新生活1
結論から言うと、ぬか喜びかもしれないという心配は杞憂に終わった。
こちらで目を覚ました日の夜、その日のうちにやってきたトイレットペーパーを受け取ってから、念のため枕元に設けられた時計のアラームをこれまでの平日と同じ時間にセットした――悲しいかな、この世界が俺の見ている夢である可能性はまだ捨てきれなかった。
もしそうだったなら俺の悲しみはとてつもなく深いものになるだろうが、悲しいかな現代社会において悲しむ他に何もしないでいい時間など存在しない。
どれ程嫌っていようが、まだ退職してはいない以上時間通りに出社しないといけない――だから異世界に飛ばされたという正規の手続きを踏まないことを正当化できる理由はなによりも有難い。
祈るように眠り、そして、まだ眠い時間に叩き起こされた眼にぼんやりと見えたまだ見慣れない天井に、俺は言い知れぬ安堵を覚え、アラームを止めてもう一度眠りについたのだった。
次に目を覚ましたのは、日も随分高くなってから。
あくびを一つしてからゆっくり体を起こして伸びを一つ――漫画のような起き方。
時計に目をやるともうすぐ11時になろうとしていた。
「……よし」
ベッドから出て台所へ。据付の食器棚から適当なコップを一つとると、蛇口をひねって水を一杯流し込む。
一息ついてから、これまた据付の冷蔵庫の中を物色。
流石に食べ物はあまり入っていない――と思っていたが、プラ製の容器に入ったレトルト食品のようなものを発見。どうやら件の宅食サービスのサンプル品のようだ。
「食べてみるか……」
この世界でも冷蔵庫と電子レンジの使い方は変わらない。
ついでに言えば、レンジに入れる前にフィルムの端を少し開けておくのも、また。
5分後、食欲をそそる匂いを漂わせるアツアツのチキンカレーが、こちらに来て最初の食事となった。
朝昼兼用には少し足りないが、フィルムを見る限り本来の用途=昼食用には十分なボリュームと、申し分ない味だ。
「ふぅ……ごちそうさま」
今後食事はこの宅食サービスに頼もう――それを決めると同時に立ち上がり、流しで軽く空容器を洗うと、すぐ横にある黄色と黒の縁取りがなされたハッチを開く。
中身はゴミ袋が広げられた普通のごみ箱。日本でも普通にありそうなそれが少しそうした慣れ親しんだものと異なるのは、こちらでは分別が一切必要ないということ。
すべて纏めてこの袋に入れ、いっぱいになったら取り出して、持ち手の部分で縛って部屋の片隅にある壁際のハッチを開いてそこから投げ捨てるだけ。
ハッチの下の穴はそのままダストシューターになっていて、処理場まで自動的に送られる仕組みになっている。
その処理場で破袋して分別を行って焼却する。
家庭でやることは袋を縛って捨てるだけ。この世界の炉の性能からすれば、生ごみとビニールやペットボトルを分別する必要などないし、何より人口が極めて少ないためごみ自体の量が少ない――頭に埋め込まれたデバイスが教えるこのシステムの背景。
という訳で簡単に処理を終えると、洗面台に向かって歯を磨き、ついでに用を足して、タブレットで宅食サービスに申し込み――それからもう一度眠った。
報復性夜更かしなる言葉を聞いたことがあるが、今の俺の行動は恐らく報復性二度寝とでもいうものだろう。
これまで仕事やそれによるストレスで眠りたくても眠れないことだってあったのだ、解き放たれた今、まずやるべきことは満足いくまで眠り続けることだ。
これでいい。何しろ時間はいくらでもある。そしてやらなければならない事は存在しない。つまりこれまでの逆なのだ。ならば、行動も逆になるのが道理というものだろう。
次に目を覚ましたのは、玄関先の郵便受けと呼ぶには大きな荷物受けに早速宅食サービスが届けられた時だった。
ガタンという音で目を覚まし、音のした方=玄関の方へ行ってみると、窓の外の夕暮れの中を、丘の町に通じる坂道に向かって走り出すスクーターの姿が見えた。
「ご苦労様」
届かない声。明日は朝から配達が行われる。その時には言ってみよう。たとえ相手がそれを理解せずとも。
そう、理解はしない。あの配達員も、俺を拘束したコロニーレンジャーも、人間と寸分違わぬ姿ではあるが人間ではない。
バイオドール。この世界で普及している、いうなれば人間と同じ素材で作られた人型ロボット。
この世界の優れた科学力は、クローンの大量生産技術を確立して久しい。
その高い技術を用いて、意識のないまま短期促成したクローンの脳をAIに置き換え、肉体や神経を居抜き物件のように流用するこの“人型機械”は、この世界の安定した労働力としてあらゆる分野に用いられている――デバイスからもたらされるそのSFのような話も、実際に目の前に展開されれば信じるしかない。
実際、あのコロニーレンジャーの二人も、今にして思えば同じ顔をしていたような気がする――その事実を知らされてから記憶が書き換わっているのかもしれないが。
まあとにかく、お陰様で俺たち生まれながらの人間はこうして一日中寝ていてもいいという訳だ。
「さて……」
ともかく、配達された夕食分を取り出すと、一度冷蔵庫にしまってから風呂を沸かしに向かう。一日中寝ていただけなので別にいらない気もしたが、まあ一度ぐらい試しておく必要はあるだろう。
操作感は現代日本のそれと同じ。このコロニーがどういう文化圏なのかは分からないが、少なくとも浴槽に湯を張ってそこに浸かるという習慣は理解できない話ではないらしいということを、体育座りよりいくらかマシ程度とはいえ入ることのできそうなサイズの浴槽を見て直感。シャンプーとリンスとボディーソープも標準装備。
それから寝室のクローゼットを漁ってタオルと下着を用意。この辺も普通に生活できる量を支給してくれている。
風呂に入り、少し早い夕食をとって、あとは寝室に入ってするでもなくテレビをつける。
当然ながら放映されているのはこの世界のテレビ番組――といっても、ニュースの類は存在しない。唯一それらしいのは天気予報だけだ。
人口が極端に減少し、各地に点在するコロニーに少数が暮らすだけで、最早国家や社会と呼べるものが存在しない今、井戸端会議以上のニュースにするようなことがないのだ。
後はバラエティー番組と料理番組とスポーツ中継と音楽番組。といっても音楽番組はこの世界での音楽の流行りなど分からないため、それを見せられてもなんのことか分からないのだが。
「……」
いくつかザッピングし、それから電源をオフ。一応インターネットも使えるだろうが、何か面白そうなトピックがあるかと言われれば微妙なところだ。
思えば、人間とは不便なものだ。どれほど社会を毛嫌いしようと、何かに熱中せずに暇つぶしをしようと思うと社会に繋がらざるを得ないとは。
(つづく)
今日はここまで
続きは明日に




