第22話 白環の器
祈りは、
時々、檻の形をしている。
“蓋が損なわれた時、白環の加護を持つ器をもって代えるべし”
読み上げられた一文だけが、礼拝堂の中に重く残っていた。
誰もすぐには言葉を継げない。
崩れた天井の隙間から差す朝の光が、薄く羊皮紙の端を照らしている。埃の舞う静かな空間なのに、息を吸うたび胸の内側がざらついた。
「……器ってのは」
最初に口を開いたのは、アシュだった。
声音は低い。だが抑えているだけで、怒りが消えているわけではない。
「そのままの意味か」
レオフは羊皮紙から目を離さず、短く答えた。
「はい」
ガルドの顔が歪む。
「ふざけんな」
「ええ」
レオフは否定しなかった。
「私も、そう思います」
その落ち着いた返答が、余計に腹立たしい。
ガルドは吐き捨てるように息を鳴らしたが、それ以上怒鳴らなかった。怒鳴ったところで覆らないと、もう分かってしまった顔だった。
フィアナは何も言わない。
白い指先だけが、胸元の布を小さく握っていた。
アシュは羊皮紙へ視線を落とす。古い文字はほとんど読めない。だが、読めなくても分かることはある。これは昔話でも伝承でもない。実際に誰かがそう決め、残し、使うつもりで書いた文だ。
「白環の加護ってのは、何なんだ」
問いに、レオフはようやく顔を上げた。
「一般に加護は、守りや祝福として理解されています。ですが白環は少し違う」
「どう違うんですか」
フィアナの声は静かだった。
震えてはいたが、逃げてはいない。
レオフは彼女を見た。
「白環は、境を引く加護です」
礼拝堂の奥で、ルゥが低く喉を鳴らす。
「外からのものを拒む。それもあります。ですが本質はそこだけじゃない。むしろ――内と外を混ぜないためのものです」
フィアナの目がわずかに見開かれる。
「混ぜない……」
「本来、交わるべきではないものを、ひとつの器に保つための境界」
アシュの眉が寄る。
「守るための力じゃねえのか」
「守ることもできます」
レオフは言った。
「ですが、最初からそれだけを目的に与えられるものではない」
フィアナは無意識に首元へ手をやった。
そこに刻まれた紋が、見えない熱を持ったように彼女の指の下で沈黙している。
「では……私の加護は」
彼女の唇が、少しだけ乾いた。
「私を守るためのものでは、なかったんですか」
その問いに、レオフはすぐには答えなかった。
言葉を選んでいるというより、誤魔化せないと知って黙ったように見えた。
「……器として保つための力です」
短く、だがはっきりとした答えだった。
フィアナの指先が止まる。
アシュの中で、何かが冷たく軋む。
これまでフィアナが見せてきた拒絶、拘束、押し返すような光。その形が今になって最悪の意味で繋がる。あれは護りの力である前に、閉じ込めるための力だった。
「じゃあ神子候補ってのは」
アシュが低く言う。
「神に選ばれたとか、そういう綺麗な話じゃねえな」
「ええ」
レオフは頷いた。
「適性です」
「何の」
「受けるための」
その一言で、礼拝堂の空気がさらに重くなる。
「穢れ、異常、祈りの残滓、あるいはもっと古い何か。それらに触れても壊れにくい子どもが候補として拾われる」
ガルドが低く唸るように言った。
「拾う、だと」
「選ぶ、でも構いません。ですが、していることは大差ありません」
レオフの言葉に飾りはなかった。
だからこそ刺さる。
「候補は守られ、囲われ、教えられる。ですが本質は育成です。祈骸に近づけても境界を失わず、壊れきらず、受けきれる器にするための」
フィアナが小さく息を呑む。
青い瞳は揺れていた。だが逸れてはいない。
「……受けきれなかったら」
レオフはほんの僅かに目を伏せた。
「失敗例として処理されるか、別の用途へ回されるかです」
ルゥが、今度ははっきりと唸った。
白い毛が逆立ち、淡い青い瞳がレオフを睨んでいる。
アシュはその反応を見逃さなかった。
ルゥは言葉を理解しているわけじゃない。だが、何かに触れている。いや、触れさせられているような嫌な感じがした。
「失敗例ってのは何だ」
アシュが問うと、レオフの視線が一瞬だけルゥへ向いた。
