第19話 夜明けの灰
朝になったからといって、
夜に埋めたものまで静かになるわけではない。
夜明けは来ていた。
それでも灰祈りの村には、朝と呼べるものが戻っていなかった。
空は白み、風も吹いている。だが地の上にあるのは、焼けた匂いと崩れた家々と、薄く舞い続ける灰だけだった。光が差しているのに、何ひとつ明るく見えない。
村の中心――あの穴の周囲だけが、妙に静かだった。
静かすぎる、とアシュは思う。
収まった後の静けさじゃない。底の方で、まだ何かが息を潜めている。そういう嫌な沈黙だった。
「……本当に、今はもう出てこないのでしょうか」
穴を見つめたまま、フィアナが言った。
丁寧な声はいつも通りだが、その細い指先には力が入っている。恐れていないわけじゃない。けれど目を逸らしてもいない。
「出てこないんじゃねえ」
瓦礫に腰を下ろしていたガルドが、低く吐き捨てた。
「出てこれねえだけだ。今はまだな」
アシュも同意だった。
昨夜、四人で一度だけ押し返した。だが終わったわけじゃない。あれは蓋を叩きつけただけだ。底にいる“本物”は、まだそこにいる。
アシュは浅く息を吐く。
身体の奥が重い。右腕の芯に痺れが残り、脇腹は呼吸のたびに鈍く軋んだ。昨夜に飲んだ黒い液体が、どうにか身体を繋ぎ止めているだけだと分かる感覚だった。痛みが引いたんじゃない。崩れるのが少し先になっただけだ。
ちゃんと立っている。
それだけで十分だと、今は割り切るしかなかった。
フィアナがそんな彼を見て、小さく言う。
「……顔色が良くありません」
「元からだ」
「そういう意味ではありません」
間を置かず返され、アシュは眉を寄せた。
「ちゃんと立っているだろう」
「それは見れば分かります」
やわらかい声だった。
だが、その先に引く気はないらしい。
「問題は、そのまま無理を押し通すつもりかどうかです」
「うるせえな」
「うるさくもなります」
アシュが黙ると、フィアナはそれ以上言わなかった。
問い詰めない。だが見逃しもしない。短いやり取りのくせに、前より距離が近い。そういう変化が、昨夜を越えたあとにはあった。
地面に伏せていたルゥが、ふいに耳をぴくりと動かした。
白い毛は煤で薄く汚れ、脇腹にも傷が走っている。それでもフィアナの足元から離れようとしない。守るようにいるのか、引かれるようにいるのか、それはまだ分からなかった。
ガルドが立ち上がり、弓を手に取る。
「いつまでもここに張りついてるわけにはいかねえな」
その口調は荒いが、迷いはなかった。
「村の連中を埋めた場所も、中心の穴も、見張りてえのが本音だ。けど、おれ一人でどうにかなるもんじゃねえ」
「離れるしかない」
アシュが言うと、ガルドは悔しそうに奥歯を噛んだ。
「分かってる。胸くそ悪ぃがな」
灰祈りの村は終わっていない。
昨夜助かったものは少なく、取り戻せたものはさらに少ない。ただ一度だけ、底から這い出しかけたものを叩き返した。それだけだ。それだけのために払ったものは、あまりにも重い。
「王国か、教会か……どちらかは知っているはずです」
フィアナが静かに言う。
「この村が何だったのかを」
「知ってたなら、なおさら気に入らねえな」
ガルドが唸る。
「村ごと見殺しにしてたってことだろ」
アシュは答えず、空を見上げた。
薄い色の空だった。鳥の声はしない。ただ風が焼け残った柱を鳴らしている。その音だけが、無人の村に響いていた。
そこで、ルゥが低く唸った。
頭を上げ、村の外れ――街道へ続く方角を睨んでいる。
「何だ」
アシュが問うと、フィアナも目を細めた。
「……誰か、来ます」
「灰の者か?」
ガルドは即座に矢を番えた。
だがアシュは首を振る。
「違う。人だ」
気配は複数。足音を消しているが、一流の隠密ではない。訓練は受けている。だが死地に慣れ切った歩き方でもない。
やがて焼け跡の向こうに、灰色の上着をまとった人影が現れた。
胸元には細い銀の紋。王国兵とも教会騎士とも違う。先頭の男は村を見渡し、わずかに顔をしかめた。
「……ひどいな」
その一言に、アシュの目つきが変わる。
「知ってるのか」
男ははっとしてこちらを見た。
