第15話 旧知の気配
追う者にも理由があります。
ただ捕まえるためではなく、逃がせない理由があるからこそ、足は止まりません。
森は、夜に近づくほど音を増やす。
枝の擦れる音。
湿った土を踏む音。
遠くで鳴く名も知らない獣の声。
それでもヴァルトには、今この森が妙に静かに思えた。
前を行く部下の一人が立ち止まり、低く言う。
「この先です」
「雑だねえ」
ヴァルトは軽く返した。
「もうちょっと気の利いた言い方はないの?」
「……痕跡が、この先で急に増えています」
言い直した部下に、ヴァルトは肩を竦める。
「最初からそう言えばいいのに」
声は柔らかい。
だが、その場の空気が少しだけ冷える。
部下はそれ以上余計なことを言わず、脇へ下がった。
ヴァルトは木の根を越え、足元の地面を見る。
踏み跡がある。
新しい。
三人分と、小さな獣が一匹。
完全に隠せてはいないが、慌てすぎてもいない足運びだった。
「へえ」
口元がわずかに歪む。
「ほんとにこっちへ来たんだ」
逃げるだけなら、もっと別の道もあったはずだ。
なのに、あえて寄っている。
灰祈りの村へ。
あの男は、自分が何に近づいているのか分かっているのか。
あるいは、分かっていて来たのか。
どちらにせよ気分のいい話ではなかった。
後ろから別の男が声をかける。
「ヴァルト様。先行させますか」
「誰を?」
「二名ほど」
「やめときなよ」
ヴァルトは振り返らずに答えた。
「この先は、腕が立つとか立たないとか、そういう話だけじゃない」
「ですが――」
「死なせたいなら止めないけど」
淡々とした声だった。
それで十分だったらしい。
背後が黙る。
ヴァルトは苔のついた岩に指先で触れ、それからゆっくりと目を細めた。
灰祈り。
その名を聞くだけで顔をしかめる人間は多い。
焼けた村。
異常の残る土地。
不浄の跡地。
だがヴァルトにとって忌々しいのは、そこに残る不気味さそのものではない。
そこで終わらなかった男がいることだ。
「しぶといよねえ」
誰にともなく呟く。
「ほんと、昔からそういうとこだけは変わらない」
アシュ・ヴァレン。
若すぎる第七席。
自分より先にその席へ座った男。
そして灰祈りのあと、何も背負い切らないまま姿を消した男。
あれで終わったと思っていたわけではない。
そう簡単に死ぬような人間じゃないことくらい、嫌というほど知っている。
だが、生きていたとしても。
どこかで折れていてほしかった。
あの夜の続きを抱えたまま、それでもまだ剣を持っているのだとしたら、それはあまりにタチが悪い。
「……気に入らないな」
独り言のようなその声に、近くにいた部下がびくりと肩を揺らした。
ヴァルトはようやく振り返る。
「なに、別に君に言ってるわけじゃないよ」
「は、はっ」
「そんなに怯えないで。まだ斬らないから」
軽く笑う。
だが目は笑っていない。
部下は視線を逸らした。
それでよかった。
今のところ、こいつらに必要なのは度胸じゃない。余計な真似をしないことだ。
ヴァルトは再び前を向く。
森の匂いに混じって、わずかに灰の臭いが流れてきていた。
古い灰だ。
雨と土を吸って、それでも残っている臭い。
近い。
「ヴァルト様」
今度は別の部下が、控えめに声を落とした。
「女の方の情報ですが」
「フィアナ、だっけ」
「はい。目撃の一致から見ても、おそらく間違いないかと」
ヴァルトは小さく笑った。
「へえ。そっちも本物なんだ」
追う価値が一つではなくなった。
いや、もともと一つではなかったのかもしれない。
アシュが抱え込んでいるもの。
フィアナが持っているもの。
灰祈りに残っているもの。
別々に見えて、どうにも気味が悪いほど線が近い。
「面倒くさい組み合わせ」
そう呟いてから、ヴァルトはふと視線を上げた。
森の奥。
木々の隙間の向こう。
見えはしないが、空気の淀み方が変わっている場所がある。
灰祈りの村は、ただそこにあるだけで周囲の空気を歪める。
初めて来たわけではない。
何度か近くまで足を運んだことはある。
好きな土地ではなかった。
近づくたび、何かを試されているようで。
何も知らない顔で立っていると、地面の下から嘲笑われるような気がする。
「……相変わらず、最悪だ」
吐き捨てるように言って、ヴァルトは歩を進めた。
後ろから、部下が低く問う。
「このまま村へ?」
「そうだよ」
「夜が深くなります」
「だから?」
