第23話 消え残った名
消しきれなかったものだけが、
次の道になることがある。
イリス・ヴェルカ。
その名が出てからしばらく、礼拝堂の中では誰も動かなかった。
崩れた天井の隙間から差す光が、古い羊皮紙の上を細く照らしている。埃の匂い。乾いた木の匂い。その奥に、まだ灰祈りの村の灰の匂いが残っていた。
「……逃げた白環候補が、一人だけいた」
ガルドが低く言う。
「しかも記録に名が残ってる」
「残ってしまった、が近いでしょう」
レオフは訂正した。
「消すつもりだった形跡はあります。ですが、完全には消しきれなかった」
「なら、まだ追えるってことだな」
アシュが言うと、レオフは静かに頷く。
「可能性はあります」
「可能性じゃ弱い」
「それでも、ないよりは遥かに強い」
淡々とした返答だった。
感情の乗らない声だ。だが、投げている感じとも違う。分からないものを分からないまま持ってきた人間の声だった。
フィアナはルゥの背を撫でながら、ゆっくり息を吐いた。
「その人が生きているなら……会えるかもしれないんですね」
「生きていれば、です」
レオフは言った。
「ただ、移送記録が途切れた場所は残っています」
そこで彼は、先ほどの羊皮紙とは別の紙束を懐から取り出した。折り目だらけの古い地図だった。街道や村落の名が書かれているはずのところに、削られた痕がいくつもある。
アシュは眉を寄せる。
「また消されてるのか」
「灰祈りに繋がる線は、ほとんどこうです」
レオフが指先で地図の端をなぞる。
「表の街道からは外され、巡礼路からも消され、最後には名前だけが欠ける。ですが、古い複写の重ね合わせで、どうにか拾えたものがあります」
指先が止まる。
「旧燈写院」
フィアナがその名を小さく繰り返した。
「旧燈写院……」
「昔の写本庫です。祈祷文と封鎖記録、移送記録の控えが置かれていた」
ガルドが鼻で息を鳴らす。
「そんな場所がまだ残ってたのかよ」
「残っている、というより捨てられたに近い」
レオフの声は静かだった。
「記録を消す時、すべてを燃やすより、辿れない場所に沈める方が都合がいいこともある」
「胸くそ悪い理屈だな」
「同感です」
即答だった。
礼拝堂の空気がまた少しだけ張る。
アシュは地図を見る。旧燈写院は、灰祈りの村から北西へ外れた山沿いにあった。まともな街道は繋がっていない。わざと残された袋小路みたいな場所だ。
「そこにイリスが?」
「断定はできません」
レオフは首を振る。
「ですが、移送記録の最後の中継印がその近辺で切れている。記録が消されている以上、偶然と片づけるには出来すぎています」
フィアナは地図を見つめたままだった。
「行くしかないですね」
その声は静かだったが、迷いは薄い。
アシュは彼女を見た。
「即答か」
「……怖いです」
フィアナは視線を落とさずに言う。
「でも、今ここで立ち止まっても、次に何をされるか分からないままです」
「分からないままの方が楽なこともある」
「そうですね」
フィアナは頷く。
「でも、今回は違います」
その言い方に、アシュは何も返さなかった。
代わりに、腰につけた袋に手を入れる。
硬いガラスの感触が指先に触れる。黒い液体の入った小瓶。一本、二本、三本――
残りは四本。
礼拝堂の薄明かりの中で、その数だけが妙にはっきりした。
「……それ」
フィアナの声だった。
アシュが顔を上げると、彼女が小瓶を見ていた。
「いつも飲んでいるもの、ですよね」
「見れば分かるだろ」
「何なんですか」
アシュは小瓶を戻しかけて、止まる。
ここまで来て誤魔化す意味も薄い。隠したところで、いずれ見られる。
「灰鎮薬だ」
短く答える。
フィアナが少しだけ目を細める。
「痛み止め……ではないんですね」
「痛みを消してるわけじゃねえ」
アシュは壁にもたれずに立ったまま言った。
「灰刻は、身体を強引に引き上げる。異常と斬り合うために、こっちの境まで削る。だから終わった後に、そのままだと内側から崩れる」
ガルドが横で顔をしかめる。
「前から思ってたが、ろくでもねえな」
「ろくでもないから切り札なんだろ」
アシュは吐き捨てるように言った。
「これは、その崩れ方を遅らせるだけだ」
「治すものじゃないんですね」
フィアナの声は静かだった。
「ああ」
「あと、何本あるんですか」
アシュは一瞬だけ黙った。
言う必要があるのかと考えた。だが今、隠す方が面倒だと思った。
「四本」
フィアナの表情がわずかに変わる。
「そんなに多くないですね」
「多くないと思うなら、お前が無茶しなきゃいい」
「どうしてそういう言い方になるんですか」
「事実だからだ」
その返しに、ガルドが小さく鼻を鳴らした。
「言い返し方が雑なんだよな、お前」
「うるせえ」
「でも、前よりは少し分かりやすいです」
フィアナまで乗ってきて、アシュは眉を寄せる。
「お前らな」
短いやり取りだった。
それでも、さっきまで礼拝堂を満たしていた息苦しさがほんの少しだけずれる。
レオフがその空気を見計らったように口を開いた。
「旧燈写院へ向かうなら、今日中に礼拝堂を出るべきです」
「追手か」
「教会も王国も、もう動いていると考えた方がいい」
レオフは地図を畳む。
「灰祈りの封が揺らいだ。白環の器が逃げている。祈骸の記録が残っていた可能性まである。静観する理由がありません」
ガルドが弓を取る。
「だったらなおさら急ぐか」
「だが表の街道は使えねえな」
アシュが言うと、レオフは頷いた。
「山沿いの旧巡礼路を使います。崩れている場所も多いが、目は少ない」
「そんな道、あんた本当に歩けるのか」
ガルドが露骨に怪しむ。
レオフは肩を竦めた。
「歩けなければ、ここまで来ていません」
「文官にしちゃ骨があるじゃねえか」
「褒め言葉として受け取っておきます」
軽口にもならない応酬だったが、場が少しだけ動いた。
フィアナはルゥの頭をそっと撫でる。
ルゥは淡い青い瞳で彼女を見上げ、一度だけ小さく喉を鳴らした。
「行けそうか」
アシュが問うと、フィアナは頷く。
「はい」
「無理なら言え」
「言います」
「本当か?」
「……たぶん」
その返しに、ガルドが吹き出しかけて、咳払いで誤魔化した。
アシュは深く息を吐き、外套の留め具を直す。
「じゃあ行くぞ」
礼拝堂の板戸を押し開けると、冷えた朝の空気が流れ込んできた。
風は強くない。空は高く薄い。だが、どこか静かすぎた。
ルゥが先に外へ出る。
白い毛並みが朝の光を受けて淡く浮かび、その背がぴたりと止まった。
「どうした」
アシュが問うより早く、ルゥの喉が低く鳴る。
全員の空気が一瞬で張る。
レオフが視線を細めた。
「……道の方です」
礼拝堂の前、崩れた石段の先。
道端に立つ古い道標の根元へ、何かが打ち込まれていた。
アシュはすぐに前へ出る。レオフが止めるより先に、その周囲の土と空気を観察する。
封具ではない。
だがただの杭でもなかった。
黒ずんだ短い鉄片。表面に、細い白線が刻まれている。
フィアナの顔色がわずかに変わる。
「これ……」
「知ってるのか」
「教会の術具に似ています。でも、少し違う」
レオフが膝をつき、鉄片を確認した。
「追跡標だ」
「追跡?」
「魔力の残滓を拾うための簡易具です。高位のものではない。ですが、ここに打たれているということは」
ガルドが舌打ちする。
「もう近くまで来てるってことか」
「少なくとも、この礼拝堂は見つけられたと考えるべきです」
アシュの目つきが変わる。
「誰が置いた」
「教会寄りの人間でしょう」
レオフは立ち上がった。
「王国の記録局が使うものではない」
「なら、もう休んでる時間はねえな」
ガルドが弦を弾いて確かめる。
「山道に入るぞ」
レオフが頷く。
「急げば半日。遅れれば、向こうが先に燈写院へ入る可能性が高い」
「入られたらどうなる」
フィアナが問う。
「残っている記録も、痕跡も、全部消されるかもしれません」
その答えに、彼女の青い瞳が静かに強くなる。
「なら、急ぎましょう」
アシュは短く顎を引いた。
旧燈写院。
イリス・ヴェルカ。
白環の加護。
そして、もう近くまで来ている追跡の手。
息を吐く間もなく、次の道が決まっていく。
灰祈りの村を出ても、追うものは消えない。
それでも今は、追われるだけでは終われなかった。
第23話でした。
消されたはずの名前が、
次の行き先を決めるものになる。
そういう形で、ようやくひとつ道が見えてきました。
知ってしまったことを抱えたままでも、
止まらずに進むしかない。
今回はそんな回だったと思います。
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