三十前後。痩せた顔立ちに神経質そうな目。腰の剣には戦場の擦れが少ない。だが靴だけはよく減っていた。前線の兵ではなく、各地を歩く職の人間だ。
男はアシュたち三人とルゥ、そして中心の大穴を見て息を呑む。
「……報せは本当だったのか」
「質問に答えろ」
アシュが一歩前に出ると、男の後ろにいた二人が身構えた。だが男自身は剣を抜かない。
「私はレオフ。王都記録局所属の調査官だ」
「記録局?」
フィアナが小さく繰り返す。
アシュにも覚えがあった。王都の奥で古記録や封鎖文書を抱えている連中だ。戦場とは縁遠いはずの組織が辺境まで来ている時点で、ろくでもない。
「辺境の異常報告を受けて来た」
「遅えんだよ」
ガルドの声はむき出しだった。
「村が焼けて、人が死んで、底から化け物が這い出しかけた後に来て、何の役に立つ」
「……その通りだ」
レオフは反論しなかった。
それがかえって気味が悪い。
アシュは剣の柄に手をかけたまま問う。
「何を知ってる」
レオフは中心の穴を見据えたまま、低く言った。
「ここは本来、報告に上がるはずのない場所だった」
空気が変わる。
「は?」
ガルドが眉を吊り上げる。
「どういう意味だ」
「封鎖記録がある」
レオフは言った。
「灰祈りの村は正式な地図から外され、関係文書も閲覧制限がかかっていた。名称そのものが、今の王都にはほとんど残っていない」
アシュの胸の奥が冷たくなった。
焼いた。
焼かされた。
そう思っていた過去に、別の手が伸びてくる感覚だった。
「つまり」
アシュは低く言う。
「最初から捨てられてたってことか」
レオフは答えなかった。
否定しない時点で十分だった。
ガルドの表情が剥き出しに歪む。
「てめえら……!」
「待ってください、ガルドさん」
フィアナが制した。
怒りのまま前に出ようとしたガルドを止め、彼女はレオフへ向き直る。
「あなたは、そのことを知っていて来たのですか」
「全部を知っていたわけではない」
「でも、何かは知っていた」
「……そうだ」
フィアナの目がほんの少しだけ伏せられる。
それでも次の問いは逸れなかった。
「では、聞かせてください。この村の底に何があるのかを」
レオフは周囲を見回した。焼けた家、崩れた井戸、村の外れ、空の色まで確かめるように視線を走らせる。
「ここでは話せない」
「ふざけんな」
ガルドが怒鳴る。
「何人死んだと思ってる」
「分かっている。だが、ここはもう見られている可能性が高い」
アシュの指先が剣の柄を握り込んだ。
「誰に」
レオフは一瞬だけ黙り、それから答える。
「王国だけじゃない。教会でもない。もっと古いところに繋がっている者たちだ」
曖昧な言い方だった。だが、でたらめを言っている顔ではない。
フィアナが静かに問う。
「……環座、ですか」
レオフの目が一瞬だけ揺れた。
それで十分だった。
ガルドが低く舌打ちする。
「よくわからんが当たりみたいだぞ」
アシュはフィアナを見る。フィアナもまた表情を変えずにレオフを見ていたが、その横顔は固い。
「どうしてその名を知っている」
レオフが問い返す。
「こちらにも事情があります」
フィアナはそれだけしか言わなかった。
レオフはなおも何か言いたげだったが、結局飲み込む。
「……北街道の外れに古い中継礼拝堂がある。今は使われていない。半日も歩けば着く。話をするならそこだ」
「信用できると思ってんのか」
アシュが言う。
「思っていない。だがここよりはましだ」
言い終えるより先に、ルゥが鋭く吠えた。
次の瞬間だった。
レオフの足元の灰が、ぼこり、と盛り上がった。
「っ!」
黒い腕が地面を突き破る。レオフが跳び退き、その一拍遅れで周囲の焼け跡からも灰がいくつも持ち上がった。
人の形を残したもの。腕だけが異様に長いもの。首の位置がずれたまま揺れているもの。
昨夜の中心にいた異常ほどの濃さはない。だが村に染みついた残滓が、朝の薄さに紛れて再び形を取ったのだ。
「ちっ……!」
アシュは剣を抜いて前に出る。
身体は重い。だが止まれない。
最初の一体が腕を振り上げるより早く、踏み込んで斬る。斜めに断たれた胴が灰を撒き散らしながら崩れるが、切断面からなお指が伸びる。
「散らすな、寄せろ!」
ガルドの怒声と同時に矢が飛んだ。