「危険かと」
「危険じゃない場所に、あいつが行くと思う?」
それで会話は終わった。
部下たちの足取りがわずかに重くなる。
分かりやすい。
だが、それでいい。
怖がるくらいの方が生き残る。
少し進んだところで、ヴァルトは地面にしゃがみ込んだ。
土の上に、浅い擦れ跡がある。
布の裾か、靴先か。
それに混じって、小さな爪痕。
「……あの妙な獣か」
アシュが連れているわけではない。
あれは女の方に寄っている、と報告にはあった。
白い、小さな異形。
ただの使い魔ではない。
あの男が連れて歩くには、あまりに似合わないものだった。
「ほんと、似合わない連れが増えたねえ」
懐かしいような、苛立つような、奇妙な感覚が胸の奥を掠める。
昔のアシュなら、もっと徹底していた。
足手まといは連れない。
守るべきものを持つくらいなら、最初から切り捨てる。
そういう男だった。
なのに今は違う。
変わったのか。
変わらされたのか。
どちらでもいい。
気に入らないことに変わりはない。
ヴァルトは立ち上がった。
「先は急がない」
部下たちが顔を上げる。
「ただし遅れるな。見失う方が面倒だ」
「……接触は」
「向こうが気づいてても、まだいい」
ヴァルトは森の奥を見た。
「逃げ道を狭める方が先」
その声には、先ほどまでの軽さがほとんどなかった。
部下の一人が小さく頷き、散るように位置を変える。
包囲まではいかない。
だが追い立てるには十分な配置だ。
ヴァルトは、その動きを横目で見ながら歩く。
森が少しずつ開けていく。
やがて、焼けた柵の残骸が見えた。
土に埋もれた石。
崩れた壁の跡。
人が住んでいた場所の、形だけが残ったもの。
灰祈りの外れだ。
部下の一人が息を呑む。
「ここまで、焼けて……」
「今さら感傷?」
「いえ」
「なら黙って」
淡く言いながら、ヴァルトは周囲を見渡した。
誰もいない。
だが痕跡は新しい。
ここを通ったのは間違いない。
それだけではない。
空気が、わずかにざわついている。
生き物の気配とも違う。
風とも違う。
何かが目を覚ましかけている時の、あの嫌な揺れだ。
その時だった。
森の奥――村の中心があるはずの方角から、かすかに音が届いた。
ぎし、と。
木が軋むような。
骨が鳴るような。
耳に届くというより、内側を引っかかれるような音。
部下たちの顔色が変わる。
「今のは……」
「騒ぐな」
ヴァルトは短く言った。
だが、自分でも分かっていた。
今のは気のせいではない。
村が鳴った。
それも、ただ古い建物が崩れる音ではない。
もっと奥の、もっと嫌なものが動いた音だ。
口元が、わずかに上がる。
「へえ」
楽しいわけじゃない。
だが、妙に納得した。
あの男が来て、あの女がいて、灰祈りが何も起こさないはずがない。
「やっぱり、そうなるんだ」
誰に向けた言葉でもなかった。
ただ、確信だけが深まる。
アシュはもう、ただ逃げているだけじゃない。
逃げた先で、また厄介なものを拾っている。
そして今度は、その厄介さのど真ん中に自分から足を突っ込んでいる。
ヴァルトの目が冷える。
「――見つけたら、すぐ知らせて」
部下たちが一斉に頷く。
「ただし、先に手は出すな」
「よろしいのですか」
「いいよ。どうせ、こっちが急がなくても向こうから面倒になる」
その言い方に、誰も反論しない。
ヴァルトは焼けた柵を越えた。
足元で灰が鳴る。
古い村の残骸を踏みしめる音だ。
視線の先には、崩れた家々の向こうに広がる暗がりがある。
その奥に、アシュたちがいる。
その奥に、まだ終わっていない何かがいる。
ゆっくりと、ヴァルトは息を吐いた。
「逃げた先がそこっていうのも、お前らしいよ」
吐き出した言葉は、呆れにも似ていた。
だがその底にあるのは、笑いではない。
苛立ち。
執着。
そして、ようやく追いつけるかもしれないという冷えた高揚だった。
森を抜ける。
灰祈りの空気が、肌にまとわりつく。
その先で待っているのがアシュだけではないとしても、関係ない。
どのみち、今度こそこの手で止める。
ヴァルトは目を細め、そのまま村の奥へ歩を進めた。
第15話でした。
ついに、
灰祈りの村の“中で戦う”段階に入りました。
ここからさらに、
村の中心とアシュの過去が近づいていきます。
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