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灰の王は赦されない  作者: 星喰ゆう
第3章 灰の底を踏むもの

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第22話 白環の器

祈りは、

時々、檻の形をしている。

 “蓋が損なわれた時、白環の加護を持つ器をもって代えるべし”


 読み上げられた一文だけが、礼拝堂の中に重く残っていた。


 誰もすぐには言葉を継げない。


 崩れた天井の隙間から差す朝の光が、薄く羊皮紙の端を照らしている。埃の舞う静かな空間なのに、息を吸うたび胸の内側がざらついた。


「……器ってのは」


 最初に口を開いたのは、アシュだった。


 声音は低い。だが抑えているだけで、怒りが消えているわけではない。


「そのままの意味か」


 レオフは羊皮紙から目を離さず、短く答えた。


「はい」


 ガルドの顔が歪む。


「ふざけんな」


「ええ」


 レオフは否定しなかった。


「私も、そう思います」


 その落ち着いた返答が、余計に腹立たしい。


 ガルドは吐き捨てるように息を鳴らしたが、それ以上怒鳴らなかった。怒鳴ったところで覆らないと、もう分かってしまった顔だった。


 フィアナは何も言わない。


 白い指先だけが、胸元の布を小さく握っていた。


 アシュは羊皮紙へ視線を落とす。古い文字はほとんど読めない。だが、読めなくても分かることはある。これは昔話でも伝承でもない。実際に誰かがそう決め、残し、使うつもりで書いた文だ。


