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拝啓、後夜祭より  作者: 九木圭人
始まり
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始まり2

 目の前の問題に本気で取り組まなくなったのも同じ理由からだったと思う。いつだってなんだって、誰か他人が絡むことは一歩引いていた。だって、そうしなければぶつかり合う。ぶつかり合えば喧嘩になる。喧嘩になれば無条件で悪いのは俺だ。

 相手に殴られたから殴り返して、そこでたとえ勝利しても「泣くまで殴った俺が悪い」という答えはすぐに出た。

 なにかの問題にぶつかった時、過失は常に俺にあった。何でかは知らないし重要じゃない。そういうものだった。太陽が東から昇る理由を知らずとも、お構いなしに太陽は東から昇るのだ。


 だから俺は、嫌な思いをしないための最適解を選ぶしかなかった。つまり、誰とも関わらず、何事にも本気にならないという態度しか。

 誰かが俺と同じものを欲したら、俺はただ無条件で相手に譲る。

 俺が正しいと思う考えが多数派でなかったら、俺はただ黙って周りの決定に従う。

 誰かが何か嫌でたまらないことを俺に頼んで来たら、俺は諦めてそれを受け入れる。

 それ以外に選択肢などない。そうしなければ、余計に厄介なことになるのだから。

 そうした経験だけを積み重ねた人間が、他人も社会も嫌いになるのに長い時間はいらない。


 友達なんかいらない。

 仲間なんかいらない。

 社会なんかいらない。

 何もかもいらない。


 それが幸いなことなのかは分からない。だが俺には一人でいることも何もしないでいることも、決して苦痛ではなかった。社会が気に食わないから一人でじっとしている。それがいくらでも出来る人間だった。

 だが、残念なことにそれを貫き通せるほどの金銭的余裕も、何らかの秀でた一芸もなかった。

 つまり、嫌いで、憎くて、恐ろしい、誰かとの関わりを常に持っていないと生きられない生き物に生まれついてしまった。


 大学を出て、就職できるなどとは到底思えなかったが、かといって何もしないでいられる訳でもない。

 働き始めて、俺は強制的に他者と触れ合うことになった。

 その頃の俺には学生時代のアルバイトで得た経験から来る戦略だけ。緊張と恐怖、そして憎悪。それらを隠して生きていかなければならない。その環境が、俺に一つの技術を与えた――他人の中で、敵の中で敵意を抱かれずに息を潜める方法を。彼ら彼女らの考える普通の人間のふりをするという方法を。

 潜水艦やステルス機のようなものだ。見つかればやられる。なら、見つからずに息を潜め続けるしかない。外の人格――便宜上そう呼ぶものが形成されていった。


 家を出る時に意識せずに人格を入れ替えられるようになったのは、働き始めてからどれぐらいの頃だっただろうか。

 ある意味、俺は役者のようなものだった。家を一歩出た瞬間から、或いは電話がかかってきた瞬間から、俺は外用の俺を演じるのだ。敵の中で生き残るために、敵に狙われないために。

 存在し、介入し、しかし同時にそこに俺は存在しない。余所行き用の仮面だけだ。

 全部上手く行っていた――はずだった。


「なあ古賀、ちょっと自分でヤバいとか思わない?」

 いつの日か、上司からそう言われない日はなくなっていた。

 他者に感づかれないように生きたところで、周りはそんなこと気にしないで仕事に集中できる。

 人付き合いも出来なければ、円滑なコミュニケーションなども夢のまた夢の俺に、そうした連中の中で落ちこぼれないでいるなど、土台不可能な話だ。

「もう新人じゃねえんだからさ、自覚持てよ少しは」

 それが毎日降り注ぐ。改善?出来る訳がない。俺の改善するスピードなどより、世の中の進むそれの方が遥かに速いのだから。


 毎日、ただ耐えるだけの日々だ。

 毎日怒鳴られ、出来ない仕事を抱え込み、深夜まで残業して、その分の残業代は申請しない――そんな暮らしが三年目。

「……」

 駅に向かう途中にある公園で足を止め、犬を散歩させている老人の方をちらりと見る。

 こんな暮らしなど、一体なんの価値がある。

 だが、もう十分なのはそんな暮らしだけじゃない。

 そんな暮らししか出来ないだろうこの世界など、もう十分だ。

 別の仕事など見つけてどうなる?どうせ同じことを繰り返すだけだ。


 今だから言える――学生時代の俺の行動は、将来性を捨ててのその場しのぎだった。

 そして今だから分かる――そんなこと言って、あの当時にそれ以外の方法なんかなかった。

 一年経つごとに人間関係を誤ることのリスクが増大していく中で、教師も親も頼れない中で「死なない為に逃げる」以外の選択肢などない――それが俺の半生だ。

 それが出来る時間が終わり、そうでなかった人間と同様に振舞う以外に選択肢がなくなって、それが出来ない人間には居場所などない。


「……」

 重い足で地面を蹴る。行くつもりもない職場に向かうため、駅に向かって歩き出す。

 どこかで薄っすら分かっていた。ことここに至って、あと問題になるのは一つだけ。

 つまり、死への恐怖を如何に克服するのか、という点だけだ。

 第一藤波コーポという廃マンションの前を通過。そこから出てきた二人=同年代ぐらいの男と高校生ぐらいの少女が、なにやら言葉を交わしてお互いに背を向けて歩き出した。


 男:何やら達成感に満ちた表情=俺には久しく縁のないそれ。


 火曜日。朝起きた時から空は鉛色。夕方には雨が降り始め、家路につく頃には雷も鳴り始めた。

 いつものように怒鳴られ、嫌味を言われ、そして「お前みたいな人間どこに行っても通用しないよ」というお決まりの台詞。

 そんなことは言われなくても分かっている。だから甘んじて嫌味も癇癪も堪えていた――今日までずっと。

「……」

 重い足取り、裾の濡れたズボンと、雨水のしみ込んだ革靴が、第一藤波コーポの前で止まる。

 ふと思い立って、その廃墟を見上げる。家には転がっている、昔用意して結局使えなかった輪を作ったロープが稲妻とともにフラッシュバックする。


「……」

 古ぼけた大理石のエントランスは、一歩進むごとに俺の自重で靴から雨水を絞り出させた。

 結局、恐怖を克服することなど出来はしない。まだどこかで挽回できると思っているのか、或いはただ単に命が惜しいだけかは分からないが。

 しかし雷なら好都合だ。

 飛び降りるのも首を吊るのも恐くとも、アレに打たれれば一瞬だろう。

 そんな覚悟とも気持ちの整理ともつかない感情に比べると間抜けな足音を、濡れた靴とエントランスの大理石が一歩ごとに発する。


 真っ暗なエントランス。その中に響く濡れた靴の音。

「ッ!?」

 唐突に電力が復旧したかのように辺りに明るさが戻る――ほんの一瞬だけ。

 同時に轟いた爆発音のような凄まじい大音量が、その光と同時に足音をかき消す。

「落ちたのか……」

 恐らくこの建物だろう。

 避雷針がまだ残されているのかは分からないが、どうやら幸先はよさそうだ。

 今ならまだ、二発目に間に合うかもしれない。


(つづく)

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