アシュの横をかすめた一矢が、地を這おうとした残骸を射抜いて縫い止める。さらにもう一矢。続けて三矢目。昨夜の被弾を感じさせない精度だった。
「フィアナ!」
「はい!」
フィアナの足元から白い光が走る。
一本の線ではない。薄く広がるその光が灰の者たちの足元をなぞった瞬間、崩れた身体の動きが目に見えて鈍くなった。
拒絶。
留めるための加護。
昨夜よりも、扱いが明らかに鋭い。
右から別の一体が飛びかかる。
アシュが剣を返すより早く、ルゥが横からぶつかった。白い毛並みが灰を裂き、そのまま首元へ喰らいつく。押し倒された敵にアシュが追いつき、喉元から肩口までを一息に断った。
灰が舞う。
その向こうで、レオフの部下二人も短剣を抜いていた。動きは荒いが、逃げてはいない。
「散らばるな!」
レオフが叫ぶ。
「押し返せ! 村の外へ!」
「偉そうに指図してんじゃねえ!」
ガルドが怒鳴り返しつつも、次の矢を放つ。
その矢は灰の者の眼窩を貫き、その一瞬の硬直にルゥが飛び込み、アシュが斬る。フィアナの光がその動きを繋ぐ。
噛み合う。
昨夜を越えたばかりの身体なのに、四人の動きは昨夜より速かった。
フィアナが止める。ガルドが崩す。ルゥが噛みつく。アシュが断つ。
順番を決めたわけじゃない。だが誰かが迷わず動けば、他がそこへ重なる。それだけで、さっきまでばらばらだった朝の空気に一本芯が通った。
灰の腕がアシュの脇腹を薙ごうとする。
身を捻って避け、剣の腹で弾く。その瞬間に痛みが鈍く走った。昨夜の反動が芯から軋む。だが顔には出さない。
「アシュさん、左です!」
フィアナの声。
反射で踏み換え、左から伸びた腕を断ち切る。その影に潜り込んだもう一体の脚を、ガルドの矢が抜いた。体勢を崩した敵の首を、ルゥが噛み裂く。
「しつこいな……!」
アシュが吐き捨てる。
「底の残り滓でしょう」
フィアナの声は静かだった。
「でも、芯までは来ていません」
「なら十分だ」
十分すぎる。
こんなものが朝になってまで湧く時点で、この村がまだ終わっていない証拠だった。
最後の一体が村外れへよろめいた瞬間、アシュは地を蹴った。
踏み込み、振り抜く。
首元から肩口までを一息に裂くと、灰の身体は縦に割れ、そのまま崩れた。
動かない。
今度こそ、完全に止まる。
少し遅れて静けさが戻ってきた。
誰もすぐには喋らない。風だけが吹き、舞い上がった灰が白い朝の中へ薄く散っていく。たった今まで斬り合っていたことすら、どこか夢みたいに曖昧になる景色だった。
「……胸くそ悪ぃ」
先に口を開いたのはガルドだった。
「朝っぱらから、こんなもん見せやがって」
「村がまだ死にきってないってことですね」
フィアナが小さく言う。
レオフは青い顔で額の汗を拭っていた。
「……だから言ってるだろ。ここで話すべきじゃない」
「分かったのは、てめえらが知ってて黙ってたことくらいだ」
ガルドは吐き捨てるように言う。
「その怒りはもっともだ」
レオフはそれを受け止めた。
「だからこそ、話す。だがここじゃない」
アシュは剣についた灰を払って鞘に収める。
その動きだけで、肩から背中にかけて鈍い痛みが走った。息を吐き、無理やり飲み込む。
「……礼拝堂まで案内しろ」
レオフは頷いた。
「助かる」
「勘違いすんな」
アシュは冷たく返す。
「お前を信じたわけじゃない」
「それで構わない」
ガルドが村の奥を振り返る。
埋めた場所。崩れた家々。中心の穴。そこに残っているものは何ひとつ片づいていない。それでも、今ここに居続けるのは違うと、もう全員が分かっていた。
「……行くぞ」
その一言で、ようやく足が動く。
灰祈りの村には朝が来ていた。
だがそこに残っていたのは始まりではなく、まだ終わっていないものの気配だけだった。
第19話でした。
第3章開幕ということで、
灰祈りの村での戦いを越えた直後の朝から始まりました。
一度は抑え込んだはずのものも、
村そのものに残った異常も、まだ終わってはいません。
そしてここからは、
怪異そのものだけではなく、
それを知りながら隠してきた“人間側”の話も動き始めます。
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