「白環の加護ってのは、何なんだ」


 問いに、レオフはようやく顔を上げた。


「一般に加護は、守りや祝福として理解されています。ですが白環は少し違う」


「どう違うんですか」


 フィアナの声は静かだった。


 震えてはいたが、逃げてはいない。


 レオフは彼女を見た。


「白環は、境を引く加護です」


 礼拝堂の奥で、ルゥが低く喉を鳴らす。


「外からのものを拒む。それもあります。ですが本質はそこだけじゃない。むしろ――内と外を混ぜないためのものです」


 フィアナの目がわずかに見開かれる。


「混ぜない……」


「本来、交わるべきではないものを、ひとつの器に保つための境界」


 アシュの眉が寄る。


「守るための力じゃねえのか」


「守ることもできます」


 レオフは言った。


「ですが、最初からそれだけを目的に与えられるものではない」


 フィアナは無意識に首元へ手をやった。


 そこに刻まれた紋が、見えない熱を持ったように彼女の指の下で沈黙している。


「では……私の加護は」


 彼女の唇が、少しだけ乾いた。


「私を守るためのものでは、なかったんですか」


 その問いに、レオフはすぐには答えなかった。


 言葉を選んでいるというより、誤魔化せないと知って黙ったように見えた。


「……器として保つための力です」


 短く、だがはっきりとした答えだった。


 フィアナの指先が止まる。


 アシュの中で、何かが冷たく軋む。


 これまでフィアナが見せてきた拒絶、拘束、押し返すような光。その形が今になって最悪の意味で繋がる。あれは護りの力である前に、閉じ込めるための力だった。


「じゃあ神子候補ってのは」


 アシュが低く言う。


「神に選ばれたとか、そういう綺麗な話じゃねえな」


「ええ」


 レオフは頷いた。


「適性です」


「何の」


「受けるための」


 その一言で、礼拝堂の空気がさらに重くなる。


「穢れ、異常、祈りの残滓、あるいはもっと古い何か。それらに触れても壊れにくい子どもが候補として拾われる」


 ガルドが低く唸るように言った。


「拾う、だと」


「選ぶ、でも構いません。ですが、していることは大差ありません」


 レオフの言葉に飾りはなかった。


 だからこそ刺さる。


「候補は守られ、囲われ、教えられる。ですが本質は育成です。祈骸に近づけても境界を失わず、壊れきらず、受けきれる器にするための」


 フィアナが小さく息を呑む。


 青い瞳は揺れていた。だが逸れてはいない。


「……受けきれなかったら」


 レオフはほんの僅かに目を伏せた。


「失敗例として処理されるか、別の用途へ回されるかです」


 ルゥが、今度ははっきりと唸った。


 白い毛が逆立ち、淡い青い瞳がレオフを睨んでいる。


 アシュはその反応を見逃さなかった。


 ルゥは言葉を理解しているわけじゃない。だが、何かに触れている。いや、触れさせられているような嫌な感じがした。


「失敗例ってのは何だ」


 アシュが問うと、レオフの視線が一瞬だけルゥへ向いた。


「詳細は欠けています。ただ、候補の周辺に“補助個体”や“随伴反応”の記述がある」


 フィアナもルゥを見る。


 ルゥはなおも低く唸っていた。


「……それは」


 フィアナが言いかける。


 だがレオフは首を振った。


「今残っている記録だけでは断定できません。軽々しく結びつけるべきではない」


 アシュは小さく舌打ちした。


 はっきり言えないくせに、嫌な予感だけは置いていく。


「じゃあ今分かってることだけ言え」


「分かっています」


 レオフはまた羊皮紙に目を落とした。


「祈骸は、祈りと骸の名を持つ封印対象です。神子として完成させるはずだった器が壊れたものなのか、神子になり損ねたものなのか、そこは記録が分かれている。ですが、どの文書でも一致している点がある」