「詳細は欠けています。ただ、候補の周辺に“補助個体”や“随伴反応”の記述がある」
フィアナもルゥを見る。
ルゥはなおも低く唸っていた。
「……それは」
フィアナが言いかける。
だがレオフは首を振った。
「今残っている記録だけでは断定できません。軽々しく結びつけるべきではない」
アシュは小さく舌打ちした。
はっきり言えないくせに、嫌な予感だけは置いていく。
「じゃあ今分かってることだけ言え」
「分かっています」
レオフはまた羊皮紙に目を落とした。
「祈骸は、祈りと骸の名を持つ封印対象です。神子として完成させるはずだった器が壊れたものなのか、神子になり損ねたものなのか、そこは記録が分かれている。ですが、どの文書でも一致している点がある」
彼の指先が、一行をなぞる。
「“白環の器は、代えとして用うべし”」
フィアナの呼吸が浅くなる。
「代え……」
「封印が揺らいだ時、今ある祈骸を押さえ込むための新しい蓋です」
アシュが一歩前へ出た。
「フィアナを、あれの下に沈める気だったのか」
「可能性ではなく、手順です」
レオフの答えは冷たかった。
「白環の加護を持つ候補が育てられるのは、そのためだと読むのが自然です」
「自然じゃねえ」
アシュの声が落ちる。
「狂ってるだけだ」
「そうです」
レオフはまた肯定した。
フィアナはしばらく俯いていた。
ルゥがその膝へ鼻先を押し当てる。白い毛並みに触れた彼女の手が、ようやく少しだけ動いた。
「……私は」
細い声だった。
「私は、最初からそのために育てられていたんですね」
誰もすぐには答えなかった。
答えられなかったのではなく、答えはもう出ていたからだ。
「守るためだって」
フィアナは俯いたまま言う。
「外は危ないから、ここにいなさいって。あなたのためですって。加護を穢さないようにって。全部、そういうことだったんですね」
礼拝堂の中へ、かすかな風が抜ける。
崩れた天井の隙間で、細い光が揺れた。
「……戻りたくないです」
その言葉は小さかった。
けれど、はっきりしていた。
「だろうな」
アシュが答える。
フィアナは顔を上げた。
泣いてはいない。だが泣く寸前にも見える、危うい顔だった。
「でも」
彼女は息を吸う。
「知ってしまった以上、目を逸らすこともできません」
「目を逸らせとは言わねえ」
「はい」
「ただ、お前が代わりになる必要もねえ」
一瞬、フィアナの表情が止まる。
アシュは続けた。
「祈骸を押さえるために、お前がそこに収まる筋はない。あんなもんごと終わらせる」
ガルドが低く息を吐いた。
「言うじゃねえか」
「終わらせるって決めたのはお前もだろ」
「まあな」
ガルドは壁にもたれていた背を起こす。
「こんな話聞かされた後で、見て見ぬふりなんざできるかよ」
フィアナはルゥの頭を撫でたまま、静かに頷いた。
「……私もです」
その声は弱い。
でも、さっきより折れていない。
レオフが羊皮紙を畳む。
「まだあります」
「胸くそ悪い話はもう十分だ」
ガルドが言うと、レオフは短く返した。
「それでも、あなた達は聞く必要がある」
アシュが促す。
「続けろ」
「祈骸の管理記録には、例外が一件だけ残っています」
礼拝堂の空気が、また少し変わる。
「例外?」
フィアナが繰り返す。
「白環の候補が、儀式前に行方を絶った記録です」
アシュの目が細くなる。
「逃げたのか」
「おそらく」
レオフは頷いた。
「消されかけた文書の中に、断片だけ残っていた。捕縛失敗。移送記録途絶。以後、処理未了」
フィアナの指がルゥの毛を掴む。
「その人は……」
「名が残っています」
レオフはゆっくりと言った。
「完全には消しきれなかったらしい」
アシュが黙る。
ガルドも、今度は口を挟まなかった。
「イリス・ヴェルカ」
その名が礼拝堂の中に落ちた瞬間、フィアナの首元がかすかに白く光った。
ルゥがぴくりと耳を立てる。
アシュはその反応を見た。
ただの他人の名前じゃない。何かが、そこに繋がっている。
「……生きてるのか」
アシュが問う。
レオフは首を横に振る。
「分かりません。ただ、死亡確認の記録はない」
フィアナの瞳に、ほんの少しだけ色が戻る。
