第11話 灰の匂い
近づくほど、
知らないはずのものが増えていく。
火を消したあとの森は、やけに冷えていた。
さっきまで小さく燃えていた熱が消えたせいだけじゃない。
空気そのものが、妙に薄くなったような感覚がある。
アシュは剣の柄に手をかけたまま、音のした方を睨んだ。
風が葉を揺らす。
その奥で、何かがきしむような音を立てた。
木の枝が擦れた音にも似ている。
だが違う。
もっと湿っていて、もっと重い。
「……何がいる」
低く呟くと、フィアナも周囲を見回した。
「分かりません。でも……」
そこで言葉を切る。
「近いです」
アシュは一歩だけ位置をずらし、フィアナを背に庇う形を取った。
ルゥもすでに彼女の前に出ている。
背を低くし、毛を逆立てたまま森の奥を睨んでいた。
その警戒の仕方が、さっきのクロウウルフの時とは違う。
獣相手の反応じゃない。
もっと、嫌なものを前にした時の反応だ。
アシュの喉奥に、言葉にならないざらつきが残る。
少しずつ、匂いが混じってきていた。
焦げた匂い。
灰の匂い。
だが、それは焚き火の残り香とは違う。
もっと古くて、もっとこびりついた臭いだった。
「……灰祈りの方角か」
アシュが小さく言うと、フィアナが反応する。
「やっぱり、この先に何かあるんですね」
「あるだろうな」
「アシュさんは知ってるんですか」
「全部は知らない」
それは本当だった。
知っていることはある。
だが、知っているからこそ見たくないものもある。
その時、森の奥で何かが動いた。
黒い影が木々の間を横切る。
人間ほどの大きさ。
だが姿勢が低い。四足とも違う。二足とも違う。
輪郭が、うまく定まらない。
「見えましたか」
「いや」
アシュは目を細める。
「見えた気がしただけだ」
フィアナが息を潜める。
ルゥが一歩前へ出た。
次の瞬間、茂みの中から何かが飛び出す。
アシュは即座に剣を抜いた。
だが飛び出してきたのは敵ではなかった。
焦げた毛並みの小型獣だ。
野兎に似た何か。
片耳が焼け落ちたように欠け、目はやけに赤い。
異様な見た目ではあったが、こちらを襲うことなく一目散に駆け抜けていく。
その後を追うように、もう一匹。
さらにもう一匹。
小さな獣たちが、何かから逃げるように森の奥から飛び出しては消えていく。
「……何かに追われてる」
フィアナの声が緊張を帯びる。
アシュは頷いた。
獣は正直だ。
本当に危ないものが近づけば、真っ先に逃げる。
つまり今この森の奥には、獣ですら近づきたくないものがいる。
「動くぞ」
アシュは短く言った。
「ここは良くない」
「でも、どっちに」
「風下は駄目だ。匂いが濃すぎる」
アシュは周囲を見て、地形を頭の中で組み直す。
斜面は北へ落ちている。
その先に湿地があるはずだ。
灰祈りの村へ最短で向かうなら北東だが、今は真正面から進むべきじゃない。
「一度西へ振る」
「灰祈りの村から離れますよね」
「迂回だ。正面から突っ込むほど馬鹿じゃない」
そう言って歩き出した瞬間、背後でぱきり、と枝が折れた。
近い。
アシュは振り返る。
木々の隙間に、また影があった。
今度ははっきり見えた。
人のように立っている。
だが立ち方が不自然だ。
肩が落ち、首が少し傾き、腕がだらりと長い。
服のようなものも見える。
焼け焦げた布切れみたいなものが揺れていた。
フィアナが小さく息を呑む。
「あれ……人、ですか」
「見るな」
アシュが言う。
だがその影は、こちらが見ていることに気づいたのか、ぎこちなく一歩前へ出た。
顔が見える。
見えた瞬間、アシュは表情を消した。
顔の半分が黒く焼けただれ、皮膚の下で赤い熱がひびのように光っている。
目は落ち窪み、だが完全に死んではいない。
生き物の顔じゃなかった。
かといって、ただの死体でもない。
「……異端、ですか」
フィアナの声が震える。
「違う」
アシュは低く答える。
「あんな形は知らない」
その時、影の口元がわずかに開いた。
声が出るかと思った。
だが漏れたのは声ではなく、灰だった。
黒い粉が吐息のように零れ落ちる。
その瞬間、ルゥが激しく唸った。
同時に、フィアナの首元が白く光る。
「フィアナ」
「これ、駄目です……!」
フィアナが苦しげに言う。
「近づいちゃいけない感じがします。あれに触れたら、何か……引っ張られる」
アシュの眉が寄る。
こいつは単なる怪物じゃない。
フィアナの加護が“何か”として認識している。
しかも聖なるものとしてではなく、もっと歪んだ形で。
影が、もう一歩前に出る。
次いで、その奥にも、またひとつ影が現れた。
二体。
いや、三体。
森の奥にまだいる。
「走れるか」
アシュが訊く。
フィアナは一瞬だけ迷い、それから頷いた。
「はい」
「無理でも走れ」
言い終える前に、最初の一体が地面を蹴った。
速い。
ぎこちない見た目に反して、動きだけは異様だった。
アシュが前へ出る。
斬撃が閃く。
肩口を深く裂いたはずなのに、手応えが軽い。
肉を斬った感触じゃない。
乾いた木片を断ったみたいな、妙な抵抗だけがあった。
影は半身を失いながらも止まらず、長い腕を振るってくる。
アシュは身を捻って避け、返す刃で首を飛ばした。
黒い灰が散る。
だが、血は出ない。
「っ……」
斬った側のアシュの顔が険しくなる。
嫌な感触だった。
剣で断てる。
だが生き物を斬っている感じがしない。
その間に、二体目が横から迫る。
ルゥが飛んだ。
喉元に噛みつく。
相手の身体がぐらついた瞬間、アシュが胴を断ち切る。
崩れる。
だが地面に落ちた半身が、まだ指を動かしていた。
フィアナが顔を強張らせる。
「アシュさん!」
「下がれ!」
三体目はフィアナへ向かっていた。
狙いは明確だ。
アシュが踏み込もうとした、その瞬間。
白い光が広がった。
フィアナの前に、円環のような薄い結界が生まれる。
影の手がそれに触れた途端、じゅっと何かが焼ける音がした。
影が一瞬たじろぐ。
アシュが割って入り、斜めに斬り上げた。
今度は頭から肩まで深く断ち切る。
影はその場で崩れ、灰の塊になって散った。
静寂が戻る。
だが森の奥に気配はまだある。
近づいてくる気配ではない。
こちらを窺うような、じっとりした視線だけが残っていた。
アシュは剣を下ろさないまま言う。
「……ここは駄目だ」
フィアナは小さく肩で息をしていた。
首元の光が、まだ薄く残っている。
「あれ、何だったんでしょう」
「分からん」
アシュは正直に答える。
「ただの魔物でも異端でもない」
フィアナが森の奥を見る。
「でも……人に見えました」
「ああ」
アシュも否定しない。
否定できなかった。
焼けただれた顔。
焦げた布。
灰を吐く口。
見たくもない連想が、勝手に喉元までせり上がってくる。
アシュはそれを押し込めるように息を吐いた。
「行くぞ」
フィアナはまだ少し青ざめていたが、頷いた。
ルゥも低く唸りながら、今度はフィアナのすぐ横から離れない。
西へ少し迂回しながら、森を抜ける。
しばらく進んだところで、フィアナがふいに立ち止まった。
「どうした」
アシュが振り返ると、彼女は円盤を握ったまま、前方を見ていた。
「また、光が強くなってます」
アシュが近づく。
たしかに、昨日より。
さっきよりも、さらに白い線が濃くなっている。
ただの方角じゃない。
何かに引かれているような光り方だった。
「近づいてるのか……」
アシュが低く呟く。
フィアナは静かに頷いた。
「たぶん、もうかなり近いです」
その時、風がまた吹いた。
焦げた匂いが、今度はさっきよりはっきり届く。
灰祈りの村。
まだ見えていないはずなのに、その名前だけが先に胸の奥へ落ちてくる。
アシュはしばらく前を見つめたまま、何も言わなかった。
やがてようやく口を開く。
「……近いなら、なおさら慎重に行く」
「はい」
「次は、さっきみたいに正体の分からないものだけじゃ済まないかもしれない」
フィアナが円盤を握り直す。
「それでも、行きます」
アシュは短く息を吐いた。
「知ってる」
それだけ返して、再び歩き出す。
森の奥には、まだ見えない何かが残っている。
追手だけじゃない。
魔物だけでもない。
焼けたまま終わらなかったものが、この先で待っている。
少しずつ、
灰祈りの村の“普通ではなさ”が見え始めました。
ここからさらに、アシュの過去と世界の歪みが近づいていきます。
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