをした。
レオフが羊皮紙を開く。
古い文字。擦れた行。削られた名。だが、消し損ねた部分が残っている。
「……ありました」
その一言で、全員の視線が集まる。
レオフは破れた紙の一行を指先で押さえた。
「候補番号ではなく、名で記されています。珍しい」
「読めるのか」
「一部だけ」
レオフは低く読み上げた。
「“イリス・ヴェルカ。白環適合、高位。移送前夜、消失”」
フィアナの指先が小さく震える。
「消失……」
「その次が削られています」
レオフは紙をめくる。
次の頁は半分焼けていた。だが余白に、別人の走り書きらしい線が残っている。
アシュが目を細めた。
「それは記録か」
「違う。後から足したものです」
レオフは文字を追う。
「“候補は北へ向かわず”……その先が擦れている」
ガルドが苛立たしげに言う。
「肝心なとこ全部削りやがって」
「待ってください」
フィアナが小さく言った。
彼女は焼けた頁を見つめている。白環の紋がまた微かに灯っていた。
「その下……まだあります」
「見えるのか」
「見えるというより、浮いてくる感じです」
彼女が指先を頁の上へかざすと、薄い白い線が焦げ跡の下をなぞった。
消えかけた文字が、ほんの一瞬だけ浮かぶ。
「……“北へ向かわず、東の観測路へ”」
レオフが息を止める。
「観測路」
「何だそれは」
アシュが問う。
レオフはすぐに答えなかった。
その代わり、別の紙束を探るように視線を走らせる。
「古い巡検路です。封鎖地点の揺らぎを測るための道」
「そんなもん、まだ残ってんのか」
「残っているから消される」
レオフは短く言った。
そして、もう一枚の破れた紙を引き出す。
そこには簡略な線図が描かれていた。山筋と、細い道。その先に小さな塔の印。
「……観測塔」
彼の声が低くなる。
「旧燈写院だけでは終わらなかったらしい」
アシュは紙を見る。
同時に、地下室の空気がまたわずかに変わった。
ルゥがぴたりと顔を上げる。
淡い青い瞳が、階段の方を睨んだ。
「どうした」
問いかけた次の瞬間、上階で乾いた音がした。
板が軋む音。
誰かが、入った。
全員の空気が張る。
ガルドが弓を持ち上げる。アシュは剣を抜き、フィアナを背で庇うように半歩前へ出た。レオフは紙束を咄嗟に懐へ押し込む。
上から足音が一つ、また一つ。
重くない。兵の足ではない。
だが軽すぎもしない。慣れている歩き方だ。
「……先客、じゃなかったか」
ガルドが低く吐く。
足音は止まらない。
崩れた書架の向こう、階段の入口まで近づいてくる。
そして、地下へ差し込む細い光の縁に、ひとつの影が落ちた。
第25話でした。
残っていたのは、完全な答えではなく、
消しきれなかった頁の断片でした。
でも、断片だからこそ、
かえって次へ繋がる感じが強く出た気がします。
旧燈写院の底で見つかったものと、
最後に現れた気配。
ここからまた少し、話が動いていきそうです。
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