絶望とは別のものだ。
「逃げた人が、いたんですね」
「ええ、一人だけ」
レオフの声は淡々としていた。
「少なくとも”記録に残っている限り”では」
アシュは浅く息を吐いた。
祈骸。白環。器。蓋。
底にある怪物だけじゃない。外にもまだ線が伸びている。
「……探せるか」
レオフがアシュを見る。
「記録を追うだけなら」
「違う」
アシュは即座に言った。
「生きてるなら、そいつに会えるかだ」
レオフは数秒黙った。
「難しいでしょう」
「無理だとは言わねえんだな」
「完全に消されているなら、名前すら残らない。残った以上、消し損ねた何かがある」
ガルドが鼻を鳴らす。
「じゃあ追う価値はあるってことか」
「あります」
レオフははっきり答えた。
「祈骸についても、白環についても、記録より本人の方が多く知っている可能性がある」
フィアナは静かに顔を上げた。
「……会いたいです」
アシュが見ると、彼女の目はまだ揺れている。だが、その奥には今はっきり別の光があった。
「私と同じように選ばれて、逃げた人なら……知っているかもしれないから」
「知って、どうする」
アシュの問いに、フィアナは少しだけ言葉を探した。
「私は、あれにはなりたくありません」
青い瞳が、今度は逸れない。
「でも、知らないまま逃げるのも違うと思います。どうして私なのか。どうすれば止められるのか。祈骸を終わらせるなら、なおさら」
ガルドが短く息を吐いた。
「決まりだな」
「決めるのはまだ早え」
アシュはそう言ったが、否定にはなっていなかった。
レオフもそれを聞き逃さない。
「王都側の封鎖記録をさらに辿ります。ヴェルカの名が残るなら、移送路か回収記録にも痕跡があるはずだ」
「教会は」
アシュが問う。
「もう動いていると考えるべきです」
レオフの声が低くなる。
「白環の器が逃げ、灰祈りの封が揺らいだ。向こうが静観する理由がない」
その時、礼拝堂の外で風が鳴った。
古い板戸がかすかに軋み、全員の視線がそちらへ向く。
ルゥが先に立ち上がり、入口を睨む。しばしの沈黙の後、ただ風だけが去っていく。
だが、誰ももうさっきまでの静けさには戻れなかった。
フィアナはルゥの背を撫でながら、胸元に手を当てる。
白環の加護は今、静かだった。
けれど静かなだけで、消えたわけじゃない。
「……消された役目でも」
フィアナが小さく言う。
「まだ私に繋がっているんですね」
アシュは短く答える。
「ああ」
「なら」
彼女はゆっくり息を吸った。
「今度は、私が選びます」
礼拝堂の細い光の中で、その言葉だけが妙にまっすぐだった。
アシュは目を細める。
まだ弱い。まだ危うい。けれど、もうただ守られるだけの声ではない。
「一人で無茶はするな」
「……はい」
「選ぶなら、ちゃんと最後まで見ろ」
フィアナは一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく頷いた。
「分かりました」
そのやりとりを、ガルドが横で聞いていた。
「相変わらず言い方が不器用だな」
「うるせえ」
「でも、嫌いじゃねえよ」
その返しに、アシュは眉を寄せた。
ガルドはわずかに口元を歪めるだけで、それ以上は何も言わない。
礼拝堂の外では、朝が少しずつ進んでいた。
灰祈りの村で押し返したものは、まだ底にいる。
教会も王国も、きっともう止まらない。
そして今、フィアナと同じように白環を持ち、逃げ切ったかもしれない名前がひとつ見つかった。
イリス・ヴェルカ。
消しきれなかったその名前は、まだ終わっていないものの続きを指している気がした。
第22話でした。
守るための加護だと思っていたものが、
最初から守るためだけのものではなかった。
知ってしまったことは、もうなかったことにはできません。
それでも、その先で何を選ぶかは、まだ奪いきれないのだと思います。
灰祈りの底にあるものと、
フィアナ自身に向けられていた役目が、
少しずつ同じ線で結ばれてきました。
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