 彼の指先が、一行をなぞる。


「“白環の器は、代えとして用うべし”」


 フィアナの呼吸が浅くなる。


「代え……」


「封印が揺らいだ時、今ある祈骸を押さえ込むための新しい蓋です」


 アシュが一歩前へ出た。


「フィアナを、あれの下に沈める気だったのか」


「可能性ではなく、手順です」


 レオフの答えは冷たかった。


「白環の加護を持つ候補が育てられるのは、そのためだと読むのが自然です」


「自然じゃねえ」


 アシュの声が落ちる。


「狂ってるだけだ」


「そうです」


 レオフはまた肯定した。


 フィアナはしばらく俯いていた。


 ルゥがその膝へ鼻先を押し当てる。白い毛並みに触れた彼女の手が、ようやく少しだけ動いた。


「……私は」


 細い声だった。


「私は、最初からそのために育てられていたんですね」


 誰もすぐには答えなかった。


 答えられなかったのではなく、答えはもう出ていたからだ。


「守るためだって」


 フィアナは俯いたまま言う。


「外は危ないから、ここにいなさいって。あなたのためですって。加護を穢さないようにって。全部、そういうことだったんですね」


 礼拝堂の中へ、かすかな風が抜ける。


 崩れた天井の隙間で、細い光が揺れた。


「……戻りたくないです」


 その言葉は小さかった。


 けれど、はっきりしていた。


「だろうな」


 アシュが答える。


 フィアナは顔を上げた。


 泣いてはいない。だが泣く寸前にも見える、危うい顔だった。


「でも」


 彼女は息を吸う。


「知ってしまった以上、目を逸らすこともできません」


「目を逸らせとは言わねえ」


「はい」


「ただ、お前が代わりになる必要もねえ」


 一瞬、フィアナの表情が止まる。


 アシュは続けた。


「祈骸を押さえるために、お前がそこに収まる筋はない。あんなもんごと終わらせる」


 ガルドが低く息を吐いた。


「言うじゃねえか」


「終わらせるって決めたのはお前もだろ」


「まあな」


 ガルドは壁にもたれていた背を起こす。


「こんな話聞かされた後で、見て見ぬふりなんざできるかよ」


 フィアナはルゥの頭を撫でたまま、静かに頷いた。


「……私もです」


 その声は弱い。


 でも、さっきより折れていない。


 レオフが羊皮紙を畳む。


「まだあります」


「胸くそ悪い話はもう十分だ」


 ガルドが言うと、レオフは短く返した。


「それでも、あなた達は聞く必要がある」


 アシュが促す。


「続けろ」


「祈骸の管理記録には、例外が一件だけ残っています」


 礼拝堂の空気が、また少し変わる。


「例外?」


 フィアナが繰り返す。


「白環の候補が、儀式前に行方を絶った記録です」


 アシュの目が細くなる。


「逃げたのか」


「おそらく」


 レオフは頷いた。


「消されかけた文書の中に、断片だけ残っていた。捕縛失敗。移送記録途絶。以後、処理未了」


 フィアナの指がルゥの毛を掴む。


「その人は……」


「名が残っています」


 レオフはゆっくりと言った。


「完全には消しきれなかったらしい」


 アシュが黙る。


 ガルドも、今度は口を挟まなかった。


「イリス・ヴェルカ」


 その名が礼拝堂の中に落ちた瞬間、フィアナの首元がかすかに白く光った。


 ルゥがぴくりと耳を立てる。


 アシュはその反応を見た。


 ただの他人の名前じゃない。何かが、そこに繋がっている。


「……生きてるのか」


 アシュが問う。


 レオフは首を横に振る。


「分かりません。ただ、死亡確認の記録はない」


 フィアナの瞳に、ほんの少しだけ色が戻る。


 絶望とは別のものだ。


「逃げた人が、いたんですね」


「ええ、一人だけ」


 レオフの声は淡々としていた。


「少なくとも”記録に残っている限り”では」


 アシュは浅く息を吐いた。


 祈骸。白環。器。蓋。

 底にある怪物だけじゃない。外にもまだ線が伸びている。


「……探せるか」


 レオフがアシュを見る。


「記録を追うだけなら」


「違う」


 アシュは即座に言った。


「生きてるなら、そいつに会えるかだ」


 レオフは数秒黙った。


「難しいでしょう」


「無理だとは言わねえんだな」


「完全に消されているなら、名前すら残らない。残った以上、消し損ねた何かがある」


 ガルドが鼻を鳴らす。


「じゃあ追う価値はあるってことか」


「あります」


 レオフははっきり答えた。


「祈骸についても、白環についても、記録より本人の方が多く知っている可能性がある」


 フィアナは静かに顔を上げた。


「……会いたいです」


 アシュが見ると、彼女の目はまだ揺れている。だが、その奥には今はっきり別の光があった。


「私と同じように選ばれて、逃げた人なら……知っているかもしれないから」


「知って、どうする」


 アシュの問いに、フィアナは少しだけ言葉を探した。


「私は、あれにはなりたくありません」


 青い瞳が、今度は逸れない。


「でも、知らないまま逃げるのも違うと思います。どうして私なのか。どうすれば止められるのか。祈骸を終わらせるなら、なおさら」


 ガルドが短く息を吐いた。


「決まりだな」


「決めるのはまだ早え」


 アシュはそう言ったが、否定にはなっていなかった。


 レオフもそれを聞き逃さない。


「王都側の封鎖記録をさらに辿ります。ヴェルカの名が残るなら、移送路か回収記録にも痕跡があるはずだ」


「教会は」


 アシュが問う。


「もう動いていると考えるべきです」


 レオフの声が低くなる。


「白環の器が逃げ、灰祈りの封が揺らいだ。向こうが静観する理由がない」


 その時、礼拝堂の外で風が鳴った。


 古い板戸がかすかに軋み、全員の視線がそちらへ向く。


 ルゥが先に立ち上がり、入口を睨む。しばしの沈黙の後、ただ風だけが去っていく。


 だが、誰ももうさっきまでの静けさには戻れなかった。


 フィアナはルゥの背を撫でながら、胸元に手を当てる。


 白環の加護は今、静かだった。


 けれど静かなだけで、消えたわけじゃない。


「……消された役目でも」


 フィアナが小さく言う。


「まだ私に繋がっているんですね」


 アシュは短く答える。


「ああ」


「なら」


 彼女はゆっくり息を吸った。


「今度は、私が選びます」


 礼拝堂の細い光の中で、その言葉だけが妙にまっすぐだった。


 アシュは目を細める。


 まだ弱い。まだ危うい。けれど、もうただ守られるだけの声ではない。


「一人で無茶はするな」


「……はい」


「選ぶなら、ちゃんと最後まで見ろ」


 フィアナは一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく頷いた。


「分かりました」


 そのやりとりを、ガルドが横で聞いていた。


「相変わらず言い方が不器用だな」


「うるせえ」


「でも、嫌いじゃねえよ」


 その返しに、アシュは眉を寄せた。


 ガルドはわずかに口元を歪めるだけで、それ以上は何も言わない。


 礼拝堂の外では、朝が少しずつ進んでいた。


 灰祈りの村で押し返したものは、まだ底にいる。

 教会も王国も、きっともう止まらない。

 そして今、フィアナと同じように白環を持ち、逃げ切ったかもしれない名前がひとつ見つかった。


 イリス・ヴェルカ。


 消しきれなかったその名前は、まだ終わっていないものの続きを指している気がした。

第22話でした。


守るための加護だと思っていたものが、

最初から守るためだけのものではなかった。


知ってしまったことは、もうなかったことにはできません。

それでも、その先で何を選ぶかは、まだ奪いきれないのだと思います。


灰祈りの底にあるものと、

フィアナ自身に向けられていた役目が、

少しずつ同じ線で結ばれてきました。


もし面白かったら、


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次話もよろしくお願いします。

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