始まり6
「ここが……」
「コロニー全体で見ればやや西側に属します。あまり人は立ち寄らない場所ですが、この丘を少し進んだ先には小さな町が一つ。電気やガスや水道もその町から届きますし、郵便や救急・消防も同様にこの範囲をカバーしていますので、安心してください」
「おや、こんにちは」
不意に入ってきた第三者の声に、俺たちは同時に振り向く。
声の主は六十歳は過ぎているだろう白髪の男。もう一軒の建物から出てきた彼が、こちらに手を振ってやってくる。
「こんにちは」
こちらも挨拶を返して会釈。思えば日本での暮らしで身についたのはこの「反射的に外の世界用の人格に切り替える」という技術ぐらいだった。
表情は一瞬で切り替わる。それに合わせて精神も余所行きのそれへと変わる――より正確に言えば、全てを意図的にマヒさせる。個人の感情も、もたらされる刺激からの想像も。
ただ受け答えする機械。相手が求めている何かを考えて、それに沿う機械。
「こちらは古賀雄一さん。昨日こちらにやってきたばかりの方です」
五百旗頭さんがその人物に俺を紹介してくれた。初めての人間に対して抱くピリピリした緊張も、今になっては懐かしい。
「古賀さん。こちらが新川義之さんです。数年前に古賀さん同様にこちらにやってこられて以降、あちらのお宅にお住まいです」
「新川です。よろしくお願いします」
「古賀です。こちらこそよろしくお願いいたします」
新川さんというその老人はにっこりと笑って俺を見た。
そしてそんな俺の習い性を見て、老人はなだめる様に続けた。
「――まあ、と言っても、あまり気にしなくていいですよ。お互いの生活をしましょう。私もその方が性に合っている」
それが何を意味するのかぐらい、俺には分かっている。
もしかしたら上司や先輩も口に出さないだけでそうだったのかもしれないが、俺の正体について見抜いていたのだ。
「なに、驚くことじゃない。そういう人だって少なくないし……ここで暮らしていくにはその方がむしろ向いている。なあカンナさん」
どうやらお互いに気心知れた仲なのだろう。下の名前で呼ばれたことに少しも驚いた様子もなく、五百旗頭さんは頷いてから俺の方に目を向ける。
「確かにそうですね。新川さんも、丘の町の人も、皆自分の思うように楽しくやっていますし、古賀さんも、無理なさらないで自分のやりたいと思う事をやってみてください。ああ、それと――」
「?」
「私の事は、何と呼んでいただいても結構ですよ。五百旗頭でも、カンナでも、他の呼び名でも」
どうやら気心が知れた仲という訳でなくてもいいらしい。
「分かりました。えっと……カンナさん」
何となく小恥ずかしいが、同時に下の名前で呼んでいる例を前にしてずっと苗字で呼び続けるのもなんだか堅苦しい気がしてそう呼ぶ。
それが間違いではなかったという事は、彼女の表情が物語っていた――多少の希望的観測を含めて。
「それでは、私はあちらの家にいますので、何かあったらいつでも来てください」
そう言って、カンナさんは丘の町に続くという細道の近く、ちょうどその始点に当たる場所に立てられたもう一つの簡素な建物を示すと、俺と新川さんに一礼してそちらに向かっていった。
「あ、あの――」
「はい?」
「ありがとうございました。あの、これから自分はどうすれば……」
ここまでの礼を言っておきたかったのと、俺をここに置いておく理由が分からなくて尋ねる。
あの兵士たち=コロニーレンジャーと呼ばれる二人がその場で殺さず、また拘束もせずにこうして家を与えて手錠もしないとなると、何か目的があるはずだ。
「何もしなくてもいいんですよ」
だから、返ってきたその答えをすぐには信じられなかった。
「古賀さんの好きなようにして頂いて結構です。勿論今日だけではなく、明日も、その次も、ここにいる限りずっと」
「まあ、そういう事さ」
どう答えていいのか分からない俺に、新川さんが続けた。
「ここでの我々の仕事は、ただ生きていることだけだ。何か好きなことがあるのならそれをしてもいいし、何もしたくないなら一日中家に閉じ籠っていてもいい。ここはそういう所さ」
彼の補足で十分と判断したのだろう――カンナさんも、彼自身も。
「では、何かありましたら呼んでくださいね」
「まあ、すぐに慣れるさ」
二人がそれぞれの家に戻っていくのを見送ってから、俺はしばらくぼうっと辺りを見回していた。
雲がかかり乳白色の空。時折南から吹く涼しい風には、少しだけ海の臭いがする。
家の前を横切ってその風に向かっていくと、現れたのはその臭いの元。
崖の下を地形に沿って東西に走っている片側一車線の舗装道路の向こう、その道路が防波堤になるように、数m程低いところに灰色の海岸線がテトラポットにぶつかって定期的に白い波を立てている。
乳白色の雲に覆われた空と繋がるまで果てしなく続いている灰色の海。なんとも寒々しい光景。
「……」
だが、不思議と落ち着く風景だった。この世の果てまで続いていそうな長い海岸線の、ここより少し西に行った場所にぽつんと建っている古い灯台もまた、妙にこの景色に馴染んでいるような気がして、俺に芸術的センスというものがあるのならより感動したり何か創作意欲を刺激されたりするのだろうと思うような姿だった。
「……ふん」
だが生憎、そんな立派なものは持ち合わせていない。涼しい風が肌寒さに変わってきた辺りで、俺は踵を返して新たな我が家に戻った。
改めて確認する。間取りは1DKで、玄関から見て左側がダイニングとキッチン。右側が先程まで寝かされていた寝室だ。
そしてその二つの部屋の間=今こうして立っている玄関の真正面にあるのが風呂とトイレ。有難いことにウォシュレットと便座暖房も完備。トイレットペーパーはダブルが三個。
「とりあえずこれか……」
在庫を確認した後で寝室に戻ると、ベッドのサイドボードに置かれていたタブレットを起動する。
これもコミュニケーションデバイスの機能なのだろう。必要な物品はこのタブレットで注文すれば1~2日後には配達されるという事は、何の説明も受けずとも頭の中に入っていた――タブレットの使い方は日本の居酒屋のそれと同じく直感で動かしているが、それで全く問題ないのだから大したものだ。
「とりあえず1パックでいいか」
物は試しとトイレットペーパーを注文。ものの性質上緊急を要する場合もあるからか、今日の夜には届くという至れり尽くせりぶりには驚きや喜びを通り越して、大事に扱われ過ぎているという妙な不安感さえ覚える。
とにかく、生活必需品や食料品――これに関しては宅食サービスも存在するようだ――から、嗜好品その他に至るまでこれ一つでなんだって揃う訳だ。おまけに無料で。
「ふぅ……」
ベッドに寝転がり、その柔らかな感触に身を委ねながら考える。衣食住が保障され、しなければならない仕事もない。
――これはひょっとして、俺が望んだ世界なのではないか?
「……ッ!」
そこに思い至って、上体を起こす。
「ふっ、ふふふ……」
勝手に口から音が漏れる。口角が吊り上がり、引き裂かれたように口が動く。止めようとしても一切の命令を受け付けない。
まだ油断はできない。ぬか喜びはあとでダメージを大きくする――そんな理性の警告すらも、湧き上がってくる感情の前では暖簾に腕押し糠に釘だ。
「ハハハハハッ!」
その名前も分からない感情が皮膚を突き破らんばかりに爆発に、俺は随分久しぶりに笑った気がした。
(つづく)
今日はここまで
続きは明日に




