始まり3
「……ふふっ」
思わず漏れたのは、少し芝居臭いと自分でさえ思うほどの気取った笑い。
奇妙な気分だった。
今まさに俺は死にに行く。なのに感じているのは興奮と恐怖の50:50だ。
腹の底からは奇妙な寒気が駆け上がってくる。脳の中にこびりついていたまともな部分=これまでの人生でそぎ落とせなかった部分が声を上げる:このままいくと死ぬぞ。
だがもうまともではない部分=他の全ての部分は、そうした反作用をねじ伏せて足を奥へと進めていく――情けなく震えながら。
「ハ、ハ、ハ……」
震えは止まらない。
肌は粟立っている。
これが武者震いというものか――自らの命を捨てに行くくせに。
「ん?」
ふと、足を止める。
理性の逆転勝利――ではない。
「エレベーター……?」
このマンションは既に廃墟になって久しい。当然誰も住んでいないし、それ故に上の階へ上る諸々など本来は不要だ。
だが、俺の目の前には先程の落雷の光が残っているかのように煌々と光を放つエレベーターが、まるで接近した相手を察知したかのように口を開けていた。
「雷が落ちたから……なのか?」
特別電気に詳しい訳ではない俺には、そういう事があり得るのかどうかは分からない。
だが、目の前に見えているのが幻ではないならば、確かに動かなくなって久しいはずのエレベーターは光を放っている。
「……」
少しの間止まっていた俺の足。数秒後に再び動き出したそれは、横にある階段ではなく、正面のエレベーターに向かっていた。
藤波コーポは大きい。えっちらおっちら真っ暗な中階段を登っていくのは中々に骨だ。
「早いところ上に……」
エレベーターで最上階まで行けばだいぶ時間短縮になる。雷だっていつまで鳴っているか分からないのだ。善は急げだ。
箱の中に乗り込む。打ち捨てられた廃墟には不釣り合いな、ついこの前まで稼働していたようなその中へと進み、最上階のボタンを押す。
どう考えても怪しいエレベーター。
だが、それがどうした?どうせ俺は今から死ぬのだ。怪しかろうが何だろうが、目的地まで手早く簡単にたどり着けるのならそれでいい。
おかしな話:全てをうっちゃって死にに行くタイミングで、人生で初めて肝が据わるというものなのだろう経験をしている。
「ふん……」
まあ、仕方ない。
そういう人生だったのだ。
それももうすぐで終わりだ。
雷に打たれれば一瞬。それで全部終わり。
生憎死後の世界など信じていない。だから全部終わりだ。全てを放り投げることが出来る。煩わしい全て、仕事も、人間関係も、将来も、過去も、俺自身も何もかもすべて。
なら、今更己の情けなさなど、一々気にする必要はない。どうとでも言うがいい。俺はあと少しで勝ち逃げする。お先に失礼させてもらう。異論は認めない。
エレベーターの扉がゆっくりと閉まる。完全に箱が密閉され、そして――消灯。
「えっ」
思わず声を上げ、自分が廃墟の一部だと思い出したその箱の、先程まで光っていた最上階のボタンを何度も押す。
続いて一階のボタン、そして扉の開閉。
結果はみんな同じ=一切無反応。
「なっ……、おいおい……」
何度もボタンを押し、一度は扉に手をかけて自力で開けられないか試みる。
だが、結果は同じだった。
当たり前だが、ここは廃墟のエレベーター。動くはずなどない。
暗闇の中に閉じ込められる時間が一秒また一秒と増えていくたびに、それに比例して俺の中の後悔と焦りもまた大きくなっていく。
もう終わりのはずだった。
この世とおさらばできるはずだった。
痛みも苦しみもなく、一瞬で逝けるはずだった。
「なんでだよ……っ!なんで……」
なのにこれでは、もうどうしようもない。
廃墟のエレベーターに閉じ込められる。当然、誰も使う事のないエレベーターだ。誰かが通りかかることも無ければ、外部との通話ボタンが機能するはずもない。
俺に残されたのは餓死か脱水による死か、まあその辺だ。
つまり、痛みも苦しみもなく一瞬で、などという望みとは遠くかけ離れた、辛くて苦しくて、きっと最期の一瞬まで後悔し続けるだけの死。
「っんだよ!!」
壁となった扉が鈍い音をたてて、手の骨に重い痛みが走る。
死すらも、俺を苦しめるのか。
「なんだよ……なんだよ……」
声が震えたのは何年ぶりだったか。
結局この世界は、最期の瞬間までずっと俺の敵だった。
何一つ自由になどならない。何一つ思い通りになどならない。己の命一つさえ、最後の最後で俺を裏切った。
「なんだよ……なんなんだよ……」
この世界は全て敵だ。この世界は全て俺を嫌っている。
その事実だけで、暗闇の中で膝を抱えるのには十分すぎる。
「もう嫌だ……」
ようやく口をついた言葉。
「……助けてくれ」
それが、ようやく言語化できた本心だと、言葉にしたところで初めて理解した。
そうだ。俺は死にたい訳じゃなかった。
ただ楽になりたかった。辛い思いをしたくなかった。もうこれ以上無理をしたくなかった。
甘えだというなら言えばいい。他責だというなら言えばいい。何やら小難しい理屈を並べて説教したいならすればいい。そんなものは朝の挨拶より聞いてきた。今更耳を傾ける気にもならない。
ただ、俺はもう何もしたくないだけだ。お前らの正しいご指導を賜るのもしたくないだけだ。
そしてそれが叶わないから、次善の策としての死だった。
そうだ。俺は死にたくなんてなかった。仕方なく死ぬしかなかった。
全部うっちゃって、全てから切り離されていたいだけだった。現世でそれを実現する方法が死だけだった。
その次善の策が、ひどい苦痛を伴うものに決定した。
最期まで俺は苦痛から逃げられないらしい。
「ッ!!」
その事実に打ちひしがれた時、その俺の心情を表すように、もう一度爆発音のようなものが轟いて、辺りを真っ白にするほどの閃光が迸った。
もう一度雷が落ちた。そう理解した瞬間、真っ暗な箱の中に光が戻る。
そしてそれに気づいたのと同時に、往時の光源を取り戻したエレベーターは、低い唸りをあげながら上階を目指して動き始めた。
「いや、ちょっと……」
俺がこのエレベーターを使うのは初めてだ。
当然、廃墟のエレベーターなんて乗ったことも無いし、本来動くはずもないのだが、それでもはっきりとこのスピードは異常だと分かる。
外は見えないが、押しつぶさんとするような重力と、表示されている、目まぐるしいペースで変わっていく階数が、その感覚の間違っていないことを示している。
「!?」
そしてその回数表示が88で固定される。当然、この建物にそんな高さはない。
だが当の機械はお構いなし。一切減速する気配もなく、そのスピードであるならとっくの昔に最上階に到達しているだろう時間を過ぎても唸り声と上昇が止まることはなかった。
今自分がどこにいるのか、たったそれだけの事が分からない。
唯一それを教えてくれるはずの階数表示は88のまま固定され――そして、耳障りなガタンという衝撃音と共に消えた。
(